末摘花の帖 一 十六夜の琴

(現代語訳)
 ゲンジの君は、何度思い出してもあの夕顔の露のように儚く逝った人を忘れられない。年月を経ても悲しく思った。どこを見渡しても気取った面倒な女たちが、互いに牽制し合っているだけなのである。あの無邪気な夕顔を、懐かしく、かけがえのない人だったと思うのだった。

 そういうわけで、ゲンジの君は「なんとかして、ややこしい身分でなく、ただ可愛いだけの心を許せる女を見つけなくては」と相変わらず、どうしようもないことを考えているのだった。少しでも良いという評判のある女は、もれなく情報収集してあるので、その中から可能性のありそうなのを選別して、少し手紙のやりとりをしているようだ。その手紙を見た女は、誘惑に負けて滅多に拒みもしないので、ゲンジの君は馬鹿馬鹿しくなってくる。たまに強情なのがいても、それはカマトトか嫌味な女なのだった。ゲンジの君を相手に身の程知らずのようだが、そのまま意地を張り続けることもできずに、尻尾を巻いてつまらない男と結ばれるのが関の山である。ゲンジの君は深追いする気にもなれなかった。

 ゲンジの君は、あの空蝉をときどき歯がゆく思い出す。軒端の荻にも風に誘われて便りをすることがあった。あのときの灯りの影でだらしなく碁を打っていた姿を、今一度、覗きたいと思う。この男は過去に関わった女を忘れることができない性格なのだった。

 左右衛門の乳母と言う、ゲンジの君にとっては、コレミツの母親の大弐の乳母に次ぐ大切な乳母がいた。その人の娘が、後宮で働いており、タイフの命婦と呼ばれている。タイフの命婦は帝の血筋である、兵部タイフの娘だ。とても男にだらしない若い女官なのだが、ゲンジの君も後宮にいるときは身の回りの世話をさせている。彼女の母親の左右衛門の乳母が、筑前守の妻になって九州に下ってしまったので、父親の兵部タイフの家を里にして後宮勤めしているのだった。「兵部タイフの父親だった亡き常陸親王が晩節を汚して儲けた娘を猫かわいがりしていたのだが、親王に先立たれて寂しく暮らしている」という話を、タイフの命婦が、何かのついでに、ゲンジの君に教えた。ゲンジの君は「かわいそうに」と言って、助平心が沸き立つのだった。

 「性格や見た目とか、詳しいことは知らないのです。目立たない人で、誰とも会いたがらないから、たまに仕切り布をはさんで話すだけなんです。琴が一番の友達みたい」

とタイフの命婦が言うので、ゲンジの君は「琴、詩、酒は三つの友だと白楽天も言っていたね。酒だけは、女の友には良くないが」と茶化しながら、

 「その琴の音を私に聴かせて欲しい。父宮は音楽にうるさい人だったからね。ひとかどの腕前とだろう」

と興味津々なのだった。

 「そこまで期待して聴く価値があるかしら」

と思わせぶりにタイフの命婦が言うので、

 「ずいぶんと焦らすじゃないか。最近は朧月夜も浮かんでいるからね。隠密で訪ねようじゃないか。君も一緒に行こう」

とゲンジの君は、その気になってしまったのだった。タイフの命婦は「面倒な事になった」と思いながらも、ある晴れた春の日に、後宮ものどかなので祖父の家に出かけた。

 父のタイフの君は、ここには住んでいない。それでも、タイフの命婦は時々祖父の家にやってくる。なぜなら父君の家には継母がいるのが気に食わないので、彼女は祖母の家に里帰りするのだった。

 ゲンジの君が言ったように、いざよう月が気持ちよさそうに浮かんでいる夜、ゲンジの君がやってくる。

 「物の音が綺麗にうねりそうもない夜ですのに。困りました」

とタイフの命婦は言うのだが、ゲンジの君は、

 「いいから、あっちへ行って、ほんの少しでも弾いてくれるよう頼んできてくれ。このまま手ぶらで帰るわけにはいかないからね」

と強引なのだった。タイフの命婦は、ゲンジの君を、こんな場所に放置しておくのも申し訳なく、もったいなくも思い、姫君のいる建物へ向かった。姫君は跳ね上げ窓を開けて、梅が匂い立つ庭を見つめていた。お誂え向きだと、

