夕顔の帖 八 夕顔、もののけに襲われる

(現代語訳)
 空が暗くなってゲンジの君がうとうとしていると、枕元にかなりの美人が座っているのを確認した。

 「私はこんなにあんたを愛しているのに、放ったらかしにして、こんなわけのわからない女を連れて入れ込んでいるのが気に入らない」

と金切り声を上げて隣の人を叩き起こそうとしているではないか。化け物に襲われた気配を感じ、ゲンジの君が飛び起きると明かりが消えている。太刀を引き抜いて置いてから、右近を起こす。右近はちびりそうな顔をしてやってきた。

 「渡り廊下の部屋にいる警備兵を起こして、灯りをもって来させろ」

と源氏が命令すると、右近が、

 「暗くてとても無理です」

と泣きべそをかく。ゲンジの君は「子供じみたことを」と嘲笑い手を叩いた。その音が響きわたって気持ち悪い。誰にも聞こえなかったのか、警備兵は来なかった。夕顔はぶるぶると震え思考停止している。汗まみれで放心状態だ。

 「臆病な人だから、怖くて仕方ないんだと思います」

と右近が心配する。ゲンジの君は、昼間も儚く空ばかり見ていたのを思い出して可哀想になった。

 「私が警備兵を起こしてこよう。手を叩いても響いてうるさいからね。ここで彼女の近くにいてやってくれ」

とゲンジの君は右近を夕顔の近くに引き寄せて、西の扉を押し開けた。廊下の灯りが消えている。風が立った。人影は少なく、警備兵はことごとく眠っていた。この家の管理人の息子で日頃から使っている男と、子供一人、それから例の家来だけがいた。呼ぶと返事をして目を覚ました。

 「灯りを持ってこっちへ来い。兵隊には魔除けの弓を鳴らすように命令せよ。何でこんな物騒な場所でボケッとして寝てるんだ。コレミツ朝臣は何をやってるんだ」

とゲンジの君が怒鳴る。

 「先ほどまでいたのですが、命令もなさそうなので明日迎えにあがると言って帰りました」

と管理人の息子が平謝りしている。この息子は後宮の警備兵だったので、慣れた手つきで弓を鳴らし、「火の用心」と叫びながら管理室の方へと向かった。後宮では十時の点呼が終わった頃だろう。ちょうど警備兵が名乗り合っている頃だろうと思えば、そんなに夜も更けていないはずだ。ゲンジの君が部屋に戻って確かめると、夕顔は硬直したままで、隣に右近が倒れていた。

 「どうした? 少し怖がりすぎだぞ。廃屋には狐が出て人を怖がらせようとして悪戯をするものだ。私がいるから、そんな化け物は怖くない」

と右近を引き起こす。右近は、

 「とても怖い。悪寒が走るので伏せていました。お姫様はもっと辛いでしょうから」

と言う。

 「なに、どうしているんだ?」

とゲンジの君が夕顔を探して触ると呼吸が止まっていた。抱き寄せて揺さぶっても、へなへなと失神したままで、こんな子供のような人だから悪霊に乗っ取られたのだろうと、ゲンジの君は途方に暮れた。警備兵が灯りを持ってきた。右近が腰を抜かしているので、ゲンジの君は衝立を引き寄せて夕顔を隠し、

 「もっと近くへ持って来い」

と叫ぶ。あまりの緊急事態に混乱している警備兵は、畏れ多くて部屋の前までも上がれないようだ。

 「非常事態だ。こっちへ来い」

とゲンジの君が警備兵を引き摺って見てみると、夕顔の枕元にゲンジの君の夢に出てきた女が浮かび上がって、陽炎のように消えた。昔話では聞いたこともあるが、まさか実際にこんな事態になるとは気味が悪い。それでも、夕顔がどうなっているか心配で、ゲンジの君は心臓が破裂しそうになった。自分のことはそっちのけで、隣に行き「おい」と起こすのだけど、もう冷たくなっていて、既に絶命していた。もう手遅れだった。ここには頼りになる相談相手もいない。法師がいれば何かの役に立ったかも知れないと思うのだが、強がってみたところで、ゲンジの君も青二才だ。儚く死んだ人の姿を目の前にして、ただ呆然として、亡骸を抱きしめ、

 「生き返ってくれよ。私を悲しませないでくれ」

と泣くしかないのであった。しかし夕顔は冷たく死後硬直するだけだった。右近は怖かったことも忘れて、泣きわめき取り乱している。紫宸殿に出た鬼を太政大臣忠平が迎撃した話を思い出して、ゲンジの君は強がってみる。

 「このまま死んでしまう事はないだろう。夜の音は大きく響く。静かにしなさい」

と直言するのだが、あまりに急なことで呆然としていた。あの警備兵を呼んで、

 「ここに、化け物にとりつかれて苦しんでいる人がいる。コレミツ朝臣の実家に行って、急いで来るように伝えなさい。例の阿闍梨がいたら一緒に連れてくるよう内密に言え。尼君が何か聞いても余計なことは言うなよ。私の火遊びを許してくれないからな」

