若紫の帖 六 尼君、ゲンジの若紫を托して他界する

(現代語訳)
 あの山寺の尼君は、病が小康状態なので戻っていた。都の家へゲンジの君は、時々手紙を送った。当然、返事は毎回、同じ内容が記されている。だが、いつもより波瀾万丈だったここ数ヶ月は、他のことに手を付けている暇もなく流れていった。秋が終わる頃になり、ゲンジの君は、意味もなく寂しくなって、溜息ばかりついてる。月が気持ちよさそうに浮かんでいる夜だから、重たい腰を持ち上げて、密通に出かけようと思ったとたんに、時雨であった。目的地は六条京極である。後宮から出発したので、ゲンジの君は、「少し遠い」と思った。途中、風化した家があり、木立が鬱蒼としているのを見つめていると、いつも一緒にいるコレミツが、

 「アゼチ大納言の家ですよ。この間、近くに来たついでに寄ってみたのですが、あの尼上が衰弱していました。思うに任せないと言って困っておりまして」

と言うので、ゲンジの君は、

 「可哀想だな。見舞いに行けば良かったよ。教えてくれたら良かったのに。中に入って、私が来たと伝えてくれ」

と命令した。家来を中に入れて取り次ぎを求める。「わざわざこのために来ました」と伝えることも忘れなかったので、中に入り、

 「今そこに、お見舞いに来ています」

と家来が言うので、取り次ぎが驚く。

 「どうしましょう。ここ数日は容態が悪化しておりまして、面会謝絶でございます」

と答えても、門前払いできない相手なので、南側の廂の部屋を片付けて、ゲンジの君を応接した。

 「下品な場所ですが、せめてお礼だけはさせてください。時ならぬ時なので、息苦しい座敷ですが」

と取り次ぎが言い訳するのだった。ゲンジの君も「これは本当に、むさ苦し場所へ来てしまった」と思う。

 「いつもお伺いしたいと思っていたのですが、私など相手にして下さらないようなので、逡巡していました。こんなに病気が酷いとも知らなくて」

とゲンジの君が言う。

 「長年患っている病気ですが、そろそろお迎えが来るようです。わざわざご足労頂いて恐縮しております。面会できない無礼をお許し下さい。あなた様の気持ちは心得ております。もし、そのお気持が、いつまでも変わらないようでしたら、孫がそれなりの年齢になってから、あなた様の女君たちの末席に加えてください。儚い子供を残して行くと思うと、死んでも死にきれない気分です」

と尼君が答える。近い場所にいるようで、息切れした声から動揺が伝わってくる。

 「本当に身に余る思いです。この姫君が、せめてでも、ご挨拶できる年齢だったならよかった」

と尼君が言う。ゲンジの君が同情して、

 「どうしてそのようなことを言うのですか。いい加減な気持ちでは、こんな色魔のようなお願いはできませんよ。運命の糸で繋がっていたのです。お孫さんを初めて見たときから胸騒ぎがして、忘れられないのです。不思議と現世だけで結ばれる関係だとは考えられません」

などと言い出す始末である。そして、

 「いつもは片思いですが、どうかあの可愛らしい方の声を聞かせて下さい」

と言ってしまった。

 「そんなことも知らずに、あの子は寝てしまいました」

と尼君が言っているそばから、バタバタと近づいてくる足音が聞こえる。

 「おばあさま。お寺にいたゲンジの君が来たんだよ。どうして見に行かないの」

と脳天気な声がする。女官たちは体裁の悪さに「静かになさい」と制した。

 「でも、ゲンジの君にお会いしたら、おばあさまは、病気が治ったって言っていたもの」

と自分では賢いことを言ったつもりで得意げだ。ゲンジの君は面白くて仕方ないのだが、女官たちが慌てふためいているので、聞こえないふりをする。ありったけの見舞いの言葉を伝えて、その日は撤収したのだった。「本当に子供なんだな。でも、ちゃんと教育したら」などと性懲りもない。翌日も、ゲンジの君は尼君に心を込めて見舞いをする。例のごとく、小さく結んだ手紙も忘れずに。

