第二百三十一段
■ 原文
園の別当入道は、さうなき庖丁者なり。或人の許にて、いみじき鯉を出だしたりければ、皆人、別当入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかゞとためらひけるを、別当入道、さる人にて、「この程、百日の鯉を切り侍るを、今日欠き侍るべきにあらず。枉げて申し請けん」とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、或人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、「かやうの事、己れはよにうるさく覚ゆるなり。『切りぬべき人なくは、給べ。切らん』と言ひたらんは、なほよかりなん。何条、百日の鯉を切らんぞ」とのたまひたりし、をかしく覚えしと人の語り給ひける、いとをかし。
大方、振舞ひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、勝りたる事なり。客人の饗応なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、たゞ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と云ひたる、まことの志なり。惜しむ由して乞はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。
■ 注釈
1 園の別当入道
・藤原基氏。検非違使別当(第九十九段参照)となり、二十四歳で引退、出家する。
参照:園基氏 - Wikipedia
参照:四条流庖丁道 - Wikipedia
3 北山太政入道殿
・百十八段に登場。後京極院の父、西園寺実兼(さいおんじさだかね)。
■ 現代語訳
園の別当入道は、二人といない料理人である。ある人の家で見事な鯉が出てきたので、誰もが皆、別当入道の包丁捌きを見たいと思ったが、軽々しくお願いするのもどうかと逡巡していた。別当入道は察しの良い人物なので、「この頃、百日連続で鯉を捌いて料理の腕を磨いております。今日だけ休むわけにもいきません。是非、その鯉を調理しましょう」と言って捌いたそうだ。場の雰囲気に馴染み、当意即妙だと、ある人が北山太政入道に言った。入道は、「こんな事は、厭味にしか聞こえない。『捌く人がいないなら下さい。捌きます』とだけ言えばいいのだ。どうして百日の鯉などと、わけの分からないことを言うのだろうか」と、おっしゃったので、納得したという話に、私も納得した。
わざとらしい小細工で人を喜ばせるよりも、何もしない方がよいのだ。口実を作って接待をするのも良いが、突然にご馳走する方が、ずっと良い。プレゼントも、記念日などではなく、ただ「これをあげよう」と言って差し出すのが、本物の好意なのだ。もったいぶって、相手を焦らしたり、ギャンブルの景品にするのは興ざめである。
第二百三十段
■ 原文
五条内裏には、妖物ありけり。藤大納言殿語られ侍りしは、殿上人ども、黒戸にて碁を打ちけるに、御簾を掲げて見るものあり。「誰そ」と見向きたれば、狐、人のやうについゐて、さし覗きたるを、「あれ狐よ」とどよまれて、惑ひ逃げにけり。
未練の狐、化け損じけるにこそ。
■ 注釈
1 五条内裏
・五条大宮内裏。一二七〇年に焼失。
2 藤大納言殿
・二条為世。権大納言。宮廷歌人。兼好法師の和歌の師である。歌論書に『和歌庭訓』がある。
3 黒戸
・清涼殿の北廂から弘徽殿までの西向きの戸。ここを黒戸の御所と呼ぶ。
■ 現代語訳
五条の皇居には妖怪が巣くっていた。二条為世が話すには、皇居に上がることを許された男たちが黒戸の間で碁に耽っていると、簾を上げて覗き込む者がある。「誰だ」と眼光鋭く振り向けば、狐が人間を真似て、立て膝で覗いていた。「あれは狐だ」と騒がれて、あわてて逃げ去ったそうだ。
未熟な狐が化け損なったのだろう。
第二百二十七段
■ 原文
六時礼讃は、法然上人の弟子、安楽といひける僧、経文を集めて作りて、勤めにしけり。その後、太秦善観房といふ僧、節博士を定めて、声明になせり。一念の念仏の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讃も、同じく、善観房始めたるなり。
■ 注釈
1 六時礼讃
・浄土宗の法要のひとつ。一日を六つに分けて浄土往生の念仏を唱える。
2 法然上人
・第三十九段に登場。本名は源空、法然房と名乗った。岡山生まれのお坊さん。浄土宗を開いた。
3 安楽
・法然の弟子。法名は遵西。後鳥羽上皇の留守中に御所の女房を出家させ、上皇の逆鱗に触れ、六条河原で処刑され羅切、及び斬首される。
5 節博士
