帚木の帖 十一 ゲンジの君の方位除け

(現代語訳)
 翌朝、やっと雨が上がった。ゲンジの君は、こうまで引きこもっていると左大臣家の人に悪いと思い、後宮を後に訪ねてみる気にもなった。家の様子はさっぱりしている。アオイも垢抜けて、取り乱すこともない。やはりこの人も昨夜の話にあった、放っておけない女の一人だろうと安心するのだが、あまりにも淑やかで、逆に近寄りがたいのだった。アオイのツンツン顔が歯がゆくて、ゲンジの君は中納言の君だとか中務という、女官の若い美少女たちと冗談などして戯れあう。蒸し暑さに着物をはだけているゲンジの君の姿に、女官たちは夢見心地で眼差しを向ける。そこへ左大臣もやってきた。リラックスしているゲンジの君を気遣って、仕切りの向こうから話そうとすると、ゲンジの君は「こんなに暑いんだから」と顔をしかめた。女官たちが笑い出すので「静かに、静かに」と言って、肘掛けに寄りかかってくつろいでいる。

 暗くなって、

 「今夜、この御殿から後宮までが天一神の通り道になっていまして、方角が凶です」

と、家来が知らせた。

 「そうだった」

と答える。普段なら避ける方角なのだ。

 「二条院の里邸も同じ方角だ。暑くて怠いのに、どこへ行ったらいいのやら」

と面倒くさそうにゲンジの君は寝てしまう。慌てて「それはなりません」と家来が制する。

 「親しくされている紀伊のカミの所があります。最近あの家が中川を池に引き入れて涼しそうですから」

と他の家来が言うので、

 「渡りに船だ。何もしたくないのだから牛車のまま入れる所がいいね」

と他人事のようだ。今夜の方位除けに行く愛人の家などは、いくらでもあるのだが、久々の左大臣家である。「方位除けにかこつけて別の女の元に向かうのね」とアオイに思われるのが嫌だったのだろう。紀伊のカミを呼んで「泊めてくれ」と言う。紀伊のカミは屋敷に戻ってから、

 「父の伊予のスケ朝臣の家にも方位除けがあって、女官たちが泊まっているんだ。狭い家だから失礼なことにならないか」

と悲鳴を上げたが、ゲンジの君が聞きつけて、

 「そうやって人が近くにいるのがいいんだ。女っ気がない旅の夜は怖くて眠れそうにないからね。女官がいる部屋の仕切りの後ろに寝かせてくれなかな」

と戯れる。

 「それならばもってこいの宿です」

と家来たちも言い、紀伊のカミの元へと遣いを走らせる。忍びの旅だ。たいした場所じゃないからと急いだので、左大臣にも挨拶をせずに側近だけを連れて出発した。紀伊のカミが「突然のことだから」と迷惑そうにしているが、誰も聞く耳を持たない。屋敷の東向きの部屋を片付けさせると、ゲンジの君の寝床になった。流れる水がそよそよと流れ、見事に造園された庭がある。結んだ芝垣を秘境のようにめぐらせて、植えてある木や草も手間がかかっている。風が吹き抜けると涼しく、草の中から虫の声が聞こえた。蛍が光っては消えていく幻想的な光景なのだ。側近たちは、渡り廊下に腰掛け、流れる水を眺めて酒を飲んでいる。紀伊のカミは肴を調達しようと「こゆるぎの磯」ではあるまいが、忙しく奔走している。そんな気も知らずにゲンジの君は景色を眺めながら、「中将たちが中流階級と言っていたのは、こんな感じの家だろう」と思っているのだった。のちに空蝉【ウツセミ】と呼ばれる伊予のスケの妻は、プライドの高い姫君だと聞いたことがあるので「どこにいるのだろう」と耳を澄ませば、屋敷の西側に人の気配がした。ひらひらと衣擦れの音と、若い女の声が心地よい。それでも、笑い声をこらえているのでよそよそしくもある。窓が吊し上げてあったが、紀伊のカミが「はしたない」と下げてしまった。今は灯りが漏れて襖に影を作っている。ゲンジの君は、忍び足で近寄ってみた。覗いてみたいのだけど隙間がない。仕方がないので聞き耳を立てると、自分の部屋の近くにいるのだろうか、小さな声で話しているのが聞こえるのだった。どうやら女たちはゲンジの君の噂をしているらしい。

 「とても誠実ぶって、若いのに上流階級の奥方様までいらっしゃるから寂しいんでしょう」

 「でも、内緒で通う家もたくさんあるそうよ」

などと話している。ゲンジの君の頭の中は藤壺の宮でいっぱいだから、これを聞いてハッとする。「こんな噂話を、あの人が聞いたとしたら」と心配になってくるのだった。しかし、この噂話は下らなそうなので最後まで聞く必要はないようだ。女たちは、ゲンジの君が式部卿宮の姫君に朝顔の花を贈った時の和歌などを、少し間違えて話している。ときどき和歌をゆっくりと口ずさむので、ゲンジの君は物足りなく感じる。紀伊のカミがやってきて、灯りを増やして部屋を明るくすると、菓子などをもてなすのだった。

