夕顔の帖 六 ゲンジの君、十五夜に夕顔を連れ去る

(現代語訳)
 十五夜の満月の光が隙間だらけの屋根からこぼれ落ち、ゲンジの君には見慣れない住居の様子が珍しくて仕方なかった。やがて夜明け近くになると、隣の家々から目を覚ました貧乏人の声がする。

 「ああ、寒い。今年は商売あがったりだ。このままじゃ田舎へ帰ることもままならねえ。おい、お隣さん聞いてるか」

などと愚痴を言い合っているのが聞こえる。大変みみっちい己の仕事のために早起きし、周囲が騒がしいのが夕顔には恥ずかしい。見栄っ張りの気取り屋だったら恥ずかしくて穴があったら入りたくなるような住居なのだった。夕顔は無邪気なのか、つらくても、悲しくても、恥ずかしくても、一向に構わないようだ。かえってその仕草が優雅ですらあり、ふんわりとしていた。この騒がしく行儀の悪い隣人について何もわかっていないようなので、恥ずかしがって火照るよりはマシなのだった。

 ゴボゴボと雷よりも物々しい踏み臼の音が枕元まで響く。ゲンジの君も、これには参って「ああうるさい」と思うのだが、何の音なのかは見当が付かず、ただ「何か物騒な音がする」とだけ聞いていた。せせこましい空間なのである。

 白い衣を打つ棍棒の小さな音が、あちこちから聞こえ、滑空する雁の鳴き声と混ざり合って何とも言えない雰囲気がする。端にある部屋なので、引き戸を開けてゲンジの君と夕顔は外を見つめるのだった。小さな庭に呉竹が澄まして生えていて、植え込みの露が後宮と同じように光っている。秋の虫がうるさい。壁に張り付いているコオロギも、いつもならば遙か彼方に聴くゲンジの君に突撃するように鳴き乱れる。いつもと違って面白く聴いているのは、女に狂った副作用なのだった。

 夕顔は白い着物の上に、ふわふわと薄紫の衣を重ねている。貧乏くさいのだが、儚くて可愛らしい。どこに魅力があるのかと問われれば身も蓋もないが、細い身体を震わせて何かを言う様子が痛々しくて男心をくすぐるのだった。ゲンジの君は「もう少し女らしさに気を遣えば」などと夕顔を見つめながらも、もっと距離を縮めたくなった。

 「ねえ、この近くでゆっくりと夜を明かそうよ。こんな関係じゃつまらないから」

と本性を現すと、

 「急にそんなことを言われても」

と夕顔は屈託がない。ゲンジの君の口が、いつものように自動的に女を口説いていると、夕顔の心を許す様子が尋常でなく、かと言って尻軽女にも見えないので、何もかもどうでも良くなってきた。右近を呼び出し、家来に命令し、車を寄せさせた。この家の女達も、この女狂いの気持ちを充分に察して、不安に思いながらも下心を持っていたのだ。

 そろそろ夜が明ける。鶏の鳴き声は聞こえず、現世利益を夢みる者が老人声で唸って参拝するのが聞こえる。立っているのも覚束なく、修行も楽じゃなさそうだ。「明日消えていく露のような幻の世界で、いったい何を探しているのだろうか」と聞き耳を立てると、「弥勒菩薩よ導き給え」と祈っている。

 「あれを聞いてごらん。来世のことまで祈っている」

とゲンジの君は便乗して、

 修行者の道を標に次の世もふたりのきずな結ばれてゆく

一首詠む。楊貴妃玄宗の誓いは縁起が悪いので、比翼の契りの代わりに弥勒菩薩を引っ張ってきたのだ。五十六億七千万年先とは気が遠くなる。

 前世の契りを知らない私なら来世のことを君も知らない

夕顔も返歌をするのだが、不安を隠しきれないようだ。

 いざよう月に誘われて、どことも知れぬ場所に行くことを夕顔はためらう。ゲンジの君が性懲りもなく口説いているうちに、月は雲に隠れ、明けてゆく空が輝きだした。人目に付かぬようにと、いつもの通り急いで出発する。ゲンジの君は夕顔を軽々と抱き上げて車に乗せる。右近が付き添う。近くにある怪しい家に連れ込んで、受付を呼び出し、荒れた門に羊歯が絡みついているのを見上げた。何とも言えない薄暗さだ。霧深く露で湿っぽい。簾を上げていたので、袖がびしょ濡れになった。

