空蝉の帖 二 ゲンジの君、空蝉と軒端荻を覗く

(現代語訳)
 入ってくるのが子供なので警備員も知らん顔だ。出迎えもしないから余裕で侵入できた。弟はゲンジの君を東側の入り口付近に立たせ、自分は南側の隅の部屋から高らかに戸を叩いて入って行った。室内の女官が「まあ、外から丸見えじゃない」とたしなめる。弟は、

 「なんでこんなに暑いのに戸を閉めているの?」

と聞いた。

 「昼すぎに西のお部屋から軒端の荻様がやって来て、碁を打っていらっしゃるのです」

と女官が答える。ゲンジの君は空蝉と伊予のスケの娘が向かい合って碁を打っている姿を、ぜひ覗いてみたいと思った。つま先立ちに歩き出し、すだれの間に身を隠す。弟が戸を開けたままだから、そのまま覗けるのだった。すり足で近寄ってみると、西日を浴びて良く見える。室内の屏風は畳まれていて、この暑さで目隠しの布も巻き上げられていた。

 人影の近くに灯りがあった。ゲンジの君は「居間の中柱に寄りかかっている女が空蝉ではないか」と、まじまじと見つめる。紫に染めた織物を着て、その上に何かをフワフワと纏っている。華奢な顔と小柄な体型の地味な女だ。顔は正面に座った人にも見られないようにしていて用心深い。もう一人は東向きに座っているから、丸見えだ。白い薄衣の夏服にキラキラとスミレ色の晴れ着を引っかけ、紅色の袴の結び目まで胸を露出している姿がだらしない。すべすべの白い肌がふっくらとしていた。背の高い人で、髪や生え際がサラサラ光っている。目や口元が可愛らしくて、男好きする顔なのだった。ふさふさの髪の毛は長くないが、先端や肩のあたりが艶めいている。非の打ち所がない美人である。ゲンジの君は「これは、親馬鹿に誉めるのも仕方ないな」と色めき立った。しかし「もう少し謙虚にしてもらいたいけどね」などとも思う。そんな軒端の荻も馬鹿ではないようだ。碁を打ってトドメを刺す時には賢そうな風でいて「きゃっきゃ」と笑う。奥に座っている空蝉は、

 「待って。ここは引き分け。こっちの、攻め込まれている方を」

と静かに言う。

 「いいえ。ここは私の負け。この隅はどうかな。ええと」

と軒端の荻が「十、二十、三十、四十」と指を折って数えている。たくさんある伊予の道後温泉の浴槽でも数えているつもりだろうか? 少し下品だ。空蝉はといえば、正反対に袖で顔を隠して人目を憚っている。それでも、ゲンジの君がじっと覗いていると横顔が浮かび上がってくるのだった。瞼が少し腫れぼったい気がして、鼻筋も通っていない。老け顔で、顔色も悪く、あまり可愛くなかった。それでもゲンジの君には、あばたもえくぼに見えるのか「落ち着きのある人だから」と、普通の美人の軒端の荻よりも気になって見とれてしまう。軒端の荻も、元気で茶目っ気たっぷりの美しい女である。くつろいで得意げに笑う顔にオーラがあり、誰が見ても良い女だった。浮気にも、ゲンジの君は「悪いスケベ心だ」と思うのだが、女たらしの血が騒いでしまう。

 今まで関わった女は、みんな、ゲンジの君の前では、そわそわしていて猫をかぶっていた。化けた猫ばかり見ていて、飾ることない生の女を覗いたのは初めてだ。それを知らずに覗かれている女達には申し訳ないが、このまま見ていたくて仕方ない。しかし、そろそろ弟が戻って来る頃だからと、見つからないように逃げた。廊下の扉の前に戻って寄りかかっていると、戻ってくる弟は「あんな所に立たせていて、申し訳ない」と思うのだった。

 「珍しくお客さんがいて、姉の側に近づけません」

 「また今夜も空振りで追い返すつもりか? それは非道いな」

とゲンジの君が文句を言う。

 「そんなことはありません。お客さんが帰ったら奇襲の出番を作ります」

と弟は答えた。今夜は期待ができそうだ。「子供だが、やる時はやるし、人の気持も心得ている。事情も察しているだろう」とゲンジの君は思うのだった。碁の勝負が終わったのだろうか、部屋の中から女官たちが散って行く音がする。

 「あの子はどこに行ったの?」

 「この戸に鍵をかけますよ」

と扉をガタガタと鳴らす。

 「寝てしまったようだ。さあ、中でうまくやってくれよ」

とゲンジの君が命令する。しかし、この弟は生真面目な姉に何を言っても無駄だと悟っているので、空蝉の側近が少なくなってから、ゲンジの君を連れて行って強引に襲わせるつもりなのだ。