 「雛鶴の一声聞いたその日から舟になる我蘆間さまよう

 私の気持ちは変わりません」

と子供にも読める筆跡で書いた。それが上出来なので、女官たちは「お習字のお手本にしたらいいのに」と言うのだった。この手紙は少納言の乳母が書いた。

 「お見舞い頂きました尼君は危篤でして、今日一日も危ない状態です。山寺に戻りました。こうお便りを頂いたので、あの世からお礼を申し上げるでしょう」

とあった。ゲンジの君の胸が痛む。秋の夕日が暮れていく。ゲンジの君は、いつも心を揺さぶる人に想いを飛ばすのだった。その人と血縁がある人を手に入れたいとも追い詰められるのだろう。尼君が「自分の消える空がない」と詠んだ、あの夕方のことを思い出した。あの美少女が恋しくもあり、見込み違いだったらどうしようかと弱気にもなって一首詠んだ。

 いつの日かこの手に摘もう藤の根と繋がっている野辺の若草

 十一月になると、ミカドは朱雀院へお出ましになる。舞う人には、上流家庭の子息や、高級官僚、殿上役人でも、音楽の才能がある者は手当たり次第、かき集められた。皇子たちや大臣も例外では無かったので、皆、稽古に余念がない。ゲンジの君も忙しかった。山里の尼君を久しく見舞っていなかったことを思い出して、ゲンジの君は、ことさらに使者を飛ばした。だが、僧都から返事があっただけなのだった。

 「先月の二十日過ぎに、姉が他界しました。世のことわりとは知りながら悲しみに暮れております」

と書いてあるのを見て、ゲンジの君は、「命は儚い」と思った。「尼君が案じていた幼い人はどうしているだろう。子供っぽい人だったから、お祖母様が恋しくて泣いているに違いない」と。自分が母の御息所に先立たれた時のことを、漠然と思い出し、熱心に弔った。少納言も丁重に対応する。

 幼い人の忌引が過ぎて都に戻ったという情報を知って、しばらくしてから、時間ができた夜に、ゲンジの君、本人が自ら訪ねた。人の気配がない場所の廃墟めいた建物なので、ゲンジの君は「幼い人が、どれだけ怖がっているだろうか」と余計な心配をしている。例の南の廂の座敷に通されて、少納言が涙ながらに今際の物語をするので、ゲンジの君も自動的に貰い泣きをするのだった。

 「父親の兵部卿宮の屋敷に引き取って貰うことになっています。姫のお母様が、いじめられて苦労しておりましたし、この子は、何も理解できない子供というわけでもなくて、それでも、世渡りができる年齢でもないんです。こんな中途半端な子供が、大勢の子供の中で、やっていけるものだろうかと、尼君がいつも心配していました。あながち杞憂でもないので、あなたの無計画な言葉でさえ、無謀だと思いつつ有り難く思わないこともありません。ただ、どう考えても、あなたに相応しい所が見つからないのです。それに、実際の年齢よりも子供じみているので、恥ずかしいのです」

少納言の乳母が言う。

 「なぜ、何度も同じ事を言わせるのですか。そんなに牽制されなくても。そんな幼い人が私は好きなのです。冷静に考えても、私たちは、何か特別な縁で結ばれていると思わずにはいられません。あなたに話しても無駄だ。直接、あの子と話させて下さい。

 寄せ返す波になっても繰り返す幼い人を一目見るまで

 私を馬鹿にしているのですか」

とゲンジの君に火が付いた。少納言の乳母は、

 「お言葉が無駄になります」

と言って、

 「寄せ返す波に打たれてなびくのは玉藻ぐらいの軽い浮き草

 滅茶苦茶ですわ」

と当意即妙に返すのが馴れているので、ゲンジの君は許してやる気にもなるのだった。鎮火したゲンジの君が「なぞ越え難き逢坂の関」と和歌のさわりを口ずさむから、若い女官たちがときめいている。

 幼い姫君は尼君が恋しくて、夜泣きしているのだが、遊び相手の子供達が「直衣を着た人がいるよ。兵部卿宮様が来たんだよ」と言うので起き上がった。

 「少納言、直衣を着た人はどこ。お父様なの」

と言って、少納言の乳母に近寄る声が可愛い。

 「私は宮様ではないよ。だけど、あやしいお兄さんでもないから、こっちへおいで」

とゲンジの君が言った。幼い姫君は「あの綺麗な人だ」と咄嗟に関知して「変なことを言っちゃった」と思ったのか、少納言の乳母の近くへ逃げていった。

 「あっちへ行こう。眠いもの」

と誤魔化す。

 「もう怖がらなくてもいいんだよ。この膝の上で眠りなさい。さあこっちへ」

とゲンジの君が言うので、少納言の乳母は危険を察知し、

 「申し上げたとおり、こんなに子供ですから」

とゲンジの君の前に押し出すと、姫君が邪気無く座った。仕切った布に手を滑らせて探ってみると、くたびれた着物の上に、さらさらとした髪の毛の感触があり、可愛らしい子供なのが確認できた。そっと手を握ると、知らない人が近くにいるのが気持ち悪くて、

