末摘花の帖 三 ゲンジの君と中将の勝負。ゲンジ、末摘花に逢う

(現代語訳)
 ゲンジの君と頭中将は、さっきの琴の音を思い出した。あの粗末な住処も、別世界のようで心に焼き付いている。頭中将に至っては「もし、あんな場所に、凄い可憐な女が寂しく何年も住んでいたとしよう。私と結ばれて好きになってしまう女だったとしたら、私は恋に溺れて、世間からとやかく言われるかもしれない。それもまずいな」などと妄想する始末だ。「ゲンジの君が、あれほど夢中になって通うのだから、このままでは済まされないだろう」と、嫉妬にも似た胸騒ぎさえ感じるのだった。

 その後、当然ながら、ゲンジの君も頭中将も恋文攻撃をしたのは言うまでもない。しかし、二人に返事は届かなかった。納得できずに頭中将は「あんまりだ。あんなボロ屋に済んでいる女は、非力な草花や、変わりやすい空模様に自分を重ねて、思いやりのある返事をするものだ。いくら宮家の末裔だと言っても、こんなに寝惚けている女は駄目だ」と腹を立てている。中将は、同士のゲンジの君には、隠し事などしなかったので、

 「ボロ屋の君から返事が来たかい? 試しに私も簡単な手紙を送ったのだが、宙ぶらりんだ。放って置かれたままだよ」

などと心外に思って訴える。ゲンジの君は「やはり、この女たらしは言い寄ったな」と可笑しくなって、

 「さあね。別に返事を見たいとも思ってないから、見たかどうか」

と済まして答えた。頭中将は「私は仕分けられたのか」とはらわたが煮えくり返った。ゲンジの君は、深追いする来もなかったし、ここまで放置されたので白けていた。しかし、頭中将が、こうして求愛している今となっては「しつこく言い寄った方に女もなびくだろう。そうなってから、得意げに、先に言い寄った私を捨てたような態度をされたら、たまったもんじゃない」と思って、タイフの命婦を呼んで熱心に根まわしをした。

 「あの姫君が意地悪に、私を突き放すから、悔しいんだ。きっと私のことを変態だと勘違いしているんだろう。私には不純な心など持っていないのだ。相手の女の方が辛抱できず不本意なことも起きて、わけもなく私が悪者にされるんだ。おっとりとした感じで、余計なお世話や、いんねんを吹っ掛ける親兄弟がいない、人なつっこい女がいたら、私は大切にするというのに」

などとゲンジの君は饒舌になった。タイフの命婦は、

 「どうかしら。そうんな優雅な雨宿り先には値しないでしょう。ただ恥ずかしがっているだけで、世にも希な小心者ですから」

と事実をありのままに伝えた。

 「不器用で控えめな人なのだろう。子供のように無邪気な人も、私は好きなのだ」

とゲンジの君は夕顔の君を思い出して言った。そのままゲンジの君は、例の熱病に悩まされ、人には言えない恋の悩みに気を取られて落ち着かないまま、季節だけは春から夏へ。夏も終わろうとしている。

 季節は秋。ゲンジの君は静かに考え事などをして、あの布を叩く音が煩く聞こえたことを思い出し、夕顔の君を恋しく思った。常陸宮の姫君には、何度も手紙を届けたのだが、なしのつぶてだった。「常識外れな仕打ち」だと頭に来るのだが、このまま撃退されるのは沽券に関わるのだった。仕方ないので、ゲンジの君はタイフの命婦に八つ当たりする。

 「あの人は何を考えているのだ。私は今まで、こんなに非道い仕打ちに合ったことはない」

と頭に血が上っているので、タイフの命婦も不憫に思い、

 「あたしは、不似合いな縁だなんて余計なことは何一つ言ってません。あの方は何を言っても必要以上に恥ずかしがってしまう性格だから、それで返事ができないんだと思うんです」

と言い訳すると、

 「世間知らずにも程がある。物心つかない子供じゃあるまいし。面倒な親がいて、自分の好き勝手にできないのだったら、こうして恥ずかしがってもいられようが、もう、自分で何でも判断できるだろうに。私はわけもなく寂しいんだ。同情してもらいたかったんだ。返事をくれたら、それだけで幸せなんだ。私は嫌らしいことを考えているんじゃない。ただ、あの荒れ果てた縁側でつろぎたいだけなんだよ。このまま引き下がれないんだから、あの姫君が嫌がるなら秘密工作してくれ。早まって淫らなことをしたりしないから安心してほしい」

