末摘花の帖 四 ゲンジ、雪の朝に末摘花の鼻に絶句する

(現代語訳)
 朱雀院の行幸が近づくと、ミカドの御前で試演などが始まり騒がしくなってくる。その頃、タイフの命婦後宮に戻ってきた。

 「あの人はどうしている」

とゲンジの君は詰め寄った。気の毒には思っているらしい。タイフの命婦は状況を報告して、「こんなに愛想を尽かしたようにされては、周りの女官たちまで可哀想になってしまいます」と泣きべそなのだった。ゲンジの君は「タイフの命婦が、純粋な関係程度で留めておこうとしたのを、私がぶち壊してしまった。この人は、私を非道い男だと思っているだろうな」とバツが悪かった。また「あの姫君は、何も言わずに萎れているのだろう」と想して哀れに思った。「今は忙しいのだ。仕方ないよ」と溜息をついて、

 「世の中の仕組みがわかっていないようだから、少し懲らしめてやろうと思ってね」

と微笑むのだった。その顔がみずみずしく綺麗なので、タイフの命婦も釣られて笑ってしまう。「この若さでは、大勢の女から恨まれても仕方ないわね。女心も知らないで、やりたい放題なのも当然だわ」と頷けるのだった。

 この御幸の準備も落ち着いた頃、ゲンジの君は時々、常陸宮家に通う。しかし、若紫を二条院に拉致してからは、この子に夢中でいたから、六条付近の人ともご無沙汰になってしまった。なので、荒ら屋のことは、いつも可哀想だと思いながら、だんだんと面倒臭くなってしまうのだった。あの必要以上に恥ずかしがる姫君の素顔を見てみたいという気持ちも、今ではどうでも良くなってきたまま時間が過ぎた。それでも「じっくり見てみれば素敵な人なのかも知れない。いつもは暗闇で手探りに触っているだけだから馴染めないのだろうか。姿を見てみたい」と思うのだが、じろじろと正面で見るわけにもいかないので覗くことにした。女官たちが油断している夕暮れに、こそこそと侵入して跳ね上げ窓の隙間から透き見するのだった。当然ながら姫君の姿が見えるはずがない。仕切り布はボロボロに破れていたが、昔から同じ場所に整然と配置してあるようで、よく見えない。かろうじて四、五人の女官だけが確認できた。お膳があって、舶来の言われありそうな青磁の食器が乗っているが、古ぼけていていて、あられもない。奥の部屋から下がって、味気ない食事をしているようだ。屋敷の隅の部屋で、凍えそうな女官が、信じられないほど垢まみれの着物に、汚れた布を巻いている腰の様子が不気味なのだった。それでも、古式ゆかしく髪の毛を櫛で押さえつけている額は、舞の練習所や、神鏡の御鎮所などの伝統継承をしている場所で、似たような人を見たことがあるので、ゲンジの君は笑えてきた。こんな天然記念物が、宮家の姫君に侍っていることが信じられないのだった。

 「ああ、今年は寒いわ。長生きすると、こんな目にも遭うのね」

と泣いている女官もいる。

 「亡くなった常陸宮さまがいたときに、不満を言ったこの口が憎い。こんなに没落しても死ねないなんて」

と飛び上がりそうに震えるている女官もいた。ありとあらゆる惨状をぼやいているのを盗み聞きするのも悪趣味だと思って、ゲンジの君は引き下がった。そして、今しがた来たような素振りで跳ね上げ窓を叩くのだった。女官たちは「さあ」と言って、火を灯し、跳ね上げ窓を上げて、ゲンジの君を迎入れる。

 姫君のメノトの娘である、あの侍従は斎院にも仕えた若い女官だったので、最近はここにいない。残ったのは、貧乏くさい田舎者しかいないので、ゲンジの君は当惑していた。「寒い」と愚痴っていた雪が、よりいっそう強く降りしきる。空模様は大荒れで風が吹き荒れ、灯火を消してしまうのだが、誰も火を付けようとしない。ゲンジの君は、あの夕顔の君が化け物に襲われた夜を思い出した。あの時と同じように荒れた場所だが、ここは狭くて、まだ人気が少しあるのが気休めになった。それでも、恐ろしくて、嫌な予感がする、とても眠れそうにない夜なのだった。この、不思議と胸が締め付けられる夜は、日常からかけ離れて、胸騒ぎを覚えさそうなものなのに、姫君は恥ずかしがって愛想がないので、ゲンジの君は肩透かしを喰らっているのだった。