 「ねむいのに」

と姫君が手を引っ込めた。その手の軌道に沿ってゲンジの君が滑り込み、

 「これからは私があなたのお兄さんだ。嫌いにならないで」

と言うのだった。少納言の乳母が、

 「いけません。何という無茶なことを。いくらお話ししても無駄です」

と真っ青になっているので、ゲンジの君は、

 「いくら私でも、こんな幼い人には発情しませんよ。私の真剣な想いを見守って下さい」

と言った。

 外は霰が降り乱れ、気味の悪い夜だった。

 「少ない数の人が、こんな物騒な場所に住んでいられるわけがない」

とゲンジの君が涙まじりに言う。このまま見捨てて帰るのは、彼には不可能だったので、

 「跳ね上げ扉を閉めなさい。こんな恐ろしい夜だから、私が姫君の家来になってお守りしましょう。みんな近くに集まりなさい」

と馴れた様子で当然のように部屋の中へ入ってくる。ゲンジの君が、大それたことを平然とやってのけるので、一同唖然とするのだった。少納言のメノトは困り果てて焦るのだが、騒いでも仕方ないので、溜息ひとつ、観念したようだ。幼い姫君は、ただ恐怖に、自分の置かれている状況を理解できず震えている。美しい肌が寒気で毛羽立てるのを、ゲンジの君は可愛らしく思う。ゲンジの君は肌着を着せて、包み込むように抱き上げた。そんな自分を「私は変態かも知れない」と一瞬思いつつ、じっくりと姫君と物語った。

 「私の所へおいで。綺麗な絵がたくさんあって、お人形遊びもできますよ」

と気を引くような話をするのが、とても優しいので、幼心にも怖さが和らいでいった。それでも気色悪くて眠れない。そわそわしながら寝っ転がっている。

 夜風が強く、吹きやまなかった。

 「こうしてゲンジの君が来て下さらなかったら、どんなに恐ろしかったかしら」

 「どうせなら、姫様がお似合いの年頃であって欲しかったわ」

などと女官たちが小声で話していた。少納言の乳母は、心配で仕方ないので近くで監視をしつづけた。風が少し弱まった頃、まだ暗い夜のうちに引き上げるのが、秘め事めいている。

 「あの可愛い人を見てしまった今は、もう片時も忘れることができません。私が退屈しながら暮らしている屋敷に連れて行きます。いつまでも、こんな所にいてはいけません。姫君は私を怖がりませんでしたよ」

とゲンジの君が言うので、少納言の乳母が、

 「兵部卿宮様も迎えに来ると言っているらしいのですが、尼君の四十九日が終わってからと思いまして」

と答える。ゲンジの君は、

 「確かに兵部卿宮は頼りがいのある人だ。でも、今まで別に暮らしていた人ですよ。他人のように思うでしょうね。私たちの出会いは始まったばかりですが、この気持ちはお父上に負けません」

と髪を掻き上げて、振り返りざまに去ったのだった。

 濃霧に包まれた空がいつもと違って見え、地面には真っ白な霜が立った。ゲンジの君は、本当の別宅帰りだったならばと思うと、今朝は少し物足りない。いつも隠密に通っている女の家を通り過ぎる頃、ゲンジの君は思い出して門を叩かせた。それを聞く人がいないので、仕方なく、いちばん声の張る家来に命じて、歌を読ませた。

 夜明けまえ霧立つ空に迷っても素通りできぬ人の家かな

と二回ばかり繰り返して読むと、家の中から賢そうな女中が出てきて、

 立ち止まる霧の垣根を過ぎ去れば草の扉が開くあけぼの

と言ったまま中へ引っ込んでしまう。そのまま何も起きなかったので、このまま帰るのもつまらないと思いながら、開けてゆく空の下を、とぼとぼと二条院へ向かった。

 あの可愛らしい幼い姫君の面影がちらついて仕方ないので、ゲンジの君はニヤニヤしながら睡った。日が昇ってから起床し、手紙を書こうと思うのだが、いつもと勝手が違う。書くべき歌も、恋人宛ではないので、筆を置いて、思うままに任せた。綺麗な絵を一緒に添えて。


