帚木の帖 十四 ゲンジ、空蝉の弟をそそのかす

(現代語訳)
 左大臣の家に帰っても、ゲンジの君はすぐに寝付けない。「再び逢瀬を重ねる術を知らない自分だけど、それ以上に空蝉の胸中はどんなだろう」などと考えてしまい、煩悶するしかなかった。「至って普通の女であったが、身なりも悪くなく清潔感も漂う中流階級の人だった。さすが恋愛のプロフェッショナル。左馬のカミが言うことも、もっともだ」と共感までした。

 近頃のゲンジの君は、左大臣の家に引きこもってばかりだ。「あれっきりになってしまったけど、空蝉はどう思っているのだろう」と可哀想に思い、胸がグルグルとかき回されるので、思い切って紀伊のカミを呼び出した。

 「この前見た、中納言の子の面倒を私にみさせてくれないか。可愛らしい子だったから、身の回りの世話をさせたいんだ。後宮にも私が口添えしてあげよう」

とゲンジの君が言うと、

 「もったいない御言葉。あの子の姉に聞いてみます」

紀伊のカミが答えた。姉と聞いて、ゲンジの君の胸が高鳴る。

 「そのお姉さんというのは、君の弟を産んだのかい?」

 「いえいえ。そういう子はいませんよ。二年前から後妻として暮らしていますが、父親の望む結婚ができなかったと嘆いて、もぬけの殻のようにしていると聞いています」

 「痛ましいね。なかなか美人だって噂じゃないか。本当にそうなのかい?」

 「悪くはないでしょう。ただ、血のつながらぬ母なので離れて暮らしていて詳しくは知らないんです。世間体もありますしね」

紀伊のカミは言う。

 そして、五日、六日と過ぎていったある日、この弟を連れて紀伊のカミがやってきた。よくよく見てみると、美少年というわけでもないのだが、気品が漂っていて、いかにも貴族っぽいのだ。近くに侍らせて、仲良く話してやると、子供心にも、ゲンジの君に可愛がられることをうれしく思っているようだった。ゲンジの君は姉のことを詳しく聞いてみる。弟が、差し障りのないことだけ答えて、落ち着き払っているので、一瞬戸惑ったが、段階を踏んで姉への恋心を説明した。弟は「そうなのか」と、察して耳を疑ったが、まだ子供なので、それ以上のことはわからなかった。そして、手紙を渡されて姉の所へやって来る始末なので、空蝉は愕然として泣けてきた。弟の目の前で恥ずかしくて仕方なかったが、読まないわけにいかず、手紙を広げて顔を覆って読んだ。手紙は文字で埋め尽くされている。

 「もう一度あの夜のこと夢見ても 目を閉じぬまま日々が過ぎてく
眠れないのだから、夢も見られません」

などと目のくらむような筆跡なのだった。空蝉の視界は涙で曇り、運命を呪って泣き崩れる。

 翌日もゲンジの君は弟を遣わした。弟は「これからゲンジの君の所へ行きます」と言って、空蝉に返事を求める。

 「こんな手紙を見る人は、ここにはいないの。そう答えて差し上げて」

と姉が言うので、弟はニヤニヤしながら、

 「人違いではないって聞いているのに、どうしてそんな返事ができるの」

と言った。空蝉は「すべてをこの子に教えてしまったのね」と思い、恥ずかしさに胸まで痛くなるのだった。

 「こら。大人を馬鹿にしちゃだめよ。そんなことを言うなら、もうあの人の所には行ってはいけません」

と姉は弟を叱る。弟は、

 「呼ばれているんだから行かなくちゃ」

と言い残して、ゲンジの君のもとへと向かった。実は紀伊のカミもスケベ心で「継母が父の後妻であることをもったいない」と思っていた。空蝉に気に入られたい一心で、この弟を可愛がり、連れて歩いているのだ。ゲンジの君は、弟を呼び出して尋問する。

 「昨日も一日中、お前を待っていたのに待ちぼうけだ。私が思っているほど、お前は私のことを思ってくれないんだね」

と八つ当たりするので、弟は赤面し、硬直した。「返事はどうしたの?」と聞けば「こんなことがあって……」と答えるだけなので「愚痴を言っても仕方がないが、あきれたな」と言い、性懲りもなく、また手紙を渡す。

 「お前は知らないと思うけど、お前の姉さんは、あの伊予の老人と結婚する前に、私の恋人だったんだ。でもね、私のことを子供扱いして、当てつけに変なオッサンと結婚してしまった。だから、お前だけは私の子になっていて欲しいよ。あのオッサンも先が短いんだからさ」

とゲンジの君が適当なことを言うと、弟は「そんな波瀾万丈があったの。胸が痛い」と同情しているようなのだ。ゲンジの君は、そんな仕草を「かわいい」と思う。それからは、ゲンジの君はいつでも弟をそばに置いて、後宮にも連れて行った。お抱えの仕立屋に注文して衣装も作らせ、実の親のように可愛がる。

