第二百二十四段

■ 原文

陰陽師有宗入道、鎌倉より上りて、尋ねまうで来りしが、先づさし入りて、「この庭のいたすらに広きこと、あさましく、あるべからぬ事なり。道を知る者は、植うる事を努む。細道一つ残して、皆、畠に作り給へ」と諌め侍りき。

まことに、少しの地をもいたづらに置かんことは、益なき事なり。食ふ物・薬種など植ゑ置くべし。


■ 注釈

1 陰陽師
 ・陰陽寮に属した占筮及び地相などを司った。占い師。

参照:陰陽師 - Wikipedia

2 有宗入道
 ・阿倍有宗。陰陽頭。平安中期の有名な占い師で、安倍晴明、十代目の子孫に当たる。

参照:安倍晴明 - Wikipedia


■ 現代語訳

占い師の安倍有宗が、鎌倉から上京し訪ねて来た。門に足を踏み入れると、まず一言、「この庭は無駄に広い。何の工夫もなく、けしからぬ。少し頭を使えば、何かを栽培できるだろうに。小径を一本残して、あとは畑に作りかえろ」と説教した。

もっともな話である。少しの土地でも荒れ地にしておくのはもったいない。食べ物や薬でも植えた方がましである。

第二百三十八段

■ 原文

随身近友が自讃とて、七箇条書き止めたる事あり。皆、馬芸、させることなき事どもなり。その例を思ひて、自賛の事七つあり。

一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院の辺にて、男の、馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて、落つべし。暫し見給へ」とて立ち止りたるに、また、馬を馳す。止むる所にて、馬を引き倒して、乗る人、泥土の中に転び入る。その詞の誤らざる事を人皆感ず。

一、当代未だ坊におはしましし比、万里小路殿御所なりしに、堀川大納言殿伺候し給ひし御曹子へ用ありて参りたりしに、論語の四・五・六の巻をくりひろげ給ひて、「たゞ今、御所にて、『紫の、朱奪ふことを悪む』と云ふ文を御覧ぜられたき事ありて、御本を御覧ずれども、御覧じ出されぬなり。『なほよく引き見よ』と仰せ事にて、求むるなり」と仰せらるゝに、「九の巻のそこそこの程に侍る」と申したりしかば、「あな嬉し」とて、もて参らせ給ひき。かほどの事は、児どもも常の事なれど、昔の人はいさゝかの事をもいみじく自賛したるなり。後鳥羽院の、御歌に、「袖と袂と、一首の中に悪しかりなんや」と、定家卿に尋ね仰せられたるに、「『秋の野の草の袂か花薄穂に出でて招く袖と見ゆらん』と侍れば、何事か候ふべき」と申されたる事も、「時に当りて本歌を覚悟す。道の冥加なり、高運なり」など、ことことしく記し置かれ侍るなり。九条相国伊通公の款状にも、殊なる事なき題目をも書き載せて、自賛せられたり。

一、常在光院の撞き鐘の銘は、在兼卿の草なり。行房朝臣清書して、鋳型に模さんとせしに、奉行の入道、かの草を取り出でて見せ侍りしに、「花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ」と云ふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里誤りか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。己れが高名なり」とて、筆者の許へ言ひ遣りたるに、「誤り侍りけり。数行と直さるべし」と返事侍りき。数行も如何なるべきにか。若し数歩の心か。おぼつかなし。

一、人あまた伴ひて、三塔巡礼の事侍りしに、横川の常行道の中、竜華院と書ける、古き額あり。「佐理・行成の間疑ひありて、未だ決せずと申し伝へたり」と、堂僧ことことしく申し侍りしを、「行成ならば、裏書あるべし。佐理ならば、裏書あるべからず」と言ひたりしに、裏は塵積り、虫の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、各々見侍りしに、行成位署・名字・年号、さだかに見え侍りしかば、人皆興に入る。