・詞章の隣に調子の高低、長短を記した符号。ネウマ符。
6 後嵯峨院の御代
・後嵯峨天皇の在位期間。一二四二年から一二四六年まで。
7 法事讃
・『転経行道願往生浄土法事讃』の略で、浄土転経行道の善行が記された書。
■ 現代語訳
六時の礼賛は、法然の弟子の安楽という僧が経文を集めて作り、日々の修行にしていたのが起源である。のちに、太秦の善観房という僧がアクシデンタルを追加して楽譜にした。これが一発で昇天できるという「一念の念仏」の始まりである。後嵯峨天皇の時代のことだ。「法事讃」を楽譜にしたのも善観房である。
第二百二十六段
■ 原文
後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉ありけるが、楽府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名を附きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸ある者をば、下部までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の業は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。
■ 注釈
1 後鳥羽院の御時
・全段の後鳥羽院が統治した時代。一一八三年から一一九八年まで。
2 信濃前司行長
・信濃の国の前任の地方官。中山行輶の三男で、下野守。「信濃前司」は、兼好法師の誤り。
3 慈鎮和尚
・六十七段に登場する「吉水和尚」。前後四度、天台座主で歌人。
4 平家物語
・平家滅亡を記した軍記物語。
5 生仏
・性仏、姉小路資時という説がある。郢曲において天下の名人と呼ばれる。
6 山門
・比叡山延暦寺のこと。三井寺は「寺門」と呼ばれる。
8 蒲冠者
・源範頼。源義朝の六男。弟の義経と協力し、木曾義仲、平家を討ち滅した。
9 琵琶法師
・『平家物語』を琵琶の伴奏で聞かせる盲目の僧侶。
■ 現代語訳
後鳥羽院の時代のことである。地方官の行長は古典の研究に優れ、評判が高かった。しかし、漢詩の勉強会で、白楽天の新楽府を論じた際に「七徳の舞」のうち、二つを忘れてしまい、天皇の前で恥をかいだけでなく「五徳のお兄さん」という不名誉なあだ名まで額に烙印されてしまった。羞恥心に悶絶した行長は、勉強を辞めて、人生も捨ててみることにした。慈円僧正という人は、一つの芸に秀でた者ならば奴隷でも可愛がったので、この行長の面倒をみた。
『平家物語』の作者は、この行長なのだ。性仏という盲目の坊主に教えて、語り部にさせた。比叡山での事を特に緻密に書き、義経にも詳しい。範頼の事は詳しく知らなかったのか、適当に書いている。武士や武芸については関東者の性仏が仲間に聞いて行長に教えた。今の琵琶法師は、この郢曲で名高い性仏の地声を真似しているのだ。
第二百二十五段
■ 原文
多久資が申しけるは、通憲入道、舞の手の中に興ある事どもを選びて、磯の禅師といひける女に教へて舞はせけり。白き水干に、鞘巻を差させ、烏帽子を引き入れたりければ、男舞とぞ言ひける。禅師が娘、静と言ひける、この芸を継げり。これ、白拍子の根元なり。仏神の本縁を歌ふ。その後、源光行、多くの事を作れり。後鳥羽院の御作もあり、亀菊に教へさせ給ひけるとぞ。
■ 注釈
1 多久資(おほのひさすけ)
・周防守。多家(おおのけ)は、神楽と舞を家業にして宮廷に仕えた。
2 通憲入道
・藤原通憲(みちのり)。鳥羽・崇徳・近衛・後白河の四代天皇に仕え、少納言になる。出家して、信西と称した。博学多才として知られる。
3 磯の禅師
・後に登場する「静」の母。静に伴い京都から鎌倉に下向。「禅師」は芸妓の源氏名。
5 白拍子
・遊女が男装して舞う歌舞。
6 源光行
・鎌倉初期の歌人で学者でもあった。源頼朝のセキュリティ・ポリス。関東地方で活躍し『蒙求和歌』『百詠和歌』などの著書を残す。『源氏物語』の河内本を校閲した。
7 後鳥羽院
・第八十二代の天皇。承久の乱に失敗し、隠岐の島に流される。
参照:後鳥羽天皇 - Wikipedia
参照:承久の乱 - Wikipedia
8 亀菊
・後鳥羽院が寵愛した舞姫。この寵愛が承久の乱の原因の一つとなったと伝えられる。隠岐の島に連れ添う。
■ 現代語訳
舞踏家の多久資が言っていた。「藤原信西入道が、数ある舞の中から好きな物を選んで、磯の禅師という芸妓に教えて舞わせた。白装束に匕首、黒烏帽子という出で立ちだったので、男舞と呼んだ。その芸妓の娘が静御前である。母の舞を伝承したのだ。これが白拍子の起こりである。太古の神話を歌っていたが、のちに、源光行が多くの台本を手がけた。後鳥羽院の手なる作品もあり、愛人の亀菊という芸妓に舞わせた」と。