(原文)
 かの山寺の人は、よろしくなりて出でたまひにけり。京の御住み処尋ねて、時々の御消息などあり。同じさまにのみあるもことわりなるうちに、この月ごろは、ありしにまさるもの思ひに、ことごとなくて過ぎゆく。秋の末つ方、いともの心細くて嘆きたまふ。月のをかしき夜、忍びたる所に、からうじて思ひたちたまへるを、時雨めいてうちそそく。おはする所は六条京極わたりにて、内裏よりなれば、すこしほど遠き心地するに、荒れたる家の、木立いとものふりて、木暗く見えたるあり。例の御供に離れぬ惟光なむ、

 「故按察大納言の家にはべりて、もののたよりにとぶらひてはべりしかば、かの尼上、いたう弱りたまひにたれば、何ごともおぼえず、となむ申してはべりし」

と聞こゆれば、

 「あはれのことや。とぶらふべかりけるを。などかさなむとものせざりし。入りて消息せよ」

とのたまへば、人入れて案内せさす。わざとかう立ち寄りたまへること、と言はせたれば、入りて、

 「かく御とぶらひになむおはしましたる」

と言ふに、おどろきて、

 「いとかたはらいたきことかな。この日ごろ、むげにいと頼もしげなくならせたまひにたれば、御対面などもあるまじ」

と言へども、帰したてまつらむはかしこしとて、南の廂ひきつくろひて入れたてまつる。

 「いとむつかしげにはべれど、かしこまりをだにとて。ゆくりなう、もの深き御座所になむ」

と聞こゆ。げにかかる所は、例に違ひて思さる。

 「常に思ひたまへたちながら、かひなきさまにのみもてなさせたまふに、つつまれはべりてなむ。なやませたまふこと重くともうけたまはらざりけるおぼつかなさ」

など聞こえたまふ。

 「乱り心地は、いつともなくのみはべるが、限りのさまになりはべりて、いとかたじけなく立ち寄らせたまへるに、みづから聞こえさせぬこと。のたまはすることの筋、たまさかにも思しめしかはらぬやうはべらば、かくわりなき齢過ぎはべりて、かならずかずまへさせたまへ。いみじう心細げに見たまへおくなん、願ひはべる道のほだしに、思ひたまへられぬべき」

など聞こえたまへり。いと近ければ、心細げなる御声絶え絶え聞こえて、

 「いとかたじけなきわざにもはべるかな。この君だに、かしこまりも聞こえたまつべきほどならましかば」

とのたまふ。あはれに聞きたまひて、

 「何か、浅う思ひたまへむことゆゑ、かうすきずきしきさまを見えたてまつらむ。いかなる契りにか、見たてまつりそめしより、あはれに思ひきこゆるも、あやしきまで、この世の事にはおぼえはべらぬ」

などのたまひて、

 「かひなき心地のみしはべるを、かのいはけなうものしたまふ御一声、いかで」

とのたまへば、

 「いでや、よろづもの思し知らぬさまに、大殿籠り入りて」

など聞こゆるをりしも、あなたより来る音して、

 「上こそ。この寺にありし源氏の君こそおはしたなれ。など見たまはぬ」

とのたまふを、人々いとかたはらいたしと思ひて、「あなかま」と聞こゆ。

 「いさ、見しかば心地のあしさ慰みき、とのたまひしかばぞかし」

と、かしこきこと聞こえたりと思してのたまふ。いとをかしと聞いたまへど、人々の苦しと思ひたれば、聞かぬやうにて、まめやかなる御とぶらひを聞こえおきたまひて帰りたまひぬ。げに言ふかひなのけはひや、さりとも、いとよう教へてむ、と思す。またの日もいとまめやかにとぶらひきこえたまふ。例の小さくて、