一、那蘭陀寺にて、道眼聖談義せしに、八災と云ふ事を忘れて、「これや覚え給ふ」と言ひしを、所化皆覚えざりしに、局の内より、「これこれにや」と言ひ出したれば、いみじく感じ侍りき。

一、賢助僧正に伴ひて、加持香水を見侍りしに、未だ果てぬ程に、僧正帰り出で侍りしに、陳の外まで僧都見えず。法師どもを返して求めさするに、「同じ様なる大衆多くて、え求め逢はず」と言ひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それ、求めておはせよ」と言はれしに、帰り入りて、やがて具して出でぬ。

一、二月十五日、月明き夜、うち更けて、千本の寺に詣でて、後より入りて、独り顔深く隠して聴聞し侍りしに、優なる女の、姿・匂ひ、人より殊なるが、分け入りて、膝に居かゝれば、匂ひなども移るばかりなれば、便あしと思ひて、摩り退きたるに、なほ居寄りて、同じ様なれば、立ちぬ。その後、ある御所様の古き女房の、そゞろごと言はれしついでに、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉る事なんありし。情なしと恨み奉る人なんある」とのたまひ出したるに、「更にこそ心得侍れね」と申して止みぬ。この事、後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局の内より、人の御覧じ知りて、候ふ女房を作り立てて出し給ひて、「便よくは、言葉などかけんものぞ。その有様参りて申せ。興あらん」とて、謀り給ひけるとぞ。


■ 注釈

1 御随身近友
 ・中原近友。堀川・鳥羽天皇の時代の人。名ジョッキーで、神楽の舞手であった。

2 最勝光院
 ・後白河法皇中宮、建春門院の希望で建てられた御所。焼失し廃墟となった。位置は現在の三十三間堂のあたりだと言われる。

参照:平滋子 - Wikipedia

3 万里小路殿御所
 ・冷泉万里小路内裏。もとは四条大納言隆親の家であった。当時の東宮御所

4 堀川大納言殿
 ・源具親権大納言から大納言。後に内大臣

参照:源具親 - Wikipedia

5 後鳥羽院
 ・後鳥羽天皇

参照:後鳥羽天皇 - Wikipedia

6 定家卿
 ・藤原定家歌人。古典学者。『新古今和歌集』『新勅撰集』の選者。日記に『明月記』がある。

参照:藤原定家 - Wikipedia

7 九条相国伊通公
 ・藤原伊通太政大臣

参照:藤原伊通 - Wikipedia

8 常在光院
 ・菅原在兼。文章博士、左大辨、勘解由使長官、民部卿から参議へ。

9 行房朝臣
 ・藤原行房。世尊寺流の能書の家系、勘解由小路家に生まれる。

参照:「藤原行房」を作成中 - Wikipedia


10 佐理
 ・藤原佐理(すけまさ)。平安時代の能書家。三蹟の一人。

参照:藤原佐理 - Wikipedia

11 行成
 ・藤原行成平安時代中期の廷臣。多芸多才で名を馳せる。三蹟の一人。

参照:藤原行成 - Wikipedia

12 那蘭陀寺
 ・第百七十九段を参照。

参照:第百七十九段 - 徒然草 (新訂ブログ版)

13 道眼聖談義
 ・第百七十九段を参照。

参照:第百七十九段 - 徒然草 (新訂ブログ版)

14 賢助僧正
 ・醍醐寺の座主。護持僧で当時の一長者。

参照:「賢助」を作成中 - Wikipedia


■ 現代語訳

随身の中原近友が自慢話だと断って書いた、七つの箇条書きがある。全て馬術の事で、くだらない話だ。そう言えば、私にも自慢話が七つある。

一つ。大勢で花見に行ったときの事である。最勝光院の近くで馬に乗る男がいた。それを見て、「もう一度馬を走らせたら、馬が転んで落馬するでしょう。見てご覧なさい」と言って立ち止まった。再び馬が走ると、やはり引き倒してしまい、騎手は泥濘に墜落した。私の予言が的中したので、連中は、たまげていた。