 「まだこんな事をしたことがないけど、心拍数が上がりそうだよ。

いにしえの人もこんなに迷ったか 私の知らぬ明け方の道

あなたは知っている?」

とゲンジの君が言う。夕顔は恥ずかしそうに、

 「山の果て知らずに連れて来た月は空の彼方に消えてなくなる

怖いわ」

と恐ろしさに震えている。ゲンジの君は「あの人が大勢住んでいた所にいた人だから」と微笑ましく思う。車を進入させ、西の建物に座敷の用意をさせてから、高い欄干に車の柄を立てかけて車を固定させた。右近は意味もなく浮き足だって、昔のことなどを一人で思い出してしまう。留守番の者が忙しく走り回っているので、この変態が誰なのかすっかり知れてしまったのだ。薄明かりの中で物が見えはじめる頃、ゲンジの君は車を降りた。急拵えの簡単な座敷が用意されている。

 「お供の家来がいないのは不都合です」

左大臣家にも出入りしている用務員がやって来て、

 「しかるべき人を呼び寄せましょう」

など余計なお世話を焼く。ゲンジの君は、

 「わざわざ人気のない隠れ家を探してきたのだ。余計なことを漏らすなよ」

と口封じする。粥を御前に出すにしても、配膳する家政婦がいない。何もかもが初めての経験のゲンジの君の旅寝は、絶え間なくじゃれ合って、いつまでも語り尽くすしかなす術がないのだった。


(原文)
 八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋残りなく漏り来て、見ならひたまはぬ住まひのさまもめづらしきに、暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、あやしき賎の男の声々、目覚まして、

 「あはれ、いと寒しや、今年こそなりはひにも頼む所すくなく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ、北殿こそ、聞きたまふや」

など、言ひかはすも聞こゆ。いとあはれなるおのがじしの営みに、起き出でてそそめき騒ぐもほどなきを、女いと恥づかしく思ひたり。艶だち気色ばまむ人は、消えも入りぬべき住まひのさまなめりかし。されど、のどかに、つらきもうきもかたはらいたきことも、思ひ入れたるさまならで、わがもてなしありさまは、いとあてはかに児めかしくて、またなくらうがはしき隣の用意なさを、いかなる事とも聞き知りたるさまならねば、なかなか恥ぢかかやかんよりは罪ゆるされてぞ見えける。

 ごほごほと鳴神よりもおどろおどろしく、踏みとどろかす唐臼の音も枕上とおぼゆる、あな耳かしがましと、これにぞ思さるる。何の響きとも聞き入れたまはず、いとあやしうめざましき音なひとのみ聞きたまふ。くだくだしきことのみ多かり。

 白拷の衣うつ砧の音も、かすかに、こなたかなた聞きわたされ、空とぶ雁の声、とり集めて忍びがたきこと多かり。端近き御座所なりければ、遣り戸を引きあけて、もろともに見出だしたまふ。ほどなき庭に、されたる呉竹、前栽の露はなほかかる所も同じごときらめきたり。虫の声々乱りがはしく、壁の中のきりぎりすだに間遠に聞きならひたまヘる御耳に、さし当てたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさまかヘて思さるるも、御心ざしひとつの浅からぬに、よろづの罪ゆるさるるなめりかし。

 白き袷、薄色のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ姿、いとらうたげに、あえかなる心地して、そこと取り立ててすぐれたることもなけれど、細やかにたをたをとして、ものうち言ひたるけはひ、あな心苦しと、ただいとらうたく見ゆ。心ばみたる方をすこし添へたらばと見たまひながら、なほうちとけて見まほしく思さるれば、

