第二十一段

■ 原文

万のことは、月見るにこそ、慰むものなれ。ある人の、「月ばかり面白きものはあらじ」と言ひしに、またひとり、「露こそなほあはれなれ」と争ひしこそ、をかしけれ。折にふれば、何かはあはれならざらん。

月・花はさらなり、風のみこそ、人に心はつくめれ。岩に砕けて清く流るゝ水のけしきこそ、時をも分かずめでたけれ。「沅・湘、日夜、東に流れ去る。愁人のために止まること少時もせず」といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。嵆康も、「山沢に遊びて、魚鳥を見れば、心楽しぶ」と言へり。人遠く、水草清き所にさまよひありきたるばかり、心慰むことはあらじ。


■ 注釈

1 沅・湘
 ・唐の詩人、戴淑倫(たいしゅくりん)の「湘南即事」の転結の二句を引用している。起承の句は「廬橘花開キテ楓葉衰フ。門ヲ出デテ何レノ処ニカ京師ヲ望マン」沅・湘はともに杭州にある川の名前。

2 嵆康(けいかう)
 ・魏の文人竹林の七賢の一人。

参照:ケイ康 - Wikipedia


■ 現代語訳

どんなに複雑な心境にあっても、月を見つめていれば心落ち着く。ある人が「月みたいに感傷的なものはないよ」と言えば、ほかの人が「露のほうが、もっと味わい深い」と口論したのは興味深いことである。タイミングさえ合っていれば、どんなことだって素敵に変化していく。

月や花は当然だけど、風みたいに人の心をくすぐるものは、他にないだろう。それから、岩にしみいる水の流れは、いつ見ても輝いている。「沅水や湘水が、ひねもす東のほうに流れ去っていく。都会の生活を恋しく思う私のために、ほんの少しでも流れを止めたりしないで」という詩を見たときは鳥肌が立った。嵆康も「山や沢でピクニックをして、鳥や魚を見ていると、気分が解放される」と言っていたけど、澄み切った水と草が生い茂る秘境を意味もなく徘徊すれば、心癒されるのは当然である。