一つ。後醍醐天皇が皇太子だった頃の話である。万里小路東宮御所に堀川大納言がご機嫌伺いにやって来て、待合室で待っていた。用事があって待合室に入ると、大納言は『論語』の四、五、六巻を広げて、「皇太子様が『世間では紫色ばかり重宝され、朱色を軽く見ているのが憎い』という話を読みたいと言うのだが、本を探しても見つからない。『もっとよく探してみろ』と言われて困っているところだ」と言った。私が「九巻の、そこにありますよ」と教えてあげたら、「とても助かった。ありがとう」と言って、その本を持って皇太子様のもとへと飛んで行った。子供でも知っているような事だけど、昔の人は、こんな些細な事も大げさに自慢したものだ。後鳥羽院が、「短歌に袖という単語と、袂という単語を一首の中に折り込むのは悪いことでしょうか」と、藤原定家に質問したことがあった。定家は、「古今集に『秋の草 薄が袂に見えてくる稲穂は手招きする袖のよう』という和歌が古今集にございますので、何ら問題はないでしょう」と、答えたそうだ。わざわざ「大切な場面で記憶していた短歌が役に立った。歌の専門家として名誉なことであり、神がかった幸運である」と、物々しく書き残している。藤原伊通も、嘆願書に、どうでも良い経歴を書きつけて自画自賛していた。

一つ。東山、常在光院にある鐘突の鐘は菅原在兼が草案を作った。藤原行房が清書した文字を、鋳型にかたどる時に、現場監督が草案を取りだして、私に見せた。「花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ」と書いてある。「韻を踏んでいますので、この百里というのは誤りでしょう」と言ってみた。監督は、「吉田先生にお見せして良かった。私の大手柄です」と、筆者である在兼の所へ伝えた。すると、「私の間違いだ。百里を数行に修正したい」と返事が返ってきた。しかし、数行というのもどうだろうか。数歩という意味だろうか。覚束ない。

一つ。大勢で比叡山の東塔、西塔、横川の三塔をお参りしたときの事である。横川のお堂の中に『竜華院』と書かれた古い額があった。「書道の名人、藤原佐理が書いたものか、藤原行成が書いたものか、どちらかが書いたものだと言われているのですが、はっきりしません」と、下っ端坊主がもったいぶって言うので、反射的に「行成が書いたものであれば、裏に説明書きがあるだろう。佐理が書いたものなら、裏は空白だ」と言ってやった。裏面はホコリまみれで蜘蛛の巣が張っていた。綺麗に掃除して、みんなで確認すると、「行成がいついつに書きました」と書いてあったので、その場にいた人は感心していた。

一つ。日本のナーランダで、道眼上人がありがたい話をしたときの事である。人の心を煩わせる八つの災いという話をしたのだが、その八つの災いを忘れたようで、「誰かこれを覚えている奴はいないか?」と言った。しかし、ここの弟子の中に覚えている奴はいなかった。草葉の陰から「かくかくしかじかのことですよ」と言ってやったら、上人に褒められた。

一つ。賢助僧正のお供として香水を聖なる玉に注ぐ儀式を見学していたときの事である。まだ儀式が終わっていないのに僧正は帰ってしまった。塀の外にも見あたらず、弟子の坊主たちを引き返らせて探させたけれども、「みんな同じような坊主の格好をしているので、探しても見つけられませんでした」と、かなり時間がかかった。「ああ、困ったことだ。あなたが探してきなさいと」言われて、私が引き返して、僧正をつれてきたのだった。

