第百七十八段
■ 原文
或所の侍ども、内侍所の御神楽を見て、人に語るとて、「宝剣をばその人ぞ持ち給ひつる」など言ふを聞きて、内なる女房の中に、「別殿の行幸には、昼御座の御剣にてこそあれ」と忍びやかに言ひたりし、心にくかりき。その人、古き典侍なりけるとかや。
■ 注釈
1 内侍所(ないしどころ)
・女官が伺候する建物。温明殿。
2 神楽
・内侍所で毎年十二月に行われる神楽。
3 宝剣
・三種の神器の一つである御剣。
4 別殿の行幸
・天皇が清涼殿から忌み嫌う方角を避けて宮中の他の建物に移動すること。
5 昼御座の御剣
・清涼殿の昼の御座(御座所)に置かれている剣。草薙剣の代わりとしても用いられた。
7 典侍(ないしのすけ)
・宮中の女官の役職。天皇の身の回りの世話をする。
■ 現代語訳
あるところのサムライ達が、女官の宮殿に神楽を見に行った。後日、その様子を人に話した。「宝剣を、誰彼が持っていた」と話しているのを、女官が聞いて、御簾の中から、「天皇が別宅に行く際には、御座所にある剣を持って行くのだ」と小声で言った。慎みのある教養だ。その女官は長い間、天皇に使えた人であった。