第百六段

■ 原文

高野証空上人、京へ上りけるに、細道にて、馬に乗りたる女の、行きあひたりけるが、口曳きける男、あしく曳きて、聖の馬を堀へ落してンげり。

聖、いと腹悪しくとがめて、「こは希有の狼藉かな。四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼に劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入れさする、未曾有の悪行なり」と言はれければ、口曳きの男、「いかに仰せらるゝやらん、えこそ聞き知らね」と言ふに、上人、なほいきまきて、「何と言ふぞ、非修非学の男」とあらゝかに言ひて、極まりなき放言しつと思ひける気色にて、馬ひき返して逃げられにけり。

尊かりけるいさかひなるべし。


■ 注釈

1 高野証空上人
 ・高野山金剛峯寺の上人で、伝未詳。

参照:金剛峯寺 - Wikipedia

2 四部の弟子
 ・仏弟子の四種の区別。

参照:比丘 - Wikipedia

3 比丘(びく)
 ・出家して具足戒を受けた男性の僧。

参照:比丘 - Wikipedia
参照:波羅提木叉 - Wikipedia

4 比丘尼(びくに)
 ・出家して具足戒を受けた女性の僧。

参照:比丘 - Wikipedia
参照:波羅提木叉 - Wikipedia

5 優婆塞(うばそく)
 ・五戒を受けて仏門に帰した男性の在家信者。

参照:比丘 - Wikipedia
参照:五戒 - Wikipedia

6 優婆夷(うばい)
 ・五戒を受けて仏門に帰した男性の在家信者。

参照:比丘 - Wikipedia
参照:五戒 - Wikipedia


■ 現代語訳

高野山の証空上人が上京する時、小道で馬に乗った女とすれ違った。女の乗る馬を引く男が手元を狂わせて、上人の乗っている馬をドブ川に填めてしまった。

上人は逆上して「この乱暴者め。仏の弟子には四つの階級がある。出家した男僧より、出家した尼は劣り、在家信者の男はそれにも劣る。在家信者の女に至ってはそれ以下だ。貴様のような在家信者の女ごときが、高僧である私をドブ川に蹴落とすとは、死刑に値する」と言ったので、僧侶の階級に興味のない馬引きの男は、「何を言っているんだか、さっぱり分からない」と呟いた。上人はさらに逆上し、「何を抜かすか、このたわけ!」と沸点に達したが、罵倒が過ぎたと我に返り、恥ずかしさに馬を引き返して逃げた。

こんな口論は滅多に見られるものではない。