一つ。二月十五日の釈迦が入滅した日の事である。月の明るい夜更けに、千本釈迦堂にお参りに行き、裏口から入って、顔を隠してお経を聴いていた。いい匂いのする美少女が人を押しよけて入ってきて、私の膝に寄りかかって座るので、移り香があったらマズイと思って、よけてみた。それでも少女は私の方に寄り添ってくるので、仕方なく脱出した。そんなことがあった後に、昔からあるところで家政婦をしている女が、世間話のついでに、「あなたは色気の無いつまらない男ね。少しがっかりしました。あなたの冷たさに恨みを持っている女性がいるのですよ」などと言い出すので、「何のことだかさっぱりわかりません」とだけ答えておいて、そのままにしておいた。後で聞いたところ、あのお参りの夜、私の姿を草葉の陰から見て気になった人がいたらしく、お付きの女を変装させ、接近させたらしい。「タイミングを見計らって、言葉などをかけなさい。その様子を後で教えて。面白くなるわ」と言いつけて、私を試したのらしいのだ。

第二百二十三段

■ 原文

鶴の大臣殿は、童名、たづ君なり。鶴を飼ひ給ひける故にと申すは、僻事なり。


■ 注釈

1 鶴の大臣殿
 ・九条基家。内大臣。鶴殿(たずどの)と号した。歌人で『続古今集』の選者。

参照:九条基家 - Wikipedia


■ 現代語訳

九条基家が、鶴の大臣と呼ばれるのは、幼少の頃に「鶴ちゃん」と呼ばれていたからだ。鶴を飼っていたからという話は、でまかせだ。

第二百二十二段

■ 原文

竹谷乗願房、東二乗院へ参られたりけるに、「亡者の追善には、何事か勝利多き」と尋ねさせ給ひければ、「光明真言・宝篋印陀羅尼」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念仏に勝る事候ふまじとは、など申し給はぬぞ」と申しければ、「我が宗なれば、さこそ申さまほしかりつれども、正しく、称名を追福に修して巨益あるべしと説ける経文を見及ばねば、何に見えたるぞと重ねて問はせ給はば、いかゞ申さんと思ひて、本経の確かなるにつきて、この真言・陀羅尼をば申しつるなり」とぞ申されける。


■ 注釈

1 竹谷乗願房
 ・「竹谷」は京都市山科。「乗願房」は、権中納言長方の子で、竹谷上人と呼ばれた。法然上人の弟子である。

参照:山科区 - Wikipedia
参照:藤原長方 - Wikipedia

2 東二乗院
 ・後深草天皇の皇后、公子。西園寺実氏の娘。

参照:西園寺公子 - Wikipedia

3 光明真言・宝篋印陀羅尼
 ・大日如来の呪文。仏、菩薩の全てを通じる呪文か。


■ 現代語訳

山科の乗願房が、東二乗院の元へ参上したときのことである。東二乗院が、「死んだ人に何かをしてあげたいのですが、どうすれば喜ばれるでしょうか」と質問された。乗願房は、「こうみょうしんごん、ほうきょういんだらに、と唱えなさい」と答えた。弟子達が、「どうしてあんなことを言ったのですか。なぜ念仏が一番尊いと言わないのですか」と責め立てる。乗願房は、「自分の宗派の事だから、軽々しいことを言えなかったのだ。正しく、なむあみだぶつ、と唱えれば、死者に通じて利益があると書いた文献を読んだことがない。万が一、根拠を問われたら困ると思って、一応、経にも書いてある、この呪文を申したのだ」と答えた。

第二百二十一段

■ 原文

「建治・弘安の比は、祭の日の放免の附物に、異様なる紺の布四五反にて馬を作りて、尾・髪には燈心をして、蜘蛛の網書きたる水干に附けて、歌の心など言ひて渡りし事、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか」と、老いたる道志どもの、今日も語り侍るなり。