 「こんな夜には琴の音が冴えるんじゃないかと、居ても立ってもいられず伺いました。いつも落ち着きなくお伺いしていたから、聴かせて頂けなかったのが残念でしたの」

と唆す、

 「あなたのような本当の琴の音を知る人がいますのに。畏れ多い後宮に仕える人にお聴かせする腕前ではありません」

と言いながらも琴を持って来させるのだった。タイフの命婦は、ゲンジの君が、どんな気持ちで聴くのだろうかと思って、人ごとながら胸騒ぎがする。姫君がそっと琴を掻き鳴らすと、余韻が響く。たいした腕前ではないが、楽器が奏でる音に特別な印象があったので、ゲンジの君は、気にならなかった。「こんな荒廃した寂しい場所に、これほどの身分の女が、かつての父君が古風に箱に詰めて育てられた面影もなく暮らしているとは。どんなに辛酸をなめていることだろうか。昔話で事件が起こるのはこんな場所だろう」などとゲンジの君は邪推した。接近してみようかと思うのだが、軽薄すぎるような気がして思い留まった。タイフの命婦は察しの良い人なので、ゲンジの君にこれ以上琴を聴かせるのは良くないと思って、

 「曇ってきました。そういえばお客さんが来るはずだったのですが、わざと留守にしたと思われるのも良くないので。またゆっくりと聴かせて下さい。さあ、扉を閉めましょう」

と、それ以上琴を弾かせずに戻ったので、

 「これからだったのに。あれだけでは腕前も聴き分けられないじゃないか。忍びない」

とゲンジの君が言う。興味を持ったのだろう。

 「どうせなら、もっと近くで聴かせて欲しい」

とゲンジの君は頼み込むのだが、タイフの命婦は、ほどほどにしておきたかったのだ。

 「それはいけません。とても静かに消えそうになって可哀想に暮らしているんですよ。これ以上は無理です」

とタイフの命婦が言うと、ゲンジの君も「そうだろう」と同情した。「出会ってすぐに尻尾を振るのは犬だからな」と思いながらも、この姫君は可哀想に思われて「私のことを何となく伝えておいてくれ」と言うのだった。


(原文)
 思へども、なほあかざりし夕顔の露に後れし心地を、年月経れど思し忘れず、ここもかしこもうちとけぬかぎりの、気色ばみ心深き方の御いどましさに、け近くうちとけたりし、あはれに、似るものなう恋しく思ほえたまふ。

 いかで、ことごとしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人の、つつましきことなからむ、見つけてしがなと、懲りずまに思しわたれば、すこしゆゑづきて聞こゆるわたりは、御耳とどめたまはぬ隈なきに、さてもやと思し寄るばかりのけはひあるあたりにこそ、一くだりをもほのめかしたまふめるに、なびききこえずもて離れたるは、をさをさあるまじきぞ、いと目馴れたるや。つれなう心強きは、たとしへなう情おくるるまめやかさなど、あまりもののほど知らぬやうに、さてしも過ぐしはてず、なごりなくくづほれて、なほなほしき方に定まりなどするもあれば、のたまひさしつるも、多かりけり。

 かの空蝉を、もののをりをりには、ねたう思し出づ。荻の葉も、さりぬべき風の便りある時は、おどろかしたまふをりもあるべし。灯影の乱れたりしさまは、またさやうにても見まほしく思す。おほかた、なごりなきもの忘れをぞ、えしたまはざりける。