 やっと夜が明けたようだ。ゲンジの君は自分で跳ね上げ窓を開けて、庭の植え込みに積もった雪を見ている。人の足跡が一つもなく、遠くまで荒れ果てている。とても殺伐としているので、ゲンジの君は、このまま振り切って帰るのが可哀想になった。

 「鮮やかな空の色だ。見てご覧。いつまでも警戒している、あなたの気持ちを扱いきれなません」

とゲンジの君が不満を言う。外はまだ薄暗いのだが、雪の光に反射した、この男の瑞々しくて、美しいと言ったら。年老いた女官たちは、うっとりと笑みをこぼす。

 「早くお出まし下さい。恥ずかしがるのは良くありません」

 「女は素直にするものです」

などと女官たちが言って聞かせると、この姫君は人の言うことに逆らえない性格なので、とにかく身支度して近寄ってくるのだった。ゲンジの君は見ない振りをして、外を見つめているのだが、横目で盗み見ずにはいられなかった。「どうだろう。心を許しあってから、少しでも美しいと感じる人だったら」とゲンジの君は思っているのだが、それも無理な話なのである。最初に、座高が高く胴長に見えたので「やはり悪い予感が的中した」と絶句した。次に「なんだこれは」と見たのは鼻だった。目が釘付けになる。普賢菩薩が乗っていた象のようだ。おぞましく高い鼻が長く、尖端は少し垂れ下がって色づいている。これが際だって不気味だ。顔色は雪も恥じらう白さで、青ざめている。額は腫れぼったいのに、下ぶくれしているのは、顔がとてつもなく長いからだろう。痩せこけているのは、哀れに思うぐらいだった。骨張っていて、鎖骨が痛々しく着物の上まで浮いている。ゲンジの君は「なぜ、全てを見てしまったのだろうか」と良心の呵責を感じながらも、滅多に見られそうもない容貌に観察せざるを得なかった。

 頭の形や髪の生え具合は、一般的に美人だと言われている姫君たちと比べたとしても、勝るとも劣らない。引き摺った着物の裾よりも、一尺ばかり長かった。着ている物のあら探しをするのも差し出がましい気がするが、昔物語では、最初に登場人物の衣装について書くものなので仕方ない。淡い色がさらに脱色して白くなった物を重ねて、その上に黒ずんだ着物、立派に誂えた黒貂の皮衣を、香しく重ねている。曰く付きの年代物の出で立ちだが、若い女の身なりには、ほど遠く、飛び抜けて時代錯誤なのだった。しかし、この皮衣がなかったら、さすがに寒いだろうと思わずにいられない顔色を、ゲンジの君は腫れ物に触るように見つめていた。

 もはやゲンジの君に言葉はなかった。自分までが無口な人間になった気がするが、毎度の無言もほころびるかどうか実験してみようかと、色々と話すのだった。姫君は過敏に恥ずかしがって、口を袖で隠してしまう。それが古ぼけていて、田舎くさい。儀式を取り仕切る役人が、物々しく練り歩くときの肘付きを思い出される。一所懸命に笑う姫君の顔は、ただ不細工で仮面のようだった。ゲンジの君は、痛まれなくて逃げる。

 「身寄りのない立場なのですから、深い仲になった私には、嫌がらないで心を開いて欲しいと思っているのです。私を拒んでいるようだから、悲しくて」

とゲンジの君は、姫君が悪いようにしておいて、

 朝日差す軒のつららは溶けるのに地面を覆う氷は溶けず

と一首詠むのだった。姫君は「うう」と口ごもって笑い、返歌さえできそうにないのが悲惨に見えるので、ゲンジの君は立ち去るのであった。

 車を寄せた中門が酷く歪んでいる。夜に見れば、何となく荒れ果てているとは思っても、闇に隠されていたのだった。朝に見渡せば、何とも寂しく荒廃して、松に積もった雪だけがふっくらとしている。山里のように寂しく閑散としているので、ゲンジの君は「雨夜の品定めで、あいつらが言っていた、草の絡まった廃屋というのは、こんな場所なのかも知れない。確かに、悲惨な境遇の女をこんな場所に囲って、心配しながら心を通わせてみたい。そうすれば、禁断の恋の傷心も癒えるだろう。理想の場所ではあったが、住んでいる人が理想ではなかった。もし私でなかったら、とんずらするだろう。姫君と私が結ばれたのは、亡き常陸宮の霊魂が、娘の将来を案じて、死んでも死にきれずに引き寄せたのだろう」と思うのだった。