この比は、附物、年を送りて、過差殊の外になりて、万の重き物を多く附けて、左右の袖を人に持たせて、自らは鉾をだに持たず、息づき、苦しむ有様、いと見苦し。


■ 注釈

1 建治・弘安の比
 ・建治は千二百七十五年から七十八年、弘安は千二百七十八年から八十八年。後宇多天皇の時代。

参照:建治 - Wikipedia
参照:弘安 - Wikipedia
参照:後宇多天皇 - Wikipedia


■ 現代語訳

後宇多天皇の時代には、葵祭りの警備をする放免人が持つ槍に、変梃な飾りを付けていた。紺色の布を、着物にして四・五着ぶん使って馬を作り、尾や鬣はランプの芯を使い、蜘蛛の巣を書いた衣装などを付け、短歌の解釈などを言いながら練り歩いた姿をよく見た。面白いことを考えたものだ」と、隠居した役人達が、今でも昔話する。

近頃では、年々贅沢になり、この飾りも行き過ぎたようだ。色々と重たい物を、いっぱい槍にぶらさげて、両脇を支えられながら、本人は槍さえ持てずに息を切らせて苦しがっている。とても見るに堪えない。

第二百二十段

■ 原文

「何事も、辺土は賤しく、かたくななれども、天王寺舞楽のみ都に恥ぢず」と云ふ。天王寺伶人の申し侍りしは、「当寺の楽は、よく図を調べ合はせて、ものの音のめでたく調り侍る事、外よりもすぐれたり。故は、太子の御時の図、今に侍るを博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。その声、黄鐘調の最中なり。寒・暑に随ひて上り・下りあるべき故に、二月涅槃会より聖霊会までの中間を指南とす。秘蔵の事なり。この一調子をもちて、いづれの声をも調へ侍るなり」と申しき。

凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度鋳かへられけれども、叶はざりけるを、遠国より尋ね出されけり。浄金剛院の鐘の声、また黄鐘調なり。


■ 注釈

1 天王寺舞楽
 ・大阪市天王寺区にある四天王寺。「舞楽」は中国から伝来した古典音楽舞踏。

参照:四天王寺 - Wikipedia
参照:舞 - Wikipedia

2 伶人
 ・音楽を演奏する人。

3 太子
 ・聖徳太子

参照:聖徳太子 - Wikipedia

4 六時堂
 ・昼夜を、六時間にわけて、その時々に勤行をするお堂。

5 黄鐘調
 ・音の音程や調子で、ここでは鐘の音が同期していることを指す。


6 涅槃会
 ・二月十五日の、釈迦入滅の忌日に行う法事。

参照:涅槃会 - Wikipedia

7 聖霊
 ・聖徳太子が没した、二月二十日の忌日に行う法事。

参照:聖霊会 - Wikipedia

8 祇園精舎
 ・中インドの舎衛城にあった寺院。釈迦が説法を行った場所。

参照:祇園精舎 - Wikipedia

9 無常院
 ・祇園精舎にあった、病人を安息させるために建てた僧院。

10 西園寺

 ・京の西北の今の金閣寺のある地に藤原公経(きんつね)が建設した仏堂。

参照:西園寺 - Wikipedia

11 浄金剛院
 ・亀山殿(第五十一段)に、今昔の檀林寺の跡に建てられた御堂。現在の臨川寺の付近と推定される。

参照:亀山天皇 - Wikipedia
参照:臨川寺 - Wikipedia


■ 現代語訳

「何事も、辺鄙な片田舎は下品で見苦しいが、天王寺舞楽だけは、都に勝とも劣らない」と言う。天王寺の奏者が、「我が寺の楽器は、正確にチューニングされている。だから響きが美しく、他の舞楽よりも優れているのだ。聖徳太子の時代から伝わる調律の教えを今日まで守ってきたおかげである。六時堂の前に鐘がある。その音色と完全に一致した黄鐘調の音だ。暑さ寒さで鐘の音は変わるから、釈迦入滅の二月十五日から、聖徳太子没日の二月二十日の五日間を音の基準とする。門外不出の伝統である。この一音を基準に、全ての楽器の音色をチューニングするのだ」と、言っていた。

鐘の音の基本は黄鐘調だ。永遠を否定する無常の音色である。そして、祇園精舎にある無常院から聞こえる鐘の音なのだ。西園寺に吊す鐘を、黄鐘調にするべく、何度も鋳造した。結局は失敗して、遠くから取り寄せた。亀山殿の浄金剛院の鐘の音も、諸行無常の響きである。