など言うのだが、胸がつかえて夕顔を死なせてしまうことを辛く思う。それをあたりの不気味な雰囲気が包み込むのであった。


(原文)
 宵過ぐるほど、すこし寝入りたまヘるに、御枕上にいとをかしげなる女ゐて、

 「おのが、いとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かくことなることなき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」

とて、この御かたはらの人をかき起こさむとすと見たまふ。物に襲はるる心地して、おどろきたまヘれば、灯も消えにけり。うたて思さるれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて参り寄れり。

 「渡殿なる宿直人起こして、紙燭さして参れと言へ」

と、のたまヘば、

 「いかでかまからん、暗うて」

と言ヘば、「あな若々し」と、うち笑ひたまひて、手を叩きたまヘば、山彦の答ふる声いとうとまし。人え聞きつけで、参らぬに、この女君いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思ヘり。汗もしとどになりて、我かの気色なり。

 「物怖ぢをなんわりなくせさせたまふ本性にて、いかに思さるるにか」

と、右近も聞こゆ。いとか弱くて、昼も空をのみ見つるものを、いとほしと思して、

 「我人を起こさむ、手叩けば山彦の答ふる、いとうるさし。ここに、しばし、近く」

とて、右近を引き寄せたまひて、西の妻戸に出でて、戸を押し開けたまへれば、渡殿の灯も消えにけり。風すこしうち吹きたるに、人は少なくて、さぶらふかぎりみな寝たり。この院の預りの子、睦ましく使ひたまふ若き男、また上童ひとり、例の随身ばかりぞありける。召せば、御答して起きたれば、

 「紙燭さして参れ。随身も弦打して、絶えず声づくれ、と仰せよ。人離れたる所に心とけて寝ぬるものか。惟光朝臣の来たりつらんは」

と、問はせたまへば、

 「さぶらひつれど仰せ言もなし、暁に御迎ヘに参るべきよし申してなん、まかではべりぬる」

と聞こゆ。このかう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火危し」と言ふ言ふ、預りが曹司の方に去ぬなり。内裏を思しやりて、名対面は過ぎぬらん、滝口の宿直奏今こそ、と推しはかりたまふは、まだいたう更けぬにこそは。帰り入りて探りたまヘば、女君はさながら臥して、右近はかたはらにうつ伏し臥したり。


 「こはなぞ、あなもの狂ほしの物怖ぢや。荒れたる所は、狐などやうのものの、人をおびやかさんとて、け恐ろしう思はするならん。まろあれば、さやうのものにはおどされじ」

とて、引き起こしたまふ。

 「いとうたて、乱り心地のあしうはべれば、うつ伏し臥してはべるや。御前にこそわりなく思さるらめ」

と言ヘば、

 「そよ、などかうは」

とて、かい探りたまふに、息もせず。引き動かしたまヘど、なよなよとして、我にもあらぬさまなれば、いといたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめりと、せむかたなき心地したまふ。紙燭持て参れり。右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳を引き寄せて、

 「なほ持て参れ」

と、のたまふ。例ならぬことにて、御前近くもえ参らぬつつましさに、長押にもえのぼらず。

 「なほ持て来や。所に従ひてこそ」

とて、召し寄せて、見たまヘば、ただこの枕上に夢に見えつる容貌したる女、面影に見えて、ふと消え失せぬ。昔の物語などにこそかかる事は聞け、といとめづらかにむくつけけれど、まづこの人いかになりぬるぞと思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず、添ひ臥して、ややとおどろかしたまヘど、ただ冷えに冷え入りて、息はとく絶えはてにけり。言はむ方なし。頼もしくいかにと言ひふれたまふべき人もなし、法師などをこそはかかる方の頼もしきものには思すべけれど。さこそ強がりたまヘど、若き御心にて、言ふかひなくなりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱きて、

 「あが君、生き出でたまヘ、いといみじき目な見せたまひそ」

とのたまヘど、冷え入りにたれば、けはひものうとくなりゆく。右近は、ただあなむつかしと思ひける心地みなさめて、泣きまどふさまいといみじ。南殿の鬼のなにがしの大臣おびやかしけるたとひを思し出でて、心強く、

 「さりともいたづらになりはてたまはじ。夜の声はおどろおどろし。あなかま」

と諌めたまひて、いとあわたたしきにあきれたる心地したまふ。この男を召して、

 「ここに、いとあやしう、物に襲はれたる人のなやましげなるを、ただ今惟光朝臣の宿る所にまかりて、急ぎ参るべきよし言ヘと仰せよ。なにがし阿闍梨そこにものするほどならば、ここに来べきよし忍びて言ヘ。かの尼君などの聞かむに、おどろおどろしく言ふな、かかる歩きゆるさぬ人なり」

など、もののたまふやうなれど、胸塞りて、この人を空しくしなしてんことのいみじく思さるるに添ヘて、おほかたのむくむくしさ譬へん方なし。


(註釈)
1 弦打
 ・魔除けのために弓の弦を鳴らすこと。

2 滝口
 ・蔵人所に属し、禁中を警備する兵士。