 「我が家に暖簾をかけて、大君が来ました、婿にしようっていう歌があるだろ。そういう色っぽいもてなしがないとは、けしからん家の主だ」

とゲンジの君は悪戯っぽく言う。

 「何が良いのか思いつかない不器用な主です」

紀伊のカミは、神妙な顔で誤魔化している。ゲンジの君は隅の部屋で仮眠のように横になっている。側近たちも静まりかえっている。紀伊のカミにはあどけない子供がたくさんいて、後宮に仕えている見知った顔もいる。伊予のスケの子も往来していて、大勢の中に、とても可愛らしい十二三際ぐらいの子がいた。ゲンジの君は「どの子が誰の子なのか?」と質問する。

 「あの子は死んだ故衛門督の末っ子で、可愛がられていたんですが、幼くして親を亡くしました。姉を頼ってここにいるんです。賢くて非凡に思えるので宮仕えさせたいのですが、思った通りにはいきませんね」

紀伊のカミが言う。

 「可哀想に。するとこの子の姉が君の継母なのか?」

 「そうです」

と答えた。ゲンジの君は、

 「ずいぶん若い母親だ。不釣り合いだね。その人のことはミカドも知っているよ。『宮仕えに出したいと聞いたが、どうしているか』と、いつだったか話していたんだ。人の運命は予想できないね」

などと、ませたことを言っている。

 「瓢箪から駒でして。男女の縁というのは、今も昔もタイミング次第ですね。特に女の運命は儚くて痛ましい」

紀伊のカミが言う。

 「伊予のスケは、この姫君を君主のように大切にしているんだろうね」

 「言うまでもないです。神様のようにあがめ奉って……。年甲斐もないと、私たち家族は文句ばっかりですよ」

 「まあ、君のような現代青年に譲ったりはしないよ。伊予のスケは女たらしだ。それに若作りもしている」

と、ゲンジの君が言う。

 「それで、彼女はどこにいるの?」

 「女官たちは下宿に移したのですが、入りきれず残っているんです」

ゲンジの君の側近たちは酔っぱらい、廊下にへばりついて眠っているようだ。


(原文)
 からうじて、今日は日のけしきも直れり。かくのみ篭りさぶらひたまふも、大殿の御心いとほしければ、まかでたまへり。おほかたの気色、人のけはひも、けざやかに気高く、乱れたるところまじらず、なほこれこそは、かの人々の捨てがたくとり出でしまめ人には頼まれぬべけれ、と思すものから、あまりうるはしき御ありさまのとけがたく、恥づかしげに思ひしづまりたまへるを、さうざうしくて、中納言の君中務などやうのおしなべたらぬ若人どもに、戯れ言などのたまひつつ、暑さに乱れたまへる御ありさまを、見るかひありと思ひきこえたり。大臣も渡りたまひて、かくうちとけたまへれば、御几帳隔てておはしまして、御物語聞こえたまふを、「暑きに」と、にがみたまへば、人々笑ふ。「あなかま」とて、脇息に寄りおはす。いと安らかなる御ふるまひなりや。

 暗くなるほどに、

 「今宵、中神、内裏よりは塞がりてはべりけり」

と聞こゆ。

 「さかし」

例は忌みたまふ方なりけり。

 「二条院にも同じ筋にて、いづくにか違へん。いと悩ましきに」

とて、大殿篭れり。「いとあしき事なり」と、これかれ聞こゆ。

 「紀伊守にて親しく仕うまつる人の、中川のわたりなる家なん、このごろ水塞き入れて、涼しき蔭にはべる」

と聞こゆ。

 「いとよかなり。悩ましきに、牛ながら引き入れつべからむ所を」

と、のたまふ。忍び忍びの御方違へ所はあまたありぬべけれど、久しくほど経て渡りたまへるに、方塞げてひき違へ外ざまへと思さんはいとほしきなるべし。紀伊守に仰せ言賜へば、うけたまはりながら、退きて

