桐壺の帖 四、靫負の命婦、母北ノ方を見舞う。

(現代語訳)
 台風が通り抜けた後の夕暮れは肌寒く、いつもより御息所が偲ばれる。ミカドはユゲイの命婦という女官を実家に向かわせた。出発の頃には夕方の月が、気持ちよさそうに浮かび、本人は思いに耽っている。「こんな晩は演奏会をしたものだ」と浮かぶ記憶に任せるまま、琴の音色を優雅にうねらせ歌たいだす。誰のものでもないあの姿がちらついて寄り添っているかのような気分になるが闇にまぎれた幻でしかないのであった。一方命婦は御息所の実家に到着し、車を門の中に引き寄せた。哀愁いっぱいの庭である。女やもめ暮らしではあったが一人娘に恥をかかせまいと隅々まで気配り後ろ指を指されぬよう暮らしていたが、今では娘を偲び泣き暮らす闇の中である。庭は生い茂った雑草が風で薙ぎ倒されて荒れる果てている。月の光だけがヤエムグラの葉を透かすのだった。

 車は屋敷の南側に停車し、命婦を降ろす。迎える母君は、しばし口ごもる。そして、

 「今日まで生き延びたことさえ辛い身ですのに、ミカドの使者が深い雑草をかき分けて来たので恥ずかしくて仕方ありません」

と堰き止めていた涙を溢れ出させる。命婦は、

 「訪ねると痛々しく気が滅入ったと言う典侍の報告を聞いておりましたが、私のような感情の起伏が乏しい者でも堪えられません」

と前置きして、言づてを伝える。

 「夢の中の出来事だと現実逃避していたが、だんだん冷静になって夢から覚めてみると現実の出来事だった。とてもやるせなく、どうしたら救われるのかを語り合う人もいないので、人に見られぬよう後宮に来てくれないか。息子が湿っぽい屋敷で暮らしているのも耐えられないのだ。早く連れてきてくれ、などと嗚咽混じりに弱々しく人目を憚らない姿が痛々しく終わりまで聞かずに後宮を出発しました」

と手紙を差し出す。

 「目が腫れて見えなくなっていますが、その言葉を光として受け取ります」

母君は手紙を受け取る。

 「時が解決すると思っていたが、月日が経つにつれ悲しみが膨れ上がるのはどうしてか。息子のことを考えても共に育てることができず無念で悔しい。今となっては人の忘れ形見だから息子を連れて来てくれ」

などと胸がはち切れんばかりに書き付けてある。

 「秋草に風が涙を飛ばす時ちいさな萩の息子を憂う
 息子が心配なのです」

とあるのだが、母君は最後まで読むことができない。

 「長く生きるのはとても辛いと知りました。松の木にまで引け目を感じるのです。そんな私が後宮に出入りなどできるはずもありません。ミカドの畏れ多い言葉と引き替えにしても無理なのです。ただ若宮のことだけは、お考えがあってのことでしょう。早く宮中呼び寄せたいのはじゅうぶん承知で悲しんでおります、とお伝えください。私はこのような身の上ですので後宮では不吉なだけでなく、もったいないばかりです」

などとばかり言う。若宮はもう夢の中だ。

 「若宮の顔を拝見して様子を伝えたいのですがミカドがお待ちです。夜が更ける前に」

命婦は帰りを急ぐ。

 「子を持つ親の悲しみが作った悲しい暗闇のカケラだけでもお話しして慰めていただきたいので、もう一度プライベートでお越しください。昔は祝い事の伝令だったあなたが、このように悲しいお遣いとして訪ねてくるのだから残酷な運命です。生まれてからの期待の娘でした。夫の大納言が死に際まで『娘の宮仕えをよろしく頼む。私の死を言い訳に甘ったれて挫けることのないように』と何度も繰り返していました。しっかりと後押しできない家の娘が嫁ぐには壮絶な世界だとは知りながら、遺言に背かず踏ん張りました。皇帝の特別扱いが他人の癪に障ったのか、人とも思えぬ仕打ちを受けながらも何とか頑張っていたようです。それでも同僚の恨みを買って最後は犬死にしました。今ではミカドの特別扱いを、かえって恨んでしまう始末です。親心がこのような無茶を言わせるのかもしれません」

と母君がむせ返りながら語る間に夜が更けた。

 「ミカドも同じお気持ちです。盲目の恋をして人を惑わせてしまった。儚い運命を辿れば苦しい恋だった。人を苦しめるつもりは一度もないのだが、この恋が恨まれる必要のない人を恨ませ、その結果あの人は死に、私はひとりぼっちになってしまった。荒れ狂う気持ちだけそのままで、ますます間の抜けた男になってしまったのだから、いったい前世でどんな約束をしたのだろうか、といつもぼやいて泣くばかりです」

話は募るばかりだ。命婦もただ泣くばかりで、

 「夜も遅くなったので、今夜のうちにミカドに報告しなくては」

と急いで立ち上がった。

 月の光が山の端に消えかかっている。透き通った秋の空に冷たい風が吹き抜けて、草むらから聞こえる虫の合唱が淋しく響いて立ち去りがたい名残惜しさだ。命婦は、

 泣き足りずふるえる秋の長い夜まるで我らは鈴虫のよう

と一首詠み、車に乗るのを躊躇っている。

 「草むらで泣き暮らしている鈴虫をふるわせるのは天のお遣い
 このような我が儘もお許しください」

と歌い返して渡す。気の利いた物を贈る場面でもないので、こんな時があるかも知れないと思って用意しておいた娘の形見の衣装一揃えと髪飾りを添えた。

 この屋敷に仕える若い女たちの悲しみもひとしおだ。朝から晩まで後宮の生活が身にしみているのだから、寂しく耐えられない。ミカドを思い出して噂をしたり、母君に早く後宮に移るよう懇願するのだった。それでも母君は「こんな面倒な婆さんが若君のお供をするのはみっともない。だからといって、しばらく若君と離れて暮らすのも心配だ」と逡巡して移住しないのだった。


