第二百六段
■ 原文
徳大寺故大臣殿、検非違使の別当の時、中門にて使庁の評定行はれける程に、官人章兼が牛放れて、庁の内へ入りて、大理の座の浜床の上に登りて、にれうちかみて臥したりけり。重き怪異なりとて、牛を陰陽師の許へ遣すべきよし、各々申しけるを、父の相国聞き給ひて、「牛に分別なし。足あれば、いづくへか登らざらん。わう弱の官人、たまたま出仕の微牛を取らるべきやうなし」とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば換へられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。
「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」と言へり。
■ 注釈
1 徳大寺故大臣殿
・藤原公孝。「徳大寺太政大臣」として第二十三段に登場。
2 検非違使の別当
・検非違使庁の長官。「別当」は長官の意。
3 官人章兼
・「官人」は、初位以上、六位以下の官位。「章兼」は、中原章兼。少尉。
5 浜床
・帳台の下に置く台で、檜の白木で造る。
6 陰陽師
・陰陽寮に属した占筮及び地相などを司った。占い師。
■ 現代語訳
藤原公孝が警視庁官だったときに話である。「ああでもない。こうでもない」と話し合い、判決を取っていると、ノンキャリア官僚、中原章兼の車を牽く牛が逃げ出した。牛は役所の中に入り、公孝が座る台座によじ登り、口をモゴモゴさせながらひっくり返った。その場に居た官僚どもは、「とても不吉である。牛を占い師に見せてお祓いしなさい」と言った。それを聞いた、公孝の父君である大臣の実基が、「牛には善悪の区別がない。脚があるのだから、どこにでも登るだろう。貧乏公務員が通勤に使う痩せ牛を取り上げても仕方がない」と言って、持ち主の章兼に引き渡した。牛がいた場所の畳を張り替えて終わりにしたが、取り立てて縁起の悪いことも無かった。
「不吉なことがあっても、気にしなければ、凶事は成り立たない」と古い本に書いてある。