夕顔の帖 四 ゲンジの君、六条御息所を訪問する

(現代語訳)
 秋になった。自分が悪いに違いないのだが、ゲンジの君は心がモヤモヤすることがたくさんあって、左大臣の御殿にはご無沙汰がちになっていたので、先方は納得できないようだ。六条大路近くの人も、はじめは近寄りがたかったゲンジの君だが、いざ手に入れてしまうと掌を返すようにおざなりになってしまったのだから可哀想だ。でも、まだ手が届かなかった頃の揺れる恋心のように、盲目には、どう考えても戻れない。そして六条御息所は考えすぎる性格だった。年齢も離れている禁断の恋である。世間の噂になったらと、こうまでもゲンジの君の訪問が途絶えてしまう寂しい独り寝の夜などは、目がギラギラと冴えてしまって悲しさに心が折れてばかりいるのだった。

 霧が世界を包んだ朝、ゲンジの君は帰りを急がされて、寝ぼけ眼のままため息をついて出かけようとした。中将という女官が格子扉を一枚開けて「見送ってくださいませ」と言わんばかりに布の衝立を引き寄せてしまったので、六条御息所は頭を上げて外を眺めた。植え込みが百花繚乱に咲き乱れ、ゲンジの君が素通りできずに立ち止まっている姿がまぶしい。渡り廊下の方へと向かうゲンジの君に、中将の女官がついて行く。薄明るい紫色に染めた季節にふさわしい上着を着て、薄手の腰掛けを目立つように結んだ腰のあたりが女めいて悩ましい。ゲンジの君は振り返り角の間の欄干に中将の女官を座らせた。礼儀正しい様子や流れる髪の毛を、魅力的だと思った。

 「咲く花にこころ移りは浮気でも折らずにいられぬ今朝のあさがお
 この気持ちをどうしたらいいだろうか?」

とゲンジの君が中将の女官の手を取る。中将の女官は危険を感じ咄嗟に、

 朝霧の晴れ間も待たず帰るのは花を見つける心がないから

詠んで、主人をダシにしてとぼけるのだった。すらっとした可愛らしい男の子がめかし込んで、結んだ袴の裾を濡らしながら草むらに入って、朝顔の花を手折ってくる秋の風景は、まるで映画の一コマのようだ。ゲンジの君を何となく知っているような人でも、心を奪われない人はいない。調和的情緒の世界を知らない山賊でも、花の影を探して休憩したいのではないだろうか。この光り輝く人を知っている人は、それぞれ自分の身の程だけ願いを持っている。目に入れても痛くない娘を家政婦に差し出したいと願ったり、普通の美貌だと思う妹を持っている人は、下っ端でもゲンジの君の側に仕えさせたいと願うのだった。だから、中将の女官のように何かのついでに話しかけられたり、親しく近くで姿を見ることのできる常識のある人は、適当にあしらったりしない。ただ、もう少し心を許してゆっくりしてくれればとと、じれったく思うのだった。


(原文)
 秋にもなりぬ。人やりならず、心づくしに思し乱るる事どもありて、大殿には、絶え間おきつつ、うらめしくのみ思ひきこえたまへり。六条わたりにも、とけがたかりし御気色を、おもむけきこえたまひて後、ひき返しなのめならんはいとほしかし。されど、よそなりし御心まどひのやうに、あながちなることはなきも、いかなることにかと見えたり。女は、いとものをあまりなるまで思ししめたる御心ざまにて、齢のほども似げなく、人の漏り聞かむに、いとどかくつらき御夜離れの寝覚め寝覚め、思ししをるること、いとさまざまなり。

 霧のいと深き朝、いたくそそのかされたまひて、ねぶたげなる気色にうち嘆きつつ出でたまふを、中将のおもと、御格子一間上げて、見たてまつり送りたまヘとおぼしく、御几帳ひきやりたれば、御髪もたげて見出だしたまヘり。前栽の色色乱れたるを、過ぎがてにやすらひたまへるさま、げにたぐひなし。廊の方ヘおはするに、中将の君、御供に参る。紫苑色のをりにあひたる、羅の裳あざやかにひき結ひたる腰つき、たをやかになまめきたり。見返りたまひて、隅の間の高欄に、しばしひき据ゑたまへり。うちとけたらぬもてなし、髪の下り端、めざましくもと見たまふ。

 「咲く花にうつるてふ名はつつめども折らで過ぎうきけさの朝顔
 いかがすべき」

とて、手をとらヘたまヘれば、いと馴れて、とく、

 朝霧の晴れ間も待たぬけしきにて花に心をとめぬとぞ見る

と、公事にぞ聞こえなす。をかしげなる侍童の姿好ましう、ことさらめきたる指貫の裾露けげに、花の中にまじりて、朝顔折りてまゐるほどなど、絵に描かまほしげなり。おほかたにうち見たてまつる人だに、心とめたてまつらぬはなし。ものの情知らぬ山がつも、花の蔭にはなほ休らはまほしきにや、この御光を見たてまつるあたりは、ほどほどにつけて、わがかなしと思ふむすめを仕うまつらせばやと願ひ、もしは口惜しからずと思ふ妹など持たる人は、いやしきにても、なほこの御あたりにさぶらはせんと思ひよらぬはなかりけり。まして、さりぬべきついでの御言の葉も、なつかしき御気色を見たてまつる人の、すこしものの心思ひ知るは、いかがはおろかに思ひきこえん。明け暮れうちとけてしもおはせぬを、心もとなきことに思ふべかめり。


(注釈)
1 女
 ・六条御息所