第百三十六段

■ 原文

医師篤成、故法皇の御前に候ひて、供御の参りけるに、「今参り侍る供御の色々を、文字も功能も尋ね下されて、そらに申し侍らば、本草に御覧じ合はせられ侍れかし。一つも申し誤り侍らじ」と申しける時しも、六条故内府参り給ひて、「有房、ついでに物習ひ侍らん」とて、「先づ、『しほ』といふ文字は、いづれの偏にか侍らん」と問はれたりけるに、「土偏に候ふ」と申したりければ、「才の程、既にあらはれにたり。今はさばかりにて候へ。ゆかしき所なし」と申されけるに、どよみに成りて、罷り出でにけり。


■ 注釈

1 医師篤成
 ・和気篤成(わけのあつしげ)。典薬頭、大膳大夫。

参照:典薬寮 - Wikipedia
参照:大膳職 - Wikipedia

2 故法皇
 ・後宇多法皇

参照:後宇多天皇 - Wikipedia

3 本草
 ・薬用植物、動物、好物など広範囲を研究するための教科書。

参照:本草学 - Wikipedia

4 六条故内府
 ・源有房(みなもとのありふさ)。「内府」は「内大臣」。

参照:源有房 - Wikipedia

5 しほ
 ・しおには「塩」と「鹽」の二つの漢字があり、「塩」は古くに輸入された漢字であり、「鹽」の俗字ではない。また「塩」と「鹽」は、編、旁、冠、脚の、どの部首に属するか問題となる漢字であり、はじめから篤成を陥れるための質問だったと考えられる。


■ 現代語訳

医者の篤成が、今は亡き後宇多法皇の御前に参上し、法皇の夕餉が配膳された際に、「今ここに配膳された色々な料理の食材の名前や栄養素を質問して下されば、何も見ずにお答え申し上げます。『食材大辞典』と比べてみて下さい。一つも間違えずに答えてみせます」と言った。その時に、今は亡き源有房内大臣がやって来て、「この在房も一緒に勉強をさせて下さい」と言い、「質問ですが、『しお』という漢字の部首は何偏でしたか?」と、篤成に聞いた。篤成は得意げに「土偏です」と答えたので、内大臣は「あなたの学識が既に分かってしまいました。これ以上調子に乗るのは止めて帰りなさい」と一蹴し、笑い者になった篤成は、ゴキブリのように逃げていった。