第二百十九段

■ 原文

四条黄門命ぜられて云はく、「竜秋は、道にとりては、やんごとなき者なり。先日来りて云はく、『短慮の至り、極めて荒涼の事なれども、横笛の五の穴は、聊かいぶかしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず。その故は、干の穴は平調、五の穴は下無調なり。その間に、勝絶調を隔てたり。上の穴、双調。次に、鳧鐘調を置きて、夕の穴、黄鐘調なり。その次に鸞鏡調を置きて、中の穴、盤渉調、中と六とのあはひに、神仙調あり。かやうに、間々に皆一律をぬすめるに、五の穴のみ、上の間に調子を持たずして、しかも、間を配る事等しき故に、その声不快なり。されば、この穴を吹く時は、必ずのく。のけあへぬ時は、物に合はず。吹き得る人難し』と申しき。料簡の至り、まことに興あり。先達、後生を畏ると云ふこと、この事なり」と侍りき。

他日に、景茂が申し侍りしは、「笙は調べおほせて、持ちたれば、たゞ吹くばかりなり。笛は、吹きながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴毎に、口伝の上に性骨を加へて、心を入るゝこと、五の穴のみに限らず。偏に、のくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も心よからず。上手はいづれをも吹き合はす。呂律の、物に適はざるは、人の咎なり。器の失にあらず」と申しき。


■ 注釈

1 四条黄門
 ・藤原隆資。権中納言。「黄門」は中納言唐名南朝群に属して男山で戦死。死後、左大臣

参照:四条隆資 - Wikipedia

2 竜秋
 ・豊原竜秋。笙の名門、豊原家の出身。天皇や、隆資の師。

参照:三方楽所 - Wikipedia

3 横笛
 ・横向きに吹く笛。

参照:龍笛 - Wikipedia
参照:能管 - Wikipedia
参照:篠笛 - Wikipedia

4 景茂
 ・大神景茂。笛の名手で、筑前守。

5 笙
 ・雅楽で使う管楽器。

参照:笙 - Wikipedia


■ 現代語訳

四条大納言が「豊原竜秋という奴は、管楽器の分野においては神様のような者だ。奴が先日、こんなことを言った。『浅はかで、口にするのも恥ずかしいのですが、横笛の五番の穴は、いささか信用ならないと秘かに思っているのです。何故かと申せば、六番目の穴は、ミカンのミに近い音で、その上の五番目の穴は、変ト調です。その二つの穴の中間に、ファイトのファがあります。その上にある穴はアオイソラのソで、次の穴の中間がシアワセのシ、二番目の中の穴と一番目の六の穴の間は神聖な音です。このように、どの穴も、穴と穴の間に半音階を潜ませているのに、五番目の穴だけは上の穴との間に半音がありません。それでいて、他の穴と同じ間隔で並んでいるのです。ですから、五番目の穴からは、不自然な音が出ます。この穴を吹く時は、必ず口をリードから離して吹かなければならないのです。それが上手くできないと、楽器が言うことを聞いてくれません。この五番目の穴を吹きこなせる人は滅多いないのです』などと。奥深い考え方で、勉強になった。先輩は後輩を畏れよとは、このことであるな」と、おっしゃった。

後日、大神景茂が「笙の笛は調律済みの物を手にするのだから、適当に吹いていれば音が出る。笛はブレスで音を調整する。どの穴にも吹き方があり、しかも、演奏者は自分の癖を考えて調整するのだ。用心して吹くのは、五番目の穴だけではない。竜秋のように、ただ単に口を離して吹けば済むなどという、簡単なことではないのだ。適当に吹けば、どの穴も変梃な音が出るに決まっている。音の調子が、他の楽器と合わないのは、楽器に欠陥があるのではなく、演奏者に問題があるのだ」と、言った。