 「紀伊のカミの妹の軒端の荻も、ここで寝ているのか? ちょっと覗かせろ」

とゲンジの君が言うと、弟は、

 「無理です。扉の向こうにはついたてが」

と答える。ゲンジの君は「それもそうだ。でも、もう見てしまったよ」と可笑しくて仕方ないのだが、可哀想な気がして黙っていることにした。「夜這いの時間になるのが待ち遠しい」とだけ言う。弟は、扉を叩いて、部屋の中へ入って行く。女官たちは寝静まっているようだ。

 「この入り口で僕は寝よう。涼しい風が吹かないかな」

と弟は、布団を敷いて横になった。女官たちは廂のある東の大広間に大勢で寝ているのだろう。先ほど扉を開けた小さな女の子も、向こうへ行って寝てしまった。弟は少しだけ寝たふりをしてから、灯りがともっている場所を屏風で隠して死角を作り、ゲンジの君をスタンバイさせる。

 ゲンジの君は「うまくいくだろうか。返り討ちに遭うんじゃないだろうか」と気が気でない。胸がドキドキして心拍数が上がってくるのだが、弟に手を引かれるまま、部屋に張り巡らされた布をめくり、細心の注意を払って侵入する。草木も眠った時間には、ゲンジの君が「ふわり」と立てる衣擦れの音さえ気になった。

 空蝉は、ゲンジの君が愛想を尽かしてくれて良かったと思うのだが、あの悪夢の中にあった淫靡な夜を、忘れられないでいる。安眠できず、昼は虚脱状態で、夜は不眠症だった。そして、一日中、放心している空蝉とは反対に、碁の相手をしていた軒端の荻は「今夜はここで寝かせてね」と、おしゃべりをしながら寝てしまうのだった。


(原文)
 童なれば、宿直人などもことに見入れ追従せず心やすし。東の妻戸に立てたてまつりて、我は南の隅の間より、格子叩きののしりて入りぬ。御達、「あらはなり」と言ふなり。

 「なぞ、かう暑きにこの格子は下ろされたる」

と問ヘば、

 「昼より西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」

と言ふ。さて向ひゐたらむを見ばやと思ひて、やをら歩み出でて、簾のはさまに入りたまひぬ。この入りつる格子はまだ鎖さねば、隙見ゆるに寄りて、西ざまに見通したまヘば、この際に立てたる屏風も端の方おし畳まれたるに、紛るべき几帳なども、暑ければにや、うちかけて、いとよく見入れらる。

 灯近うともしたり。母屋の中柱にそばめる人やわが心かくると、まづ目とどめたまへば、濃き綾の単襲なめり、何にかあらむ上に着て、頭つき細やかに小さき人のものげなき姿ぞしたる、顔などは、さし向ひたらむ人などにもわざと見ゆまじうもてなしたり。手つき痩せ痩せにて、いたうひき隠しためり。いま一人は東向きにて、残る所なく見ゆ。白き羅の単襲、二藍の小袿だつものないがしろに着なして、紅の腰ひき結ヘる際まで胸あらはに、ばうぞくなるもてなしなり。いと白うをかしげにつぶつぶと肥えて、そぞろかなる人の、頭つき額つきものあざやかに、まみ、口つきいと愛敬づき、はなやかなる容貌なり。髪はいとふさやかにて、長くはあらねど、下り端、肩のほどきよげに、すべていとねぢけたる所なく、をかしげなる人と見えたり。むべこそ親の世になくは思ふらめと、をかしく見たまふ。心地ぞなほ静かなる気を添ヘばやと、ふと見ゆる。かどなきにはあるまじ。碁打ちはててけちさすわたり、心とげに見えてきはきはとさうどけば、奥の人はいと静かにのどめて、

 「待ちたまヘや。そこは持にこそあらめ、このわたりの劫をこそ」

など言ヘど、

 「いで、この度は負けにけり。隅の所、いでいで」

と、指をかがめて、「十、二十、三十、四十」など数ふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。少し品おくれたり。たとしヘなく口覆ひてさやかにも見せねど、目をしつとつけたまヘれば、おのづから側目に見ゆ。目少しはれたる心地して、鼻などもあざやかなる所なうねびれて、にほはしき所も見えず。言ひ立つればわろきによれる容貌を、いといたうもてつけて、このまされる人よりは心あらむと目とどめつべきさましたり。にぎははしう愛敬づきをかしげなるを、いよいよほこりかにうちとけて、笑ひなどそぼるれば、にほひ多く見えて、さる方にいとをかしき人ざまなり。あはつけしとは思しながら、まめならぬ御心はこれもえ思し放つまじかりけり。