 「いはけなき鶴の一声聞きしより葦間になづむ舟ぞえならぬ

 同じ人にや」

と、ことさら幼く書きなしたまへるも、いみじうをかしげなれば、やがて御手本に、と人々聞こゆ。少納言ぞ聞こえたる。

 「訪はせたまへるは、今日をも過ぐしがたげなるさまにて、山寺にまかり渡るほどにて。かう訪はせたまへるかしこまりは、この世ならでも聞こえさせむ」

とあり。いとあはれと思す。秋の夕は、まして、心のいとまなく思し乱るる人の御あたりに心をかけて、あながちなる、ゆかりもたづねまほしき心もまさりたまふなるべし。「消えんそらなき」とありし夕、思し出でられて、恋しくも、また、見ば劣りやせむ、とさすがに危し。

 手に摘みていつしかも見む紫のねにかよひける野辺の若草

 十月に朱雀院の行幸あるべし。舞人など、やむごとなき家の子ども、上達部殿上人どもなども、その方につきづきしきは、みな選らせたまへれば、親王たち大臣よりはじめて、とりどりの才ども習ひたまふ。いとまなし。山里人にも、久しくおとづれたまはざりけるを、思し出でて、ふりはへ遣はしたりければ、僧都の返りごとのみあり。

 「たちぬる月の二十日のほどになむ、つひにむなしく見たまへなして、世間の道理なれど、悲しび思ひたまふる」

などあるを見たまふに、世の中のはかなさもあはれに、うしろめたげに思へりし人もいかならむ、幼きほどに恋ひやすらむ、故御息所に後れたてまつりしなど、はかばかしからねど思ひ出でて、浅からずとぶらひたまへり。少納言、ゆゑなからず御返りなど聞こえたり。

 忌みなど過ぎて、京の殿になど聞きたまへば、ほど経て、みづからのどかなる夜おはしたり。いとすごげに荒れたる所の、人少ななるに、いかに幼き人おそろしからむと見ゆ。例の所に入れたてまつりて、少納言、御ありさまなど、うち泣きつつ聞こえつづくるに、あいなう御袖もただならず。

 「宮に渡したてまつらむとはべるめるを、故姫君のいと情なく、うきものに思ひきこえたまへりしに、いとむげに児ならぬ齢の、またはかばかしう人のおもむけをも見知りたまはず、中空なる御ほどにて、あまたものしたまふなる中の、あなづらはしき人にてや交りたまはんなど、過ぎたまひぬるも、世とともに思し嘆きつること、しるきこと多くはべるに、かくかたじけなきなげの御言の葉は、後の御心もたどりきこえさせず、いとうれしう思ひたまへられぬべきをりふしにはべりながら、すこしもなぞらひなるさまにもものしたまはず、御年よりも若びてならひたまへれば、いとかたはらいたくはべる」

と聞こゆ。

 「何か、かうくり返し聞こえ知らする心のほどを、つつみたまふらむ。その言ふかひなき御心のありさまの、あはれにゆかしうおぼえたまふも、契りことになむ、心ながら思ひ知られける。なほ人づてならで、聞こえ知らせばや。

 あしわかの浦にみるめはかたくともこは立ちながらかへる波かは

 めざましからむ」

とのたまへば、

 「げにこそいとかしこけれ」

とて、

 「寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかんほどぞ浮きたる

 わりなきこと」

と聞こゆるさまの馴れたるに、すこし罪ゆるされたまふ。「なぞ越えざらん」と、うち誦じたまへるを、身にしみて若き人々思へり。

 君は、上を恋ひきこえたまひて泣き臥したまへるに、御遊びがたきどもの、「直衣着たる人のおはする。宮のおはしますなめり」と聞こゆれば、起き出でたまひて、

 「少納言よ。直衣着たりつらむは、いづら。宮のおはするか」

とて、寄りおはしたる御声、いとらうたし。

 「宮にはあらねど、また思し放つべうもあらず。こち」

とのたまふを、恥づかしかりし人と、さすがに聞きなして、あしう言ひてけり、と思して、乳母にさし寄りて、

 「いざかし、ねぶたきに」

とのたまへば、

 「いまさらに、など忍びたまふらむ。この膝のうへに大殿籠れよ。いますこし寄りたまへ」

とのたまへば、乳母の、

 「さればこそ。かう世づかぬ御ほどにてなむ」

とて、押し寄せたてまつりたれば、何心もなくゐたまへるに、手をさし入れて探りたまへれば、なよよかなる御衣に、髪はつやつやとかかりて、末のふさやかに探りつけられたる、いとうつくしう思ひやらる。手をとらへたまへれば、うたて、例ならぬ人の、かく近づきたまへるは、恐ろしうて、