 橘の木が雪に埋もれているので、家来を呼んで払わせる。それを嫉むように松の木が跳ね上がって雪を落とす。「名に立つ末の」という歌のようで「特別な知識はいらないから、こんなことを共有できる人がいて欲しい」とゲンジの君は見つめている。車を引き出す門が、まだ閉まっているので、鍵を持った門番を探すと、よぼよぼな老人が出てきた。つついて、娘だか孫だかわからぬような中途半端な年齢の女がついてきた。着ている物に雪が反射して、よりいっそう汚らしく見える。骨の心まで冷えている顔をして、見たこともない入れ物に火を少しだけ癒えて、袖で包んで抱きかかえている。老人が門を開けられないので、女が隣で手伝うのだが、まったく役に立たないのだった。ゲンジの君の家来が近寄って開門する。

 「降る雪が翁の頭を濡らすのに劣らぬ涙で袖濡らす我

幼い人は着る物もない」

とゲンジの君は、一首詠んで、『白氏文集』の詩を口ずさむのだった。鼻の先が花の色に染まった、寒そうな姫君の顔を思い出して、つい笑ってしまう。「頭中将に、あの姫君を見られたら、何て馬鹿にされるだろうか。しょっちゅう偵察に来ているようだから、そのうち発覚されるだろう」とゲンジの君は、始末が悪い。平凡で普通の女だったら、放置しておいても構わないのだが、あの姿を見てしまったゲンジの君は、日に日に不憫に思えてきて、いつも気にかけて面倒をみた。

 黒貂の皮衣は、さすがにいただけないので、絹や、綾や、木綿など、老人女官の着物や、あの鍵預かりの翁のためにも、召使いの上から下まで余すことなく贈った。こんな風に面倒をみられるのを、姫君は嫌がらなかったので、ゲンジの君は「生活の面倒もみてあげよう」という気にもなったので、少し変ではあるが、普通はしないような世話までするのだった。

 「あの夕暮れに、盗み見た空蝉君の横顔も、かなり美しくはなかったが、仕草が可憐だったから愛らしかった。常陸宮の姫君は、空蝉の君に身分で劣るはずもない。やはり、女は身分ではないのだ。優しい人だったけど、憎たらしかった空蝉の君には、負けたままだ」とゲンジの君は、いつでも懐かしく思い出すのだった。


(原文)
 行幸近くなりて、試楽などののしるころぞ、命婦は参れる。

 「いかにぞ」

など問ひたまひて、いとほしとは思したり。ありさま聞こえて、「いとかうもて離れたる御心ばへは、見たまふる人さへ心苦しく」など、泣きぬばかり思へり。心にくくもてなしてやみなむと思へりしことを、くたいてける、心もなく、この人の思ふらむをさへおぼす。正身の、ものは言はで思し埋もれたまふらむさま、思ひやりたまふもいとほしければ、「暇なきほどぞや。わりなし」とうち嘆いたまひて、

 「もの思ひ知らぬやうなる心ざまを、懲らさむと思ふぞかし」

と、ほほ笑みたまへる、若ううつくしげなれば、我もうち笑まるる心地して、わりなの、人に恨みられたまふ御齢や、思ひやり少なう、御心のままならむもことわりと思ふ。

 この御いそぎのほど過ぐしてぞ、時々おはしける。かの紫のゆかりたづねとりたまひて、そのうつくしみに心入りたまひて六条わたりにだに、離れまさりたまふめれば、まして荒れたる宿は、あはれに思しおこたらずながら、ものうきぞわりなかりける。ところせき御もの恥を見あらはさむの御心もことになうて過ぎゆくを、内返し、見まさりするようもありかし、手探りのたどたどしきに、あやしう心得ぬこともあるにや、見てしがな、と思ほせど、けざやかにとりなさむもまばゆし、うちとけたる宵居のほど、やをら入りたまひて、格子のはさまより見たまひけり。されど、みづからは見えたまふべくもあらず。几帳など、いたくそこなはれたるものから、年経にける立処変らず、おしやりなど乱れねば、心もとなくて、御達四五人ゐたり。御台、秘色やうの唐土のものなれど、人わろきに、何のくさはひもなくあはれげなる、まかでて人々食ふ。隅の間ばかりぞ、いと寒げなる女ばら、白き衣のいひしらず煤けたるに、きたなげなる褶ひき結ひつけたる腰つき、かたくなしげなり。さすがに櫛おしたれてさしたる額つき、内教坊、内侍所のほどに、かかる者どもあるはやと、をかし。かけても、人のあたりに近うふるまふ者とも知りたまはざりけり。