(原文)
 野分だちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦といふを遣はす。タ月夜のをかしきほどに、出だし立てさせたまひて、やがてながめおはします。かうやうのをりは、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりはことなりしけはひ容貌の、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現にはなほ劣りけり。命婦かしこにまで着きて、門引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人ひとりの御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐしたまへる、闇にくれて臥ししづみたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ、八重葎にもさはらずさし入りたる。

 南面におろして、母君もとみにえものものたまはず。

 「今までとまりはべるがいとうきを、かかる御使の、蓬生の露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなん」

とて、げにえたふまじく泣いたまふ。

 「『参りてはいとど心苦しう、心肝も尽くるやうになん』と、典侍の奏したまひしを、もの思うたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうはべりけれ」

とて、ややためらひて、仰せ言伝へきこゆ。

 「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひしづまるにしも、さむべき方なくたへがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひあはすべき人だになきを、忍びては参りたまひなんや。若宮の、いとおぼつかなく、露けき中に過ぐしたまふも、心苦しう思さるるを、とく参りたまへ』など、はかばかしうも、のたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに、うけたまはりはてぬやうにてなん、まかではべりぬる」

とて御文奉る。

 「目も見えはべらぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなん」

とて、見たまふ。

 「ほど経ばすこしうちまぎるることもやと、待ち過ぐす月日に添へて、いと忍びがたきはわりなきわざになん。いはけなき人をいかにと思ひやりつつ、もろともにはぐくまぬおぼつかなさを。今はなほ、昔の形見になずらへてものしたまへ」

など、こまやかに書かせたまへり。

 宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ

とあれど、え見たまひはてず。

 「命長さの、いとつらう思ひたまへ知らるるに、松の思はむことだに、恥づかしう思ひたまへはべれば、ももしきに行きかひはべらむことは、ましていと憚り多くなん。かしこき仰せ言をたびたびうけたまはりながら、みづからはえなん思ひたまへ立つまじき。若宮は、いかに思ほし知るにか、参りたまはむことをのみなん思し急ぐめれば、ことわりに悲しう見たてまつりはべるなど、うちうちに思ひたまふるさまを奏したまへ。ゆゆしき身にはべれば、かくておはしますも、いまいましう、かたじけなく」

など、のたまふ。宮は大殿篭りにけり。

 「見たてまつりて、くはしう御ありさまも奏しはべらまほしきを、待ちおはしますらむに。夜更けはべりぬべし」

とて急ぐ。

 「くれまどふ心の闇もたへがたき片はしをだに、はるくばかりに聞こえまほしうはべるを、私にも、心のどかにまかでたまへ。年ごろ、うれしく面だたしきついでにて、立ち寄りたまひしものを、かかる御消息にて見たてまつる、かへすがへすつれなき命にもはべるかな。生まれし時より、思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、ただ、『この人の宮仕の本意、かならず遂げさせたてまつれ。我亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、かへすがへす諌めおかれはべりしかば、はかばかしう後見思ふ人もなき交らひは、なかなかなるべきことと思ひたまへながら、ただかの遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、身にあまるまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥を隠しつつ、交らひたまふめりつるを、人のそねみ深くつもり、やすからぬこと多くなり添ひはべりつるに、よこさまなるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしを思ひたまへられはべる。これもわりなき心の闇に」

など、言ひもやらず、むせかへりたまふほどに、夜も更けぬ。

 「上もしかなん。『わが御心ながら、あながちに人目驚くばかり思されしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになん。世に、いささかも人の心をまげたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひしはてはては、かううち棄てられて、心をさめむ方なきに、いとど人わろうかたくなになりはつるも、前の世ゆかしうなむ』と、うち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」

と語りて尽きせず。泣く泣く、

 「夜いたう更けぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」

と急ぎ参る。

 月は入方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声々もよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。

 鈴虫の声のかぎりを尽くしても長き夜あかずふる涙かな

えも乗りやらず。

 「いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おきそふる雲の上人
 かごとも聞こえつべくなむ」

と、言はせたまふ。をかしき御贈物などあるべきをりにもあらねば、ただかの御形見にとて、かかる用もやと残したまへりける、御装束一領、御髪上の調度めく物、添へたまふ。

 若き人々、悲しきことはさらにも言はず、内裏わたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば、とく参りたまはんことをそそのかしきこゆれど、かくいまいましき身の添ひたてまつらむも、いと人聞きうかるべし、また見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう思ひきこえたまひて、すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり。


(注釈)
1 野分
 ・秋に吹く激しい風のこと。台風。「野分だつ」は、野分の風が吹くこと。

2 命婦
 ・中級の女官の称号で、父や夫の官名をつけて呼ばれた。

3 典侍
 ・【ないしのすけ】内侍司の次官である女官。

4 宮城野
 ・仙台市の東にある平野。昔は秋草の名所。歌枕でもあった。