夕顔の帖 十二 空蝉、ゲンジの君を見舞う
(現代語訳)
あの伊予のスケの家の小君、空蝉の弟がゲンジの君の所へ参上することはあったが、以前のような伝言はもうない。空蝉は「嫌な女だと思って相手にしなくなったのだわ」と思えば後ろめたかった。そんな折、ゲンジの君の病を聞いて、さすがに溜息が出るのだった。夫に連れられて都を下ろうとしているので、やはり寂しくなって、もう忘れてしまったのかと、試しに、
「病気だと聞きまして心配していますが、私にはお便りができないから、
問わぬことどうして問わずに時は過ぎ気づかないまま心乱れて
苦しいのは人よりも自分という歌は本当でしたね」
と便りを出したのだった。まさか空蝉から便りがあると思わなかったので、ゲンジの君も、恋心を忘れられず、
「生きている意味がないというのは、誰が言うことでしょうか、
抜け殻の落ちる世界が憂鬱と教えた君にいのち繋がる
儚い私です」
と、病後の震える手で乱れ書いた手紙もまばゆいばかりだ。空蝉は、自分の抜け殻のことを忘れていないのだと思い出し、恋しくもあり、面はゆくもあった。こんな事務的な文通をするのだが、それ以上の進展は望まなかった。それでもつまらない女とは思われずに終わろうとする打算だけは働いたのだった。
もう一人の軒端の荻は、蔵人少将を婿にしたと、ゲンジの君は噂に聞いた。「理解に苦しむ。私たちの関係を知ったら少将はどう思うだろうか」と、ゲンジの君は少将の気持ちを身につまされ、また、あの女の行く末も気になるので、空蝉の弟を呼んで、
「私が死ぬほど愛しているのをわかっていますか」
と伝えさせた。
微かにも軒端に荻を結ばずに露の恨みをかけるでしょうか
と手紙を長い荻の枝に結んで「人に気づかれないようにしろよ」と言うのだが、実は少将に見つかって、自分の事を気づかれたいのだった。ゲンジの君は「それでも許して貰えるだろう」と世の中を舐めているのだった。弟が少将の留守に手紙を持って行くと、軒端の荻は「世間体が悪い」と思いながらも、思い出してくれたのが嬉しくて、即興だからと開き直って返歌を渡す。
突然の思わせぶりの風にゆれ露につつまれ枯れてゆく萩
下手くそな筆跡を誤魔化すように気取って書かれた文字が歪んでいる。ゲンジの君は、火影で見た二人の女を思い出した。「碁盤に差し向かって姿勢を正していた人は、いつまでも忘れない印象だった。この人は何も考えずに、はしゃいでのぼせてたな」と思い出せば、嫌な気分はしなかった。性懲りもなく、女好きの烙印を押されてしまいそうなゲンジの君は、まったく学習していないのだった。
(原文)
かの伊予の家の小君参るをりあれど、ことにありしやうなる言づてもしたまはねば、うしと思しはてにけるをいとほしと思ふに、かくわづらひたまふを聞きて、さすがにうち嘆きけり。遠く下りなんとするを、さすがに心細ければ、思し忘れぬるかとこころみに、
「うけたまはり悩むを、言に出でてはえこそ、
問はぬをもなどかと問はでほどふるにいかばかりかは思ひ乱るる
益田はまことになむ」
と聞こえたり。めづらしきに、これもあはれ忘れたまはず、
「生けるかひなきや、誰が言はましごとにか、
うつせみの世はうきものと知りにしをまた言の葉にかかる命よ
はかなしや」
と、御手もうちわななかるるに、乱れ書きたまヘるいとうつくしげなり。なほかのもぬけを忘れたまはぬを、いとほしうもをかしうも思ひけり。かやうに憎からずは聞こえかはせど、け近くとは思ひ寄らず、さすがに言ふかひなからずは見えたてまつりてやみなんと、思ふなりけり。
かの片つ方は蔵人少将をなん通はすと聞きたまふ。あやしや、いかに思ふらむと、少将の心の中もいとほしく、またかの人の気色もゆかしければ、小君して、
「死にかヘり思ふ心は知りたまヘりや」
と言ひ遣はす。
ほのかにも軒端の荻を結ばずは露のかごとを何にかけまし
高やかなる荻につけて、「忍びて」とのたまヘれど、とりあやまちて、少将も見つけて、我なりけりと思ひあはせば、さりとも罪ゆるしてんと、思ふ御心おごりぞあいなかりける。少将のなきをりに見すれば、心うしと思ヘど、かく思し出でたるもさすがにて、御返り、口ときばかりをかごとにて取らす。
ほのめかす風につけても下荻のなかばは霜に結ぼほれつつ
手はあしげなるを、紛らはし、ざればみて書いたるさま、品なし。灯影に見し顔思し出でらる。うちとけで向ひゐたる人は、え疎みはつまじきさまもしたりしかな。何の心ばせありげもなくさうどき誇りたりしよと、思し出づるに憎からず。なほ懲りずまにまたもあだ名立ちぬべき御心のすさびなめり。
(註釈)
1 益田
・拾遺集、恋四、詠み人知らず「ねぬなはの苦しかるらむ人よりも我ぞ益田のいける甲斐なき」「池」と「生け」が掛詞。益田の池は、大和国高市郡、今の奈良県にある。
2 生けるかひなき
・上記参照
3 懲りずまにまた
・古今集、恋三、詠み人知らず「こりずまにまたもなき名は立ちぬべし人憎からぬ世にし住まへば」