夕顔の帖 三 伊予に下る空蝉、心乱れるゲンジの君

(現代語訳)
 ゲンジの君は、あの空蝉の異常なまでの冷たさを、この世の女ではないように思っていた。無抵抗な女ならば、忸怩たる火遊びをしてしまったと諦めることもできただろう。ゲンジの君は「このまま引き下がれるわけはない」と負け惜しみから、空蝉を想い出さずにはいられなかった。空蝉ごときに心を奪われるようなゲンジの君ではなかったが、あの雨の夜の話を聞いてからは、女という女、すべてが照準になってしまった。だからいよいよ空蝉の隅々までが愛しくて仕方がないのだった。そんなことを知らずに騙されて、無邪気にまっている軒端の荻には罪なことをしたと思わないわけでもないのだが、空蝉が気がついて軽蔑されるのではないかと気が気でない。「まずは空蝉の気持ちを確かめたい」と思っているうちに、なんと伊予のスケが上京してきたのであった。

 伊予のスケは、いの一番にと、ゲンジの君へ挨拶に来た。長い船旅が、彼を日焼けさせ、やつれさせたのか、無骨で平凡な男に見えた。それでも、それなりの生まれで人格もあるようなので、見た目は年寄りだが、清潔感があり、一般人とは違う雰囲気が漂っていた。伊予のスケが任地の話しなどをするので、ゲンジの君は、温泉の話しでも聞いてみたく思うのだが、良心の呵責から老人の前では、ただ気まずくて仕方なかった。あれこれと想い出すことも多く、平静を装うのが困難のようだ。こんな真面目な老人と差し向かって罪の意識に苛まれるのは間抜けでしかなく、後ろめたいだけだ。「とんでもなく馬鹿なことをした」と、左馬のカミが忠告したことも身に染みて知ったのである。すると伊予のスケが気の毒にも思えて、空蝉の非道い仕打ちは恨めしいが、夫を持つ妻の鏡だと目が覚めたような気もするのだった。

 伊予のスケが、娘の軒端の荻を適当な人に嫁がせて、妻の空蝉を伊予に連れて帰るつもりだという話を聞いて、ゲンジの君の心は暴走し、うろたえた。「もう一度逢うことができないか」と弟に相談するのだが、そんなことは愛し合う二人でも難しいのに、空蝉の場合は「結ばれることのない関係だ」と思って、今さら醜態をさらしても仕方ないと忘れることにしているのだった。でも、空蝉はゲンジの君の記憶の中から抹消されてしまうのが哀しくやるせないようにも思えて、時々は手紙の返事に意味深な返歌を書いたり、義理で書く文章にも女心を散りばめて謎めいた手紙を書いた。思わせぶりな態度の空蝉なので、ゲンジの君は、冷たい女だと思いつつも、忘れられない女の一人に数えてしまうのだった。一方、軒端の荻と言えば、人妻になっても心を許すのが見え見えだったので、いろいろな話を聞いても、ゲンジの君は何とも思わなかった。


(原文)
 さて、かの空蝉のあさましくつれなきを、この世の人には違ひて思すに、おいらかならましかば、心苦しきあやまちにてもやみぬべきを、いとねたく、負けてやみなんを、心にかからぬをりなし。かやうのなみなみまでは思ほしかからざりつるを、ありし雨夜の品定の後、いぶかしく思ほしなる品々あるに、いとど隈なくなりぬる御心なめりかし。うらもなく待ちきこえ顔なる片つ方人を、あはれと思さぬにしもあらねど、つれなくて聞きゐたらむことの恥づかしければ、まづこなたの心見はてて、と思すほどに、伊予介上りぬ。

 まづ急ぎ参れり。舟路のしわざとて、すこし黒みやつれたる旅姿、いとふつつかに心づきなし。されど、人もいやしからぬ筋に、容貌などねびたれどきよげにて、ただならず気色よしづきて、などぞありける。国の物語など申すに、「湯桁はいくつ」と、問はまほしく思せど、あいなくまばゆくて、御心のうちに思し出づることもさまざまなり。ものまめやかなる大人をかく思ふも、げにをこがましく、うしろめたきわざなりや。げにこれぞなのめならぬかたはなべかりけると、馬頭の諌め思し出でて、いとほしきに、つれなき心はねたけれど、人のためはあはれと思しなさる。

 むすめをばさるべき人に預けて、北の方をば率て下りぬべし、と聞きたまふに、ひとかたならず心あわたたしくて、いま一度はえあるまじきことにやと、小君を語らひたまヘど、人の心を合はせたらんことにてだに、軽らかにえしも紛れたまふまじきを、まして似げなきことに思ひて、いまさらに見苦しかるべしと、思ひ離れたり。さすがに、絶えて思ほし忘れなんことも、いと言ふかひなくうかるべきことに思ひて、さるべきをりをりの御答ヘなどなつかしく聞こえつつ、なげの筆づかひにつけたる言の葉、あやしくらうたげに目とまるべきふし加ヘなどして、あはれと思しぬべき人のけはひなれば、つれなくねたきものの、忘れがたきに思す。いま一方は主強くなるとも、変らずうちとけぬべく見えしさまなるを頼みて、とかく聞きたまヘど、御心も動かずぞありける。


(注釈)
1 湯桁はいくつ
 ・「伊予の国はどうですか?」という意味で浴槽の数を聞いているのではない。

2 むすめ
 ・軒端の荻のこと

3 北の方
 ・空蝉のこと