第百八段

■ 原文

寸陰惜しむ人なし。これ、よく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人のために言はば、一銭軽しと言へども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす。されば、商人の、一銭を惜しむ心、切なり。刹那覚えずといへども、これを運びて止まざれば、命を終ふる期、忽ちに至る。

されば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。たゞ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。もし、人来りて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るゝ間、何事をか頼み、何事をか営まん。我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん。一日のうちに、飲食・便利・睡眠・言語・行歩、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇幾ばくならぬうちに、無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて、一生を送る、尤も愚かなり。

謝霊運は、法華の筆受なりしかども、心、常に風雲の思を観ぜしかば恵遠、百蓮の交りを許さざりき。暫くもこれなき時は、死人に同じ。光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まん人は止み、修せん人は修せよとなり。


■ 注釈

1 道人
 ・仏道修行者。

2 謝霊運
 ・中国の六朝時代の詩人。

参照:謝霊運 - Wikipedia

3 法華の筆受
 ・サンスクリット語法華経を漢文に翻訳する際に筆記する役人。

4 恵遠
 ・東晋の高僧。中国浄土教の開祖としてしられる。

5 百蓮
 ・恵遠が提唱した念仏修行集団の百蓮社。「時二、遠公(恵遠)諸賢ト同ジク浄土教ヲ修ス。因(よ)リテ、百蓮社ト号ス。霊運、嘗テ、社ニ入ランコトヲ求ム。遠公、其ノ心ノ雑ナルヲ以テ、之ヲ止ム」と『仏祖統記』にある。


■ 現代語訳

一瞬の時間を「勿体ない」と思う人はいない。「一瞬を惜しむことすら意味がないことだ」と悟りきっているからだろうか。それとも単に馬鹿なだけだろうか。馬鹿で、時間を浪費している人のために敢えて言おう。一円玉はアルミニウムだが、積もって山となれば貧乏人を富豪にする。だから商人はケチなのだ。瞬間を感じるのは困難であるが、瞬間の連続の果てには、命の終焉があり、あっという間に訪れる。

だから修行者は長い単位で月日を惜しんでいる場合ではない。この瞬間が枯れ葉のように飛び去ることを惜しむべし。もし、死神がやってきて「お前の命は明日終わる。残念だったな」と宣告したら、今日という日が終わるまで、自分が何を求め、何を思うか知るがよい。今、生きている今日が、人生最後の日ではない保証はない。その貴重な一日は、食事、排便、昼寝、会話、移動と退っ引きならない理由で、多くを費やすことになる。残ったわずかな時間を、無意味に行動し、無意味に語り、無意味に妄想して無駄に過ごし、そのまま一日を消し去り、ひと月を通り抜け、一生を使い切ったとすれば、それは、阿呆の一生でしかない。

中国の詩人、謝霊運は、法華経の翻訳を速記するほどの人物だったが、いつでも心の空に雲を浮かべて、詩ばかり書いていたから、師匠の恵遠は仲間達と念仏を唱えることを許さなかった。時間を無駄にして浮かれているのなら、何ら死体と変わらない。なぜ瞬間を惜しむのかと言えば、心の迷いを捨て、世間との軋轢がない状況で、何もしたくない人は何もせず、修行したい人は修行を続けるという境地に達するためだ。