 「寝なむといふものを」

とて強ひて引き入りたまふにつきて、すべり入りて、

 「今は、まろぞ思ふべき人。なうとみたまひそ」

とのたまふ。

 「いで、あなうたてや。ゆゆしうもはべるかな。聞こえさせ知らせたまふとも、さらに何のしるしもはべらじものを」

とて、苦しげに思ひたれば、

 「さりとも、かかる御ほどをいかがはあらん。なほ、ただ世に知らぬ心ざしのほどを見はてたまへ」

とのたまふ。

 霰降り荒れて、すごき夜のさまなり。

 「いかで、かう人少なに、心細うて過ぐしたまふらむ」

とうち泣いたまひて、いと見捨てがたきほどなれば、

 「御格子まゐりね。もの恐ろしき夜のさまなめるを、宿直人にてはべらむ。人々近うさぶらはれよかし」

とて、いと馴れ顔に御帳の内に入りたまへば、あやしう思ひの外にも、とあきれて、誰も誰もゐたり。乳母は、うしろめたうわりなしと思へど、荒らましう聞こえ騒ぐべきならねば、うち嘆きつつゐたり。若君は、いと恐ろしう、いかならんとわななかれて、いとうつくしき御肌つきも、そぞろ寒げに思したるを、らうたくおぼえて、単衣ばかりを押しくくみて、わが御心地も、かつは、うたておぼえたまへど、あはれにうち語らひたまひて、

 「いざたまへよ。をかしき絵など多く、雛遊びなどする所に」

と、心につくべきことをのたまふけはひの、いとなつかしきを、幼き心地にも、いといたう怖ぢず、さすかにむつかしう、寝も入らずおぼえて、身じろき臥したまへり。

 夜ひと夜風吹き荒るるに、

 「げにかうおはせざらましかば、いかに心細からまし」

 「同じくはよろしきほどにおはしまさましかば」

とささめきあへり。乳母は、うしろめたさに、いと近うさぶらふ。風すこし吹きやみたるに、夜深う出でたまふも、事あり顔なりや。

 「いとあはれに見たてまつる御ありさまを、今はまして片時の間もおぼつかなかるべし。明け暮れながめはべる所に渡したてまつらむ。かくてのみはいかが。もの怖ぢしたまはざりけり」

とのたまへば、

 「宮も御迎へになど聞こえのたまふめれど、この御四十九日過ぐしてや、など思うたまふる」

と聞こゆれば、

 「頼もしき筋ながらも、よそよそにてならひたまへるは、同じうこそ疎うおぼえたまはめ。今より見たてまつれど、浅からぬ心ざしはまさりぬべくなむ」

とて、かい撫でつつ、かへりみがちにて出でたまひぬ。

 いみじう霧りわたれる空もただならぬに、霜はいと白うおきて、まことの懸想もをかしかりぬべきに、さうざうしう思ひおはす。いと忍びて通ひたまふ所の、道なりけるを思し出でて、門うち叩かせたまへど、聞きつくる人なし。かひなくて、御供に声ある人して、うたはせたまふ。

 あさぼらけ霧立つそらのまよひにも行き過ぎがたき妹が門かな

と二返りばかりうたひたるに、よしある下仕を出だして、

 立ちとまり霧のまがきの過ぎうくは草のとざしにさはりしもせじ

と言ひかけて入りぬ。また人も出で来ねば、帰るも情なけれど、明けゆく空もはしたなくて、殿へおはしぬ。

 をかしかりつる人のなごり恋しく、ひとり笑みしつつ臥したまへり。日高う大殿籠り起きて、文やりたまふに、書くべき言葉も例ならねば、筆うち置きつつすさびゐたまへり。をかしき絵などをやりたまふ。


(註釈)
1 同じ人にや
 ・堀江漕ぐ棚無し小舟漕ぎかへりおなじ人にや恋ひ渡りなむ 『古今集』 恋四 詠み人知らず

2 消えんそらなき
 ・前出の尼君の歌。おひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えんそらなき

3 忌み
 ・忌引のこと。祖父母の忌引は三十日程度、服喪は百五十日。人により等級があった。若紫は、祖母の忌引の約三十日後に北山から都に戻った。

4 なぞ越えざらん
 ・人知れぬ身は急げども年を経てなぞ越え難き逢坂の関 『後撰集』 恋三 伊尹