空蝉の帖 三 空蝉の逃亡。ゲンジの君、軒端の荻を襲う

(現代語訳)
 若い軒端の荻は、警戒もせずに「すやすや」と眠っている。その部屋に人の気配と、甘い芳香が広がった。空蝉が顔を持ち上げると、夏服を脱いで吊した仕切りの裂け目に、暗闇にまみれて匍匐しながら近寄ってくる変態の影が浮き彫りになっているのだった。空蝉は仰天した。パニック状態のまま、そっと起き上がり、薄い上着を一枚羽織って、すべるように逃げる。

 ゲンジの君が侵入してみると、女が一人で寝ていた。そっと胸をなで下ろす。床下には、女官が二人寝ている。女の被っている布を引っ張って近寄ると、この前より成長したような気もするのだが、ゲンジの君は空蝉だと信じて疑わない。だが、行儀の悪い寝姿に違和感を覚え状況を察したのだった。ゲンジの君は予想外の展開に何もかもどうでも良くなってきたが、人を間違えたと思われるのも悪趣味だし、それよりも、この女に疑念を持たれるのは危険だと諦めた。もはや、空蝉を追いかけることもできない。こうまで必死に逃げる空蝉である。この夜這いは絶望的だ。ゲンジの君は「私のことを気持ち悪い男だと思っているだろう」と赤面した。しかし、この期に及んでも、「この女が、あの灯りの向こうに見えた美人なのだから、まあいいか」と、女たらしぶりを発揮してしまうあたりは、とんでもない浮気者なのだった。

 軒端の荻が少しずつ目を開ける。こちらもあり得ない展開に驚いているようだ。不意の夜這いに可愛らしくしようにも、何の心の準備もできていない。恋を知らない子供だが、こましゃくれたところがあるらしく、妙に落ち着いている。ゲンジの君は自分の素性を隠そうと思ったが、「あの夜は一体何だっの」と軒端の荻が後で冷静に考えたら面倒なことになると思った。自分のことはさておき、冷酷な空蝉が、ひたすら世の中の噂を恐れているのが可哀想に思えたのだ。ゲンジの君は「今までの方位除けは、あなたに逢いたい口実だったのです」とか何とか適当なことを言って軒端の荻を口説く。嘘だと簡単にわかるのだが、自意識過剰な小娘には、それで充分だった。

 この男は、女たらしではあるが、今回ばかりは上の空だった。薄情な空蝉への未練だけが残る。「どこかに紛れ込んで、私のことを、恥ずかしい男だと思っているのだろう。こんなに負けん気の強い女が他にいるだろうか」と腹が立つのだが、心がモヤモヤして空蝉が忘れられない。それでも、軒端の荻の鈍感さと、花も恥じらう仕草が可愛いので、思いの限りを尽くして将来の約束などをしてしまった。

 「知れ渡った関係よりも、人目を忍んだ恋愛のほうが燃え上がると、昔の人も言っています。あなたも私を愛してください。私には世間の目がなきにしもあらずだから、思い通りにならないこともあるんです。紀伊のスケや伊予のカミだって、きっと許してくれないだろうし、それが心配で。きっと忘れないで待っていて欲しいんです」

などと口が自動的に嘘をつくのであった。軒端の荻は、

 「みんながどう思うか考えるだけでも恥ずかしいから、お手紙も出せません」

などと、しおらしく答えている。

 「そう。みんなに知られたら困るけど、この家の小さい公家の弟に伝令をさせましょう。二人だけの秘密ですよ」

とゲンジの君は念を押して、空蝉が脱ぎ捨てて行った薄い上着を掴んで脱出する。


(原文)
 若き人は何心なういとようまどろみたるべし。かかるけはひのいとかうばしくうち匂ふに、顔をもたげたるに、ひとヘうちかけたる几帳の隙間に、暗けれど、うちみじろき寄るけはひいとしるし。あさましくおぼえて、ともかくも思ひ分かれず、やをら起き出でて、生絹なる単衣をひとつ着て、すべり出でにけり。

 君は入りたまひて、ただひとり臥したるを心安く思す。床の下に、二人ばかりぞ臥したる。衣を押しやりて寄りたまヘるに、ありしけはひよりはものものしくおぼゆれど、思ほしも寄らずかし。いぎたなきさまなどぞ、あやしく変りて、やうやう見あらはしたまひて、あさましく、心やましけれど、人違ヘとたどりて見えんもをこがましく、あやしと思ふべし。本意の人を尋ね寄らむも、かばかり逃るる心あめれば、かひなう、をこにこそ思はめ、と思す。かのをかしかりつる灯影ならばいかがはせむに、思しなるも、わろき御心浅さなめりかし。

 やうやう目覚めて、いとおぼえずあさましきに、あきれたる気色にて、何の心深くいとほしき用意もなし。世の中をまだ思ひ知らぬほどよりは、ざればみたる方にて、あえかにも思ひまどはず。我とも知らせじと思せど、いかにしてかかることぞと、後に思ひめぐらさむも、わがためには事にもあらねど、あのつらき人のあながちに名をつつむも、さすがにいとほしければ、たびたびの御方違ヘにことつけたまひしさまを、いとよう言ひなしたまふ。たどらむ人は心得つべけれど、まだいと若き心地に、さこそさし過ぎたるやうなれど、えしも思ひ分かず。

 憎しとはなけれど、御心とまるべきゆゑもなき心地して、なほかのうれたき人の心をいみじく思す。いづくにはひ紛れて、かたくなしと思ひゐたらむ、かくしふねき人はありがたきものを、と思すにしも、あやにくに紛れがたう思ひ出でられたまふ。この人のなま心なく若やかなるけはひもあはれなれば、さすがに情々しく契りおかせたまふ。

 「人知りたることよりも、かやうなるはあはれも添ふこととなむ、昔の人も言ひける。あひ思ひたまヘよ。つつむことなきにしもあらねば、身ながら心にもえまかすまじくなんありける。また、さるべき人々もゆるされじかしと、かねて胸痛くなん。忘れで待ちたまヘよ」

など、なほなほしく語らひたまふ。

 「人の思ひはべらんことの恥づかしきになん、え聞こえさすまじき」

と、うらもなく言ふ。

 「なべて人に知らせばこそあらめ、この小さき上人に伝ヘて聞こえん。気色なくもてなしたまヘ」

など言ひおきて、かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣をとりて出でたまひぬ。


(注釈)
1 小さき上人
 ・空蝉の弟のこと。