第百九十六段

■ 原文

東大寺の神輿、東寺の若宮より帰座の時、源氏の公卿参られけるに、この殿大将にて先を追はれけるを、土御門相国、「社頭にて、警蹕いかゞ侍るべからん」と申されければ、「随身の振舞は、兵杖の家が知る事に候」とばかり答へ給ひけり。

さて、後に仰せられけるは、「この相国、北山抄を見て、西宮の説をこそ知られざりけれ。眷属の悪鬼・悪神恐るゝ故に、神社にて、殊に先を追ふべき理あり」とぞ仰せられける。


■ 注釈

1 東大寺の神輿
 ・奈良にある大仏を本尊とする、華厳宗の総本山。「御輿」は東大寺鎮守神の神霊を安置する御輿。

参照:東大寺 - Wikipedia

2 東寺の若宮
 ・京都市下京区九条町にある古義真言宗東寺派の大本山。「若宮」は本宮から分霊した新しい神社。

参照:東寺 - Wikipedia

3 この殿
 ・全段の久我通基。

参照:久我通基 - Wikipedia

4 土御門相国
 ・源定実。相国は太政大臣

参照:土御門定実 - Wikipedia

5 北山抄
 ・藤原公任が監修した、朝廷での公事、儀式の故実書。「神社ノ行幸、大嘗会ノ御禊ニ准ズ。但シ、社頭ニ至リテ、警蹕セズ。猶、憚リ有ル可キカ」とある。

参照:北山抄 - Wikipedia

6 西宮
 ・醍醐天皇の皇子、源高明が書いた、『西宮記』。『北山抄』と同じく、朝廷での公事、儀式の故実書。現存本には、社頭での警蹕について記述が残っていない。

参照:西宮記 - Wikipedia


■ 現代語訳

東大寺の御輿が、東寺に新設した八幡宮から奈良に戻されることになった。八幡宮氏神とする源氏の公家が御輿の警護に駆けつけた。キャラバンの隊長は、かの内大臣、久我通基公である。出発にあたって、随身が野次馬を追い払うと、太政大臣の源定実が、「宮の御前で、人を追っ払うのはいかがなものでしょうか」と咎めた。通基は、「セキュリティポリスの振る舞いは、私たち武家の者が心得ているのでございます」とだけ答えた。

その後、通基は、「あの太政大臣は、『北山抄』に記された作法だけ読んで、『西宮記』に書いてある作法を知らないようだ。八幡宮の手下である鬼神の災いを恐れ、神社の前では、必ず人払いをしなくてはならない」と言った。