末摘花の帖 二 頭中将の尾行、中務の恋

(現代語訳)
 今夜は、他に密通する場所があるのだろうか。ゲンジの君は、そわそわと帰ろうとする。

 「ミカドが、ゲンジの君は堅物で困る、と勘違いして心配しているから、あたしは可笑しくて。まさか、こんな不純な夜歩きをしているなんて知らないでしょうから」

とタイフの命婦が冷やかすので、ゲンジの君は微笑みながら引き返して、

 「命婦、お前までそんなことを言うのか。今夜のことを不純だと言うなら、お前の恋愛は何と呼ぶんだい」

と嫌味を言うのだった。ゲンジの君は、淫らな女だと思って、このようなことをよく言うので、タイフの命婦は恥ずかしく、何も言い返せない。

 母屋の方へ行けば、姫君の様子がわかるかも知れないと思って、ゲンジの君は忍び寄った。竹を結んだ垣根だろうか、ボロボロになって少し残っているその陰にへばりつこうとすると、そこには先客がいたのだった。「誰だろう。この姫君に欲情している変質者だろうか」と自分のことを棚に上げて、暗闇に身を隠した。その人影は頭中将だったのだ。

 今日の夕方、二人は後宮を一緒に後にしたのだが、ゲンジの君は、左大臣家にも行かず、二条院にも帰らなかった。途中で行方をくらまそうとするので、頭中将は「あやしい。どこへ行くのか」と、自分も行くところがあったのを、そっちのけにしてまで尾行したのだった。貧弱な馬に乗って、汚らしい普段着に変装して来たので、ゲンジの君は気がつかなかったのだ。頭中将は、ゲンジの君が、とんでもないボロ屋に入っていたので、理解に苦しんでいるうちに、琴の音が聞こえてきた。聞き惚れて佇みながら、ゲンジの君が引き上げるのを待ち構えていたのだった。ゲンジの君は、誰だかわからずに、自分の正体を知られたらまずいと、抜き足差し足、庭を脱出しようとしたとたんに、男が近づいてくる。

 「そこの変態、私を撒きましたね。癪にさわったので、迎えに来ましたよ。

 道連れに夜空に浮かんだはずなのに十六夜う月は何処へ消えたか」

と毒舌なのが鼻持ちならないが、頭中将だとわかって、ゲンジの君は、笑ってしまった。「面白いことをしてくれるね」と舌打ちしながら、一首詠んで、

 「その月はあまねく大地を照らすもの月の行方を探してくれるな

 こうやって尾行されたら、どうするでしょうか? あなたって言う人は」

と言うのだった。

 「良いことを教えましょう。夜這とは、連れて行く家来の活躍が重要です。これからは私にご用命下され。夜歩きは何かと危険がつきものですね」

と頭中将も負けずに箴言めいたことを言う。ゲンジの君は、今回の失態を悔しく思うが、あの撫子と呼ばれた夕顔の娘を、頭中将は未だ見つけじまいだと思えば、自分も負けてないと自尊心が慰められるのだった。二人とも密通する場所があったが、ここで別れるのは気まずいのだった。二人は一台の車に乗って、ふわふわと雲に隠れる月の夜道を、笛の合奏をしながら、左大臣家へと向かった。

 先払いの声もさせずに、こっそり入って、頭中将は、人気のない廊下で直衣に着替えた。何ごともなかったように、ゲンジの君の所へ来たような振りをして、笛を吹き合わせていると、左大臣が聞きつけて、横笛を持ってきた。ゲンジの君は、この楽器が得意なので見事な演奏を疲労する。簾の向こうでも、琴が登場し、腕に覚えのある女官が弾き鳴らす。

 中務の君という女官は琵琶の名手だ。けれども、頭中将が言い寄るのを無視して、気まぐれにゲンジの君に優しくされるのが忘れられない。ゲンジの君との噂が自然と広がって、アオイの母君も「恥知らず」と腹を立てている。中務は、その場に居づらい気まずさに、寂しそうに壁に寄りかかっていた。遠い場所に消えてしまいたいが、もうゲンジの君の姿を見ることができないと思うと悲しくて、息ができなくなるのだった。


(原文)
 また契りたまへる方やあらむ、いと忍びて帰りたまふ。

 「上の、まめにおはしますと、もてなやみきこえさせたまふこそをかしう思うたまへらるるをりをりはべれ。かやうの御やつれ姿を、いかでかは御覧じつけむ」

と聞こゆれば、たち返り、うち笑ひて、

 「こと人の言はむやうに、咎なあらはされそ。これをあだあだしきふるまひと言はば、女のありさま苦しからむ」

とのたまへば、あまり色めいたりと思して、をりをりかうのたまふを、恥づかしと思ひて、ものも言はず。

 寝殿の方に、人のけはひ聞くやうもやと思して、やをら立ちのきたまふ。透垣のただすこし折れ残りたる隠れの方に、立ち寄りたまふに、もとより立てる男ありけり。誰ならむ、心かけたるすき者ありけりと思して、蔭につきてたち隠れたまへば、頭中将なりけり。

 この夕つ方、内裏よりもろともにまかでたまひける、やがて大殿にも寄らず、二条院にもあらで、引き別れたまひけるを、いづちならむと、ただならで、我も行く方あれど、あとにつきてうかがひけり。あやしき馬に、狩衣姿のないがしろにて来ければ、え知りたまはぬに、さすがに、かう異方に入りたまひぬれば、心も得ず思ひけるほどに、物の音に聞きついて立てるに、帰りや出でたまふと、した待つなりけり。君は、誰ともえ見分きたまはで、我と知られじと、ぬき足に歩みのきたまふに、ふと寄りて、

 「ふり捨てさせたまへるつらさに、御送り仕うまつりつるは。

 もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月」

と恨むるも、ねたけれど、この君と見たまふに、すこしをかしうなりぬ。「人の思ひよらぬことよ」と憎む憎む、

 里分かぬかげをば見れど行く月のいるさの山を誰かたづぬる

 「かう慕ひ歩かば、いかにせさせたまはむ」

と聞こえたまふ。

 「まことは、かやうの御歩きには、随身からこそはかばかしきこともあるべけれ、後らさせたまはでこそあらめ。やつれたる御歩きは、かるがるしきことも出で来なむ」

とおし返し諌めたてまつる。かうのみ見つけらるるを、ねたしと思せど、かの撫子はえ尋ね知らぬを、重き功に、御心の中に思し出づ。おのおの契れる方にも、あまえて、え行き別れたまはず、一つ車に乗りて、月のをかしきほどに雲隠れたる道のほど、笛吹きあはせて大殿におはしぬ。

 前駆なども追はせたまはず、忍び入りて、人見ぬ廊に、御直衣ども召して着かへたまふ。つれなう今来るやうにて、御笛ども吹きすさびておはすれば、大臣、例の聞き過ぐしたまはで、高麗笛とり出でたまへり。いと上手におはすれば、いとおもしろう吹きたまふ。御琴召して、内にも、この方に心得たる人々に弾かせたまふ。

 中務の君、わざと琵琶は弾けど、頭の君心かけたるをもて離れて、ただこのたまさかなる御気色のなつかしきをば、え背ききこえぬに、おのづから隠れなくて、大宮なども、よろしからず思しなりたれば、もの思はしくはしたなき心地して、すさまじげに寄り臥したり。絶えて見たてまつらぬ所にかけ離れなむも、さすがに心細く、思ひ乱れたり。


(註釈)
1 撫子
 ・頭中将と夕顔の子。のちの「玉鬘」である。