左衛門の乳母とて、大弐のさしつぎにおぼいたるがむすめ、大輔命婦とて、内裏にさぶらふ。わかむどほりの兵部大輔なるむすめなりけり。いといたう色好める若人にてありけるを、君も召し使ひなどしたまふ。母は筑前守の妻にて下りにければ、父君のもとを里にて行き通ふ。故常陸親王の、末にまうけていみじうかなしうかしづきたまひし御むすめ、心細くて残りゐたるを、もののついでに語りきこえければ、「あはれのことや」とて、御心とどめて問ひ聞きたまふ。

 「心ばへ容貌など、深き方はえ知りはべらず。かいひそめ、人うとうもてなしたまへば、さべき宵など、物越しにてぞ語らひはべる。琴をぞなつかしき語らひ人と思へる」

 と聞こゆれば、「三つの友にて、いま一くさやうたてあらむ」とて、

 「我に聞かせよ。父親王の、さやうの方にいとよしづきてものしたまうければ、おしなべての手づかひにはあらじとなむ思ふ」

と、語らひたまふ。

 「さやうに聞こしめすばかりにはあらずやはべらむ」

と言へば、御心とまるばかり聞こえなすを、

 「いたう気色ばましや。このごろのおぼろ月夜に忍びてものせむ。まかでよ」

とのたまへば、わづらはしと思へど、内裏わたりものどやかなる春のつれづれにまかでぬ。

 父の大輔の君は、ほかにぞ住みける。ここには時々ぞ通ひける。命婦は、継母のあたりは住みもつかず、姫君の御あたりを睦びて、ここには来るなりけり。

 のたまひしもしるく、十六夜の月をかしきほどにおはしたり。

 「いとかたはらいたきわざかな。物の音すむべき夜のさまにもはべらざめるに」

と聞こゆれど、

 「なほあなたに渡りて、ただ一声ももよほしきこえよ。空しくて帰らむが、ねたかるべきを」

とのたまへば、うちとけたる住み処にすゑたてまつりて、うしろめたうかたじけなしと思へど、寝殿に参りたれば、まだ格子もさながら、梅の香をかしきを見出だしてものしたまふ。よきをりかなと思ひて、

 「御琴の音いかにまさりはべらむ、と思ひたまへらるる夜の気色にさそはれはべりてなむ。心あわたたしき出で入りに、えうけたまはらぬこそ口惜しけれ」

と言へば、

 「聞き知る人こそあなれ、ももしきに行きかふ人の聞くばかりやは」

とて、召し寄するも、あいなう、いかが聞きたまはむと、胸つぶる。ほのかに掻き鳴らしたまふ。をかしう聞こゆ。なにばかり深き手ならねど、物の音がらの筋ことなるものなれば、聞きにくくも思されず。いといたう荒れわたりて、さびしき所に、さばかりの人の、古めかしう、ところせく、かしずきすゑたりけむなごりなく、いかに思ほし残すことなからむ、かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなる事どももありけれなど、思ひつづけても、ものや言ひ寄らましと思せど、うちつけにや思さむと、心恥づかしくて、やすらひたまふ。命婦かどある者にて、いたう耳ならさせたてまつらじと思ひければ、

 「曇りがちにはべるめり。まらうとの来むとはべりつる。いとひ顔にもこそ。いま心のどかにを。御格子まゐりなむ」

とて、いたうもそそのかさで、帰りたれば、

 「なかなかなるほどにてもやみぬるかな。もの聞き分くほどにもあらで、ねたう」

とのたまふ。気色をかしと思したり。

 「同じくは、けぢかきほどの立ち聞きせさせよ」

とのたまへど、心にくくてと思へば、

 「いでや、いとかすかなるありさまに思ひ消えて、心苦しげにものしたまふめるを、うしろめたきさまにや」

と言へば、げにさもあること、にはかに、我も人も、うちとけて語らふべき人の際は際とこそあれなど、あはれに思さるる人の御ほどなれば、「なほ、さやうの気色をほのめかせ」と語らひたまふ。


(註釈)
1 三つの友
 ・『白氏文集』巻二十九、北窓三友において、琴・詩・酒を「三友」としている。「いま一種」は酒のこと。