 空蝉は何通もの恋文を受け取った。けれども、幼い弟が心配で「間違って手紙を落としたり、このことが知れ渡ってしまったら、惨めな境遇が浮ついた噂話でよりいっそう惨めになる」と思った。ゲンジの君の気持ちを有り難く思うのだけど「自分の身分とは釣り合わない」と、決して心を許さず、返事も書かなかった。ぼんやりと見たゲンジの君が信じられないほど美しかったから、自然と思い出されてしまうが「その姿を見たところで、自分とは関係ない」と我にも返った。ゲンジの君はといえば、いっときも空蝉を忘れられず、ただ恋しくて甘酸っぱい気分に浸っている。あの危険な逢瀬で空蝉が苦しんでいた姿を不憫に思ってモヤモヤするばかりだ。しかし、不用意に逢いに行くことはできない。あの家に紛れ込みたくても人目が多すぎるのだ。「誰かに見つかってしまったら彼女の立場が悪くなるだろう」と逡巡するばかりだった。


(原文)
 殿に帰りたまひても、とみにもまどろまれたまはず。また、あひ見るべき方なきを、まして、かの人の思ふらん心の中いかならむと心苦しく思ひやりたまふ。すぐれたることはなけれど、めやすくもてつけてもありつる中の品かな。隈なく見あつめたる人の言ひしことは、げにと思しあはせられけり。

 このほどは大殿にのみおはします。なほ、いと、かき絶えて、思ふらむことの、いとほしく御心にかかりて、苦しく思しわびて、紀伊守を召したり。

 「かのありし中納言の子は得させてんや。らうたげに見えしを、身近く使ふ人にせむ。上にも我奉らむ」

とのたまへば、

 「いとかしこき仰せ言にはべるなり。姉なる人にのたまひみん」

と申すも、胸つぶれて思せど、

 「その姉君は朝臣の弟やもたる」

 「さもはべらず。この二年ばかりぞかくてものしはべれど、親のおきてに違へりと思ひ嘆きて、心ゆかぬやうになん聞きたまふる」

 「あはれのことや。よろしく聞こえし人ぞかし。まことによしや」

とのたまへば、

 「けしうははべらざるべし。もて離れてうとうとしくはべれば、世のたとひにて睦びはべらず」

と申す。

 さて、五六日ありてこの子率て参れり。こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさましてあて人と見えたり。召し入れて、いとなつかしく語らひたまふ。童心地にいとめでたくうれしと思ふ。妹の君のこともくはしく問ひたまふ。さるべきことは答へ聞こえなどして、恥づかしげにしづまりたれば、うち出でにくし。されどいとよく言ひ知らせたまふ。かかることこそはとほの心得るも、思ひの外なれど、幼心地に深くしもたどらず、御文をもて来たれば、女、あさましきに涙も出できぬ。この子の思ふらんこともはしたなくて、さすがに御文を面隠しにひろげたり。いと多くて、

 「見し夢をあふ夜ありやとなげく間に目さへあはでぞころも経にける
寝る夜なければ」

など、目も及ばぬ御書きざまも、霧りふたがりて、心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひつづけて、臥したまへり。

 またの日、小君召したれば、参るとて、御返り乞ふ。

 「かかる御文見るべき人もなし、と聞こえよ」

と、のたまへば、うち笑みて、

 「違ふべくものたまはざりしものを、いかがさは申さむ」

と言ふに、心やましく、残りなくのたまはせ知らせてけると思ふに、つらきこと限りなし。

 「いで、およすけたることは言はぬぞよき。さば、な参りたまひそ」

とむつかられて、

 「召すにはいかでか」

とて、参りぬ。紀伊守、すき心に、この継母のありさまをあたらしきものに思ひて、追従しありけば、この子をもてかしづきて、率て歩く。君、召し寄せて、

 「昨日待ち暮らししを。なほあひ思ふまじきなめり」

と、怨じたまへば、顔うち赤めてゐたり。「いづら」とのたまふに、しかじかと申すに、「言ふかひなのことや。あさまし」とて、またも賜へり。

 「あこは知らじな。その伊予の翁よりは先に見し人ぞ。されど、頼もしげなく頸細しとて、ふつつかなる後見まうけて、かくあなづりたまふなめり。さりとも、あこはわが子にてをあれよ。この頼もし人は行く先短かりなん」

とのたまへば、さもやありけん、いみじかりけることかな、と思へる、をかしと思す。この子をまつはしたまひて、内裏にも率て参りなどしたまふ。わが御匣殿にのたまひて、装束などもせさせ、まことに親めきてあつかひたまふ。御文は常にあり。されど、この子もいと幼し、心よりほかに散りもせば、かろがろしき名さへ取り添へん身のおぼえを、いとつきなかるべく思へば、めでたきこともわが身からこそと思ひて、うちとけたる御答へも聞こえず。ほのかなりし御けはひありさまは、げになべてにやはと、思ひ出できこえぬにはあらねど、をかしきさまを見えたてまつりても、何にかはなるべき、など思ひ返すなりけり。君は思しおこたる時の間もなく、心苦しくも恋しくも思し出づ。思へりし気色などのいとほしさも、情るけん方なく思しわたる。かろがろしく這ひ紛れ立ち寄りたまはんも、人目しげからむ所に、便なきふるまひやあらはれん、人のためもいとほしくと、思しわづらふ。


(注釈)
1 寝る夜なければ
 ・恋しきをなににつけてかなぐさめん夢だに見えず寝る夜なければ (拾遺集

2 御匣殿
 ・装束を裁縫する場所。