第百四十四段

■ 原文

栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふ男、「あしあし」と言ひければ、上人立ち止りて、「あな尊や。宿執開発の人かな。阿字阿字と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ。余りに尊く覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿の御馬に候ふ」と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生にこそあンなれ。うれしき結縁をもしつるかな」とて、感涙を拭はれけるとぞ。


■ 注釈

1 栂尾の上人
 ・京都市右京区梅ヶ畑高尾町にある栂尾山に高山寺を造った明恵上人。

参照:高山寺 - Wikipedia
参照:明恵 - Wikipedia

2 宿執開発
 ・前世の功徳が現世で花開いた人。

3 阿字(あじ
 ・梵字の十に母音の初めの文字。この字が元になって全ての梵字が始まることから、森羅万象の源と考えられる。

参照:梵字 - Wikipedia

4 府生殿
 ・皇居の警備を司った役人の総称。

参照:検非違使 - Wikipedia

5 阿字本不生
 ・「阿字」つまり「阿」は宇宙の根源とすると、他の物からの原因で現れた物ではなく、宇宙は不滅であるという理屈。

参照:http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E7%94%9F&dtype=0&stype=2&dname=0ss&pagenum=11&index=100303600000

6 結縁(けちえん)
 ・仏道修行に縁を見つけ、未来の悟りに縁を見つけること。


■ 現代語訳

明恵上人が散歩をしていると、小川で男が「脚、脚」と言って、馬の脚を洗おうとしていた。上人は立ち止まり、「有り難や。現世に降臨した神様でしょうか? 阿字阿字と宇宙を創造する言葉を唱えておられます。どのような方のお馬様かお尋ねします。この上なく神聖なことでございます」と言った。男は、「フショウ殿の馬ですよ」と答えた。「なんて嬉しいことでしょう。阿字本不生。つまり宇宙は永遠に不滅です。未来への悟りが見えてきました」と言って、感動で流れる涙を拭いたそうだ。