第百二十一段

■ 原文

養ひ飼ふものには、馬・牛。繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなれば、いかゞはせん。犬は、守り防くつとめ人にもまさりたれば、必ずあるべし。されど、家毎にあるものなれば、殊更に求め飼はずともありなん。

その外の鳥・獣、すべて用なきものなり。走る獣は、檻にこめ、鎖をさゝれ、飛ぶ鳥は、翅を切り、籠に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁、止む時なし。その思ひ、我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。生を苦しめて目を喜ばしむるは、桀・紂が心なり。王子猷が鳥を愛せし、林に楽しぶを見て、逍遙の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。

凡そ、「珍らしき禽、あやしき獣、国に育はず」とこそ、文にも侍るなれ。


■ 注釈

1 桀・紂
 ・昔の中国、夏の桀王と殷の紂王の事。二人とも残虐な暴君であった。

参照:桀 - Wikipedia
参照:帝辛 - Wikipedia

2 王子猷
 ・晋の書聖と呼ばれた王羲之の子、王徽之(おうきし)。書家で竹を愛した風流人。「阮籍ガ嘯(うそぶ)ク場ニハ、人、月ニ歩ム。子猷ガ看ル処ニハ、鳥、煙(けぶり)ニ栖(す)ム」と『和漢朗詠集』にある。

参照:王羲之 - Wikipedia
参照:中国の書家一覧 - Wikipedia
参照:和漢朗詠集 - Wikipedia

3 珍らしき禽、あやしき獣、国に育はず
 ・「珍禽、奇獣、国ニ育(やしな)ハズ」と『書経』にある。

参照:書経 - Wikipedia


■ 現代語訳

エサを与えて育てる動物には牛と馬がいる。繋いでおくのは可哀想だけど、いなくては困るので仕方がない。犬は気合いが入っていない用心棒よりも、よっぽど役に立つので絶対に飼っておいた方が良さそうだが、どこの家にもいるので無理をして飼う必要もない。

それ以外の鳥や動物は、全て飼う必要がない。鎖に繋がれて檻に閉じ込められた獣は、駆け出したくて仕方なく、翼を切られてカゴに監禁された鳥は、雲を恋しく想い、飛び回りたく野山のことばかり考えている。鳥や動物の身になれば、辛くて辛抱できないだろう。血の通っている人間が、こんな事を楽しいと思うものか。動物に辛い思いをさせて目の保養にするのは、極悪非道な暴君と同じ心の持ち主である。風流な王子様が鳥を愛した逸話は、梢で遊んでいる鳥を見て、散歩のお供にしただけだ。決して捕まえていたぶっていたのではない。

だいたい「天然記念物の鳥や絶滅寸前の動物は日本に密輸してはいけない」とワシントン条約で決められているではないか。