 「あはれ、さも寒き年かな。命長ければ、かかる世にも逢ふものなりけり」

とて、うち泣くもあり。

 「故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけり」

とて、飛び立ちぬべくふるふもあり。さまざまに人わろき事どもを愁へあへるを、聞きたまふもかたはらいたければ、たちのきて、ただ今おはするやうにてうち叩きたまふ。「そそや」など言ひて、灯とりなほし、格子放ちて入れたてまつる。

 侍従は、斎院に参り通ふ若人にて、このころはなかりけり。いよいよあやしう、ひなびたる限りにて、見ならはぬ心地ぞする。いとど、愁ふなりつる雪、かきたれいみじう降りけり。空のけしきはげしう、風吹きあれて、大殿油消えにけるを、点しつくる人もなし。かの物に襲はれしをり思し出でられて、荒れたるさまは劣らざめるを、ほどの狭う、人げのすこしあるなどに慰めたれど、すごう、うたていざとき心地する夜のさまなり。をかしうも、あはれにも、やう変へて心とまりぬべきありさまを、いと埋れ、すくよかにて、何のはえなきをぞ、口惜しう思す。

 からうじて明けぬる気色なれば、格子手づから上げたまひて、前の前栽の雪を見たまふ。踏みあけたる跡もなく、はるばると荒れわたりて、いみじうさびしげなるに、ふり出でて行かむこともあはれにて、

 「をかしきほどの空も見たまへ。つきせぬ御心の隔てこそわりなけれ」

と恨みきこえたまふ。まだほの暗けれど、雪の光に、いとどきよらに若う見えたまふを、老人ども笑みさかえて見たてまつる。

 「はや出でさせたまへ。あぢきなし」

 「心うつくしきこそ」

など教へきこゆれば、さすがに、人の聞こゆることを、えいなびたまはぬ御心にて、とかうひきつくろひて、ゐざり出でたまへり。見ぬやうにて、外の方をながめたまへれど、後目はただならず。いかにぞ、うちとけまさりのいささかもあらば、うれしからむとおぼすも、あながちなる御心なりや。まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、さればよと、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。色は雪はづかしく白うて、さ青に、額つきこよなうはれたるに、なほ下がちなる面やうは、おほかたおどろおどろしう長きなるべし。痩せたまへること、いとほしげにさらぼひて、肩のほどなどは、いたげなるまで衣の上まで見ゆ。何に残りなう見あらはしつらむと思ふものから、めづらしきさまのしたれば、さすがにうち見やられたまふ。

 頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人々にも、をさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて、ひかれたるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ。着たまへる物どもをさへ言ひたつるも、もの言ひさがなきやうなれど、昔物語にも、人の御装束をこそまづ言ひためれ。ゆるし色のわりなう上白みたる一かさね、なごりなう黒き袿かさねて、表着には黒貂の皮衣、いときよらにかうばしきを着たまへり。古代のゆゑづきたる御装束なれど、なほ若やかなる女の御よそひには、似げなうおどろおどろしきこと、いともてはやされたり。されど、げにこの皮なうて、はた寒からましと見ゆる御顔ざまなるを、心苦しと見たまふ。

 何ごとも言はれたまはず、我さへ口とぢたる心地したまへど、例のしじまもこころみむと、とかう聞こえたまふに、いたう恥ぢらひて、口おほひしたまへるさへ、ひなび古めかしう、ことごとしく儀式官の練り出でたる肘もちおぼえて、さすがにうち笑みたまへる気色、はしたなうすずろびたり。いとほしくあはれにて、いとど急ぎ出でたまふ。