 「伊予守朝臣の家につつしむことはべりて、女房なんまかり移れるころにて、狭き所にはべれば、なめげなることやはべらん」

と下に嘆くを聞きたまひて、

 「その人近からむなんうれしかるべき。女遠き旅寝はもの恐ろしき心地すべきを。ただその几帳の背後に」

とのたまへば、

 「げに、よろしき御座所にも」

とて、人走らせやる。いと忍びて、ことさらにことごとしからぬ所をと、急ぎ出でたまへば、大臣にも聞こえたまはず、御供にも睦ましき限りしておはしましぬ。「にはかに」と、わぶれど、人も聞き入れず。寝殿の東面払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。水の心ばへなど、さる方にをかしくしなしたり。田舎家だつ柴垣して、前栽など心とめて植ゑたり。風涼しくて、そこはかとなき虫の声々聞こえ、螢しげく飛びまがひて、をかしきほどなり。人々渡殿より出でたる泉にのぞきゐて、酒のむ。あるじも肴求むと、こゆるぎの磯ぎ歩くほど、君はのどやかにながめたまひて、かの中の品にとり出でて言ひし、このなみならむかしと思し出づ。思ひあがれる気色に、聞きおきたまへるむすめなれば、ゆかしくて、耳とどめたまへるに、この西面にぞ、人のけはひする。衣の音なひはらはらとして、若き声ども憎からず。さすがに忍びて笑ひなどするけはひ、ことさらびたり。格子を上げたりけれど、守、「心なし」とむつかりて、下ろしつれば、灯ともしたる透影、障子の上より漏りたるに、やをら寄りたまひて、見ゆやと思せど、隙もなければ、しばし聞きたまふに、この近き母屋に集ひゐたるなるべし、うちささめき言ふことどもを聞きたまへば、わが御上なるべし。

 「いといたうまめだちて、まだきにやむごとなきよすが定まりたまへるこそ、さうざうしかむめれ」、「されど、さるべき隈にはよくこそ隠れ歩きたまふなれ」

など言ふにも、思すことのみ心にかかりたまへば、まづ胸つぶれて、かやうのついでにも、人の言ひ漏らさむを聞きつけたらむ時など、おぼえたまふ。ことなることなければ、聞きさしたまひつ。式部卿宮の姫君に、朝顔奉りたまひし歌などを、すこし頬ゆがめて語るも聞こゆ。くつろぎがましく歌誦じがちにもあるかな、なほ見劣りはしなんかしと、思す。守出で来て、燈篭かけ添へ、灯あかくかかげなどして、御くだものばかりまゐれり。

 「とばり帳もいかにぞは。さる方の心もなくては、めざましきあるじならむ」

と、のたまへば、

「何よけむともえうけたまはらず」

と、かしこまりてさぶらふ。端つ方の御座に、仮なるやうにて大殿篭れば、人々も静まりぬ。あるじの子どもをかしげにてあり。童なる、殿上のほどに御覧じなれたるもあり、伊予介の子もあり。あまたある中に、いとけはひあてはかにて、十二三ばかりなるもあり。「いづれいづれ」など問ひたまふに、

 「これは故衛門督の末の子にて、いと愛しくしはべりけるを、幼きほどに後れはべりて、姉なる人のよすがに、かくてはべるなり。才などもつきはべりぬべく、けしうははべらぬを、殿上なども思うたまへかけながら、すがすがしうはえ交らひはべらざめる」

と、申すに、

 「あはれのことや。この姉君や、まうとの後の親」

 「さなんはべる」

と申すに、

 「似げなき親をもまうけたりけるかな。上にも聞こしめしおきて、『宮仕に出だし立てむと漏らし奏せし、いかになりにけむ』と、いつぞやものたまはせし。世こそ定めなきものなれ」

と、いとおよすけのたまふ。

 「不意にかくて、ものしはべるなり。世の中といふもの、さのみこそ、今も昔も定まりたることはべらね。中についても、女の宿世はいと浮びたるなんあはれにはべる」

なんど聞こえさす。

 「伊予介かしづくや。君と思ふらむな」

 「いかがは。私の主とこそは思ひてはべるめるを、すきずきしき事と、なにがしよりはじめて、承け引きはべらずなむ」

など申す。

 「さりとも、まうとたちのつきづきしく今めきたらむに、おろしたてんやは。かの介はいとよしありて、気色ばめるをや」

など、物語したまひつつ、

 「いづ方にぞ」

 「みな下屋におろしはべりぬるを、えやまかり下りあへざらむ」

と、聞こゆ。酔ひすすみて、みな人々簀子に臥しつつ、静まりぬ。


(注釈)
1 中納言の君中務など
 ・ここでは女房の名前のこと。

2 塞がり
 ・陰陽道天一神などがいる方向。この方向に向かって何かをするのは凶事と言われていた。

3 二条院
 ・ゲンジの君の里邸である。

4 中川
 ・京極川といって、京極大路に流れていた川。東の賀茂川、西の桂川に対してこう呼ばれた。

5 肴求む こゆるぎの磯
 ・「玉だれの、をがめを中にすゑて、あるじはもや、さかなまぎに、さかなのとりに、こゆるぎの磯のわかめ刈りあげに」と風俗歌『玉垂』にある。

6 式部卿宮の姫君
 ・ゲンジの君の従妹で、後の朝顔の姫君。

7 とばり帳
 ・「我家はとばり帳をも垂れたるを、大君来ませ聟にせん、御肴に何よけん、鮑、さだをか、かせよけん」と催馬楽『我家』にある。

8 何よけむ
 ・催馬楽『我家』から。

9 童なる、殿上
 ・童殿上(わらはてんじゃう)のことで、名家の子供を宮中で働かせるために元服前に昇殿させること。

10 この姉君
 ・空蝉と呼ばれる姫君で、紀伊守の父、伊予介の後妻。

11 まうと
 ・天武天皇の十三年に制定された八色の姓(かばね)の第一位。後に「あなた」の尊敬の代名詞になった。

12 下屋
 ・下の者がいる宿舎。