帚木の帖 十三 ゲンジと空蝉のきぬぎぬ

(現代語訳)
 ニワトリが鳴きだすと朝になった。ゲンジの君の家来たちが起床して「朝寝坊するほどよく寝たな」とか「車を引き出せ」なんて言っている。紀伊のカミも起きたようだ。「女性の家に方位除けに忍び寄ったんじゃないんですから、こんな朝っぱら急がなくても」と引き留める。

 ゲンジの君は、こんなチャンスが、また巡ってくるとは思えなかった。「だからといって、こちらから逢いに行くわけにもいかないし、手紙を交わすことも困難だ」と途方に暮れている。奥の部屋から中将の女官が来て、困り顔の様子だ。空蝉を戻してあげようとするのだが、引き留めないではいられない。

 「あなたとどうやって文通したらいい? あなたの冷たい仕打ちへの恨みも、愛しさも半端じゃない。こんな気持ちになるなんて」

と泣きつく姿も、ただまぶしい。そして、ニワトリが騒がしく鳴き続けた。

 冷たさを恨みきれずに明ける夜 鶏は我らを起こしてくれるな

ゲンジの君が、いそいそと一首詠む。光り輝くゲンジの君を目の当たりにして、空蝉は自分のみすぼらしさに、かえってたじろいでしまう。何と言い寄られても、うれしくないのだ。いつもは嫌いで仕方がない、夫のいる伊予の国が恋しい。そして「夫が変な予知夢でも見ていないだろうか?」と不安になるのだった。

 過ぎ去りし日々の不幸を嘆く間もなかった夜明け 鶏と泣きあう

日が昇りはじめると、夜明け早い。空蝉は扉の側までゲンジの君を送った。家の外でも中でも人々が目覚めて、ざわついているから素早く扉を閉める。ゲンジの君には扉が天の川のように思えた。

 ゲンジの君は、上着を身につけ身支度を終えると、南側の欄干に寄りかかって外を眺めた。西側の格子戸を、せっせと開けて、誰かがゲンジの君を覗いている。縁側の真ん中に立っている間仕切りから、ゆらゆら浮かんで見えるゲンジの君に発情している浮ついた女たちもいるようだ。日が出ても、空には月が浮いていた。光を消して影を浮かべ、気持ちよさそうに泳いでいる。こんなどうでもよい空の景色でも、見る人の心次第で、ときめいたり、哀愁をおびたり。秘めた思いの切なさよ。ゲンジの君は「手紙を送ることもできないのに」と、未練たっぷりに立ち去る。


(原文)
 鳥も鳴きぬ。人々起き出でて、「いといぎたなかりける夜かな」、「御車引き出でよ」など言ふなり。守も出で来て、女などの、「御方違へこそ、夜深く急がせたまふべきかは」など言ふもあり。

 君は、またかやうのついであらむこともいとかたく、さしはへてはいかでか、御文なども通はんことの、いとわりなきを思すに、いと胸いたし。奥の中将も出でて、いと苦しがれば、ゆるしたまひても、また引きとどめたまひつつ、

 「いかでか聞こゆべき。世に知らぬ御心のつらさもあはれも、浅からぬ世の思ひ出は、さまざまめづらかなるべき例かな」

とて、うち泣きたまふ気色、いとなまめきたり。鳥もしばしば鳴くに、心あわたたしくて、

 つれなきを恨みもはてぬしののめにとりあへぬまでおどろかすらむ

女、身のありさまを思ふに、いとつきなくまばゆき心地して、めでたき御もてなしも何ともおぼえず、常はいとすくすくしく心づきなしと思ひあなづる伊予の方のみ思ひやられて、夢にや見ゆらむとそら恐ろしくつつまし。

 身のうさを嘆くにあかで明くる夜はとりかさねてぞねもなかれける

ことと明くなれば、障子口まで送りたまふ。内も外も人騒がしければ、引き立てて別れたまふほど、心細く、隔つる関と見えたり。

 御直衣など着たまひて、南の高欄にしばしうちながめたまふ。西面の格子そそき上げて、人々のぞくべかめり。簀子の中のほどに立てたる小障子の上よりほのかに見えたまへる御ありさまを、身にしむばかり思へるすき心どもあめり。月は有明にて光をさまれるものから、影さやかに見えて、なかなかをかしきあけぼのなり。何心なき空のけしきも、ただ見る人から、艶にもすごくも見ゆるなりけり。人知れぬ御心には、いと胸いたく、言伝てやらんよすがだになきをと、かへりみがちにて出でたまひぬ。


(注釈)
1 隔つる関
 ・彦星に恋はまさりぬ天の川隔つる関を今はやめてよ (伊勢物語