 「頼もしき人なき御ありさまを、見そめたる人には、うとからず思ひ睦びたまはむこそ、本意ある心地すべけれ。ゆるしなき御気色なれば、つらう」

などことつけて、

 朝日さす軒のたるひはとけながらなどかつららのむすぼほるらむ

とのたまへど、ただ「むむ」とうち笑ひて、いと口重げなるもいとほしければ、出でたまひぬ。

 御車寄せたる中門の、いといたうゆがみよろぼひて、夜目にこそ、しるきながらも、よろづ隠ろへたること多かりけれ、いとあはれにさびしく荒れまどへるに、松の雪のみあたたかげに降りつめる、山里の心地してものあはれなるを、かの人々の言ひし葎の門は、かうやうなる所なりけむかし、げに心苦しくらうたげならん人をここにすゑて、うしろめたう恋しと思はばや。あるまじきもの思ひは、それに紛れなむかしと、思ふやうなる住み処にあはぬ御ありさまは、とるべき方なしと思ひながら、我ならぬ人は、まして見忍びてむや、わがかうて見馴れけるは、故親王のうしろめたしとたぐへおきたまひけむ魂のしるべなめりとぞ、思さるる。

 橘の木の埋もれたる、御随身召して払はせたまふ。うらやみ顔に、松の木のおのれ起きかへりて、さとこぼるる雪も、「名にたつ末の」と見ゆるなどを、いと深からずとも、なだらかなるほどに、あひしらはむ人もがなと見たまふ。御車出づべき門は、まだ開けざりければ、鍵の預り尋ね出でたれば、翁のいといみじきぞ出で来たる。むすめにや、孫にや、はしたなる大きさの女の、衣は雪にあひて煤けまどひ、寒しと思へる気色ふかうて、あやしきものに、火をただほのかに入れて袖ぐくみに持たり。翁、門をえ開けやらねば、寄りてひき助くる、いとかたくななり。御供の人寄りてぞ開けつる。

 「ふりにける頭の雪を見る人もおとらずぬらす朝の袖かな

幼き者は形蔽れず」

とうち誦じたまひても、鼻の色に出でて、いと寒しと見えつる御面影、ふと思ひ出でられて、ほほ笑まれたまふ。頭中将にこれを見せたらむ時、いかなることをよそへ言はむ、常にうかがひ来れば、いま見つけられなむと、すべなう思す。世の常なるほどの、ことなる事なさならば思ひ棄ててもやみぬべきを、さだかに見たまひて後は、なかなかあはれにいみじくてまめやかなるさまに、常におとづれたまふ。

 黒貂の皮ならぬ絹綾綿など、老人どもの着るべき物のたぐひ、かの翁のためまで上下思しやりて、奉りたまふ。かやうのまめやか事も恥づかしげならぬを、心やすく、さる方の後見にてはぐくまむと思ほしとりて、さまことにさならぬうちとけわざもしたまひけり。

 「かの空蝉の、うちとけたりし宵の側目には、いとわろかりし容貌ざまなれど、もてなしに隠されて口惜しうはあらざりきかし。劣るべきほどの人なりやは。げに品にもよらぬわざなりけり。心ばせのなだらかにねたげなりしを、負けてやみにしかな」と、もののをりごとには思し出づ。


(註釈)
1 秘色
 ・【ひそく】中国の越の国で生産された高温で焼かれた青磁の器。唐代から宋代に書けて、宮廷用に使われ、民間の使用が禁じられたため、このように呼ばれる。天皇の食事を盛るために使われた。末摘花の没落した旧家をうかがえる。

2 褶
 ・下級の女房が身につけた腰布。

3 櫛おしたれてさしたる
 ・「插し櫛」は装飾のことである。食事を支給する女房は、插し櫛をした。没落しても、常陸の宮家としての体裁は失っていない。

4 内教坊
 ・舞姫が舞を習う場所。

5 内侍所
 ・神鏡御鎮座の所。

6 普賢菩薩の乗物
 ・普賢菩薩乗大白象。鼻如紅蓮華色。『観音賢経』

7 ゆるし色
 ・誰でも着用できた衣服の色。淡い紅色か、紫色。

8 黒貂
 ・【ふるき】はクロテンで、その毛皮はとても貴重だった。

9 儀式官
 ・儀式や典礼を司る役人。

10 名にたつ末の
 ・わが袖は名に立つ末の松山か空より波の越えぬ日はなし 『後撰』恋二、土佐。

11 幼き者は形蔽れず
 ・「夜深煙花尽。霧雪白粉々。幼者形不蔽。老者体無温。悲喘与寒気。併入鼻中辛」『白氏文集奏中吟』