 「いざ、ただこのわたり近き所に、心やすくて明かさむ。かくてのみはいと苦しかりけり」

と、のたまヘば、

 「いかでか。にはかならん」

と、いとおいらかに言ひてゐたり。この世のみならぬ契りなどまで頼めたまふに、うちとくる心ばヘなど、あやしく様変りて、世馴れたる人ともおぼえねば、人の思はむところもえ憚りたまはで、右近を召し出でて、随身を召させたまひて、御車引き入れさせたまふ。このある人々も、かかる御心ざしのおろかならぬを見知れば、おぼめかしながら頼みかけ聞こえたり。

 明け方も近うなりにけり。鳥の声などは聞こえで、御嶽精進にやあらん、ただ翁びたる声に額づくぞ聞こゆる。起居のけはひたヘがたげに行ふ。いとあはれに、朝の露にことならぬ世を、何をむさぼる身の祈りにか、と聞きたまふ。南無当来導師とぞ拝むなる。

 「かれ聞きたまヘ。この世とのみは思はざりけり」

と、あはれがりたまひて、

  優婆塞が行ふ道をしるべにて来む世も深き契りたがふな

長生殿の古き例はゆゆしくて、翼をかはさむとはひきかヘて、弥勒の世をかねたまふ。行く先の御頼めいとこちたし。

  先の世の契り知らるる身のうさに行く末かねて頼みがたさよ

かやうの筋なども、さるは、こころもとなかめり。

 いさよふ月にゆくりなくあくがれんことを、女は思ひやすらひ、とかくのたまふほど、にはかに雲がくれて、明けゆく空いとをかし。はしたなきほどにならぬさきにと、例の急ぎ出でたまひて、軽らかにうち乗せたまヘれば、右近ぞ乗りぬる。そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしヘなく木暗し。霧も深く露けきに、簾をさヘ上げたまへれば、御袖もいたく濡れにけり。

 「まだかやうなる事をならはざりつるを、心づくしなることにもありけるかな。

いにしヘもかくやは人のまどひけんわがまだ知らぬしののめの道

ならひたまヘりや」

と、のたまふ。女恥ぢらひて、

  「山の端の心もしらでゆく月はうはのそらにて影や絶えなむ
心細く」

とて、もの恐ろしうすごげに思ひたれば、かのさし集ひたる住まひのならひならんと、をかしく思す。御車入れさせて、西の対に御座などよそふほど、高欄に御車ひき懸けて立ちたまヘり。右近艶なる心地して、来し方のことなども、人知れず思ひ出でけり。預りいみじく経営し歩く気色に、この御ありさま知りはてぬ。ほのぼのと物見ゆるほどに、下りたまひぬめり。かりそめなれど、きよげにしつらひたり。

 「御供に人もさぶらはざりけり、不便なるわざかな」

とて、睦ましき下家司にて、殿にも仕うまつる者なりければ、参り寄りて、

 「さるべき人召すべきにや」

など申さすれど、

 「ことさらに人来まじき隠れ処求めたるなり。さらに心より外に漏らすな」

と、口がためさせたまふ。御粥など急ぎまゐらせたれど、取りつぐ御まかなひうちあはず。まだ知らぬことなる御旅寝に、息長川と契りたまふことよりほかのことなし。


(註釈)
1 白拷
 ・拷【たへ】で作った白い布。卑しい身分の人の着物に使われる。

2 御嶽
 ・吉野の金峰山のこと。その山に参拝するために、千日の精進をする。

3 南無当来導師
 ・当来導師は弥勒菩薩のこと。釈迦の入滅後、五十六億七千万年を経て現世に現れると伝えられる。

4 長生殿
 ・唐の白居易長恨歌」「七月七日長生殿、夜半無人私語時」

5 下家司
 ・貴人の家の雑務を司る家司の下役。