 見たまふかぎりの人は、うちとけたる世なく、ひきつくろひそばめたる表面をのみこそ見たまヘ、かくうちとけたる人のありさまかいま見などはまだしたまはざりつることなれば、何心もなうさやかなるはいとほしながら、久しう見たまはまほしきに、小君出でくる心地すれば、やをら出でたまひぬ。渡殿の戸口に寄りゐたまヘり、いとかたじけなしと思ひて、

 「例ならぬ人はべりてえ近うも寄りはべらず」

 「さて今宵もやかヘしてんとする。いとあさましう、からうこそあべけれ」

とのたまへば、

 「などてか。あなたに帰りはべりなば、たばかりはべりなん」

と聞こゆ。さもなびかしつべき気色にこそはあらめ。童なれど、物の心ばヘ、人の気色見つべくしづまれるを、と思すなりけり。碁打ちはてつるにやあらむ、うちそよめく心地して人々あかるるけはひなどすなり。

 「若君はいづくにおはしますならむ」

 「この御格子は鎖してん」

とて、鳴らすなり。

 「しづまりぬなり。入りて、さらば、たばかれ」

と、のたまふ。この子も、妹の御心は撓むところなくまめだちたれば、言ひあはせむ方なくて、人少なならんをりに入れたてまつらんと思ふなりけり。

 「紀伊守の妹もこなたにあるか。我にかいま見せさせよ」

と、のたまヘど、

 「いかでかさははべらん。格子には几帳添へてはべり」

と聞こゆ。さかし、されどもと、をかしく思せど、見つとは知らせじ、いとほし、と思して、夜更くることの心もとなさをのたまふ。こたみは妻戸を叩きて入る。みな人々しづまり寝にけり。

 「この障子口にまろは寝たらむ。風吹き通せ」

とて、畳ひろげて臥す。御達東の廂にいとあまた寝たるべし。戸放ちつる童べもそなたに入りて臥しぬれば、とばかりそら寝して、灯明き方に屏風をひろげて、影ほのかなるに、やをら入れたてまつる。

 いかにぞ、をこがましきこともこそ、と思すに、いとつつましけれど、導くままに母屋の几帳の帷子引き上げて、いとやをら入りたまふとすれど、みなしづまれる夜の御衣のけはひ、やはらかなるしも、いとしるかりけり。

 女は、さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど、あやしく、夢のやうなることを、心に離るるをりなきころにて、心とけたるいだに寝られずなむ、昼はながめ、夜は寝覚めがちなれば、春ならぬ木のめもいとなく嘆かしきに、碁打ちつる君、今宵はこなたにと、今めかしくうち語らひて、寝にけり。


(注釈)
1 妻戸
 ・【つまど】「妻」は当て字で「端(つま)」にある扉の意味。寝殿造りの建物の四隅にある出入り口の扉。開けるときは、外側にかけがねをかけてとめておく。閉めるときは、内側でかけがねをとめる。

2 格子
 ・【かうし】「かくし」のウ音便。「格」は木材を直角に組んだもののこと。寝殿造りの建具で、細い角材を縦横に組み合わせて裏に板を張った黒塗りの戸。上下二枚に別れていて、上の戸を釣り上げてかねがねを止めて開く。

3 西の御方
 ・西の対に住んでいる人。ここでは、伊予介の娘の軒端の荻。

4 単襲
 ・【ひとえがさね】辞書に乗っていません。何のことだかわかりません……。女性が夏に着る単衣(ひとえぎぬ)を二枚重ねて着ていると思われる。一枚だけ着るときは下着として着る。

5 ばうぞく
 ・「放俗」か「凡俗」が転じて、下品なことをいう。

6 けちさす
 ・「欠さす」で囲碁用語。何のことだか、よくわかりません。

7 持
 ・【じ】歌合・囲碁などで互いに持ち合うこと。優劣がないこと。

8 劫
 ・【こう】囲碁用語。何のことだか、よくわかりません。

9 伊予の湯桁
 ・イオの道後温泉は有名だった。伊豫の湯の湯桁はいくつ、いさしらずや、かずへずよまず、やれ、そよや、なよや、君ぞ知るらうや 『太源鈔』

10 春ならぬ木のめも
 ・夜はさめ昼は眺めに暮されて春はこのめぞいとなかりける 「一条摂政集」より。「このめ」は「木の芽」と「この目」の掛詞。