などとゲンジの君は淫らなことをするつもりなのだった。

 ゲンジの君は世界中の女の話を、何気なく聞いているようにみえて、実は巧みに情報管理する習慣を身につけていた。タイフの命婦は、寂しい夜を紛らわそうと、何となく「こんな人が」と言っただけなのに、まさかここまで執着するとは思っていなかった。命婦は「ややこしいことになった」と思うのだが、後の祭りだ。姫君にしても、ゲンジの君と釣り合うところが全くないのだった。「こんな縁組みを手引きして、むしろ姫君を不幸に沈める結果になるのではないだろうか」と不安にもなるのだが、逆上せているゲンジの君を無視するのも、どうかと思うのだった。常陸宮が存命の頃でさえ、忘れ去られた宮だと世間に言われて、訪ねる人も無かったのに、今では雑草を踏み分けて来る物好きは誰もいない。そんな家に、世間に光渡るゲンジの君から手紙が届いたのだから、若い女官たちは微笑みながら「お返事しなくてはいけません」と促すのだった。しかし、この姫君は不吉なまでに恥ずかしがり屋だったので、執拗なまでに手紙を読もうとしなかった。

 タイフの命婦は「ええい、面倒だ。時を見計らって、物越に話でもさせよう。ゲンジの君のお気に召さなくても構わない。縁があって通うようになっても知ったこっちゃない。誰も文句は言わないだろう」と、ふしだらな女に相応しい結論を出したのだった。姫君の兄である父親に報告すらしない。

 八月二十日過ぎのことである。夜が更けるまで月が浮かばず、星だけが白々しく光っていた。松林に吹き寄せる風の音が寂しい。姫君は昔を思い出して泣いているのであった。タイフの命婦が「今夜しかない」と手引きしたのだろう。ゲンジの君は隠密でやって来たのだった。

 やっと浮かんだ月が、荒れ果てた垣根を照らすので、姫君が薄気味悪く眺めていると、琴を進められた。そっと掻き鳴らすのが、そう悪くはない。それでも「もう少し今っぽく、気取らない弾き方だったら」と男好きなタイフの命婦にはじれったいのだった。人目のない屋敷なので、ゲンジの君は簡単に侵入に成功し、タイフの命婦を呼んだ。タイフの命婦は、今初めて知ったような驚き顔を演じて、

 「大変なことになりました。ゲンジの君が来たのです。いつも返事が来ないと根に持っていましたので、一方的に私が手引きするわけには行きませんと断り続けたら『自分で直接話すから、もうよい』って言うのです。なんて返事をしましょうか。いい加減な気持ちで、こんなことをする身分の人ではないですから、胸が痛みます。物越しでも構いませんから、お話しをお聞きになって下さい」

と姫君に言うのだった。姫君は大げさに恥ずかしがって、

 「殿方とお話しする方法を知らないのです」

と奥の方へ逃げていくのが初々しく見える。タイフの命婦は、笑いながら、

 「なんて子供みたいなことを。いけませんわ。どんなに身分が高い方でも、親に保護されている間なら、そんな子供じみたことも言えましょう。こんなに貧乏な生活をしているのに、まだ世間を怖がって逃げてばかりいたら、大間違いです」

と説教する。姫君は、人の言うことに刃向かえないほどの小心者なので、

 「返事をしないでいいんだったら、ここで、窓を下ろして聞いてもいいわ」

と観念したのだった。

 「縁側では失礼ですよ。決して強引に襲ってくることはありませんから。大丈夫です」

とタイフの命婦は言いくるめ、隣の部屋との間にある襖を、手ずから強く閉ざした。隣の部屋には、ゲンジの君の席を用意する。姫君は、恥ずかしくていたたまれないのだが。ゲンジの君のような人と会話するなど、夢にも想像していなかったので、タイフの命婦が言ったことを鵜呑みにして神妙な顔をしている。

 姫君のメノトは老人なので、部屋に籠もって眠そうにしている時間だ。若い二、三人の女官は、世間を騒がす男の姿を見たくて仕方ないので、はしゃぎ合っている。晴着を着せられ、身繕いされた姫君は放心状態で、魂はどこか別の場所にあるのだった。

 この男の見た目は、非の打ち所のない完璧なものなのだが、目立たぬよう、用心している様子も、ずいぶんと美しい。命婦は「見てわかる人に見せたいものね。こんな荒ら屋じゃ見栄えも何もあったもんじゃないから可哀想」と思うのだが、とぼけた感じの姫君なので、余計なことはしないだろうと安心しているのだった。ただ「私がいつもゲンジの君に責められるのと引き替えに、この可哀想な姫君を不幸のどん底に突き落とすことになったらどうしよう」と不安でもあったのだ。

 ゲンジの君は、姫君の身分を察しているので「線香花火みたいに気取った女よりも、格段に感じがよい」と思っているのだった。姫君が、誰かに引っ張られて近寄ってくると、着物に燻らせた香の香りが微かに漂う。飾り気のない女の気配がするので、ゲンジの君は、「思ったとおりだ」と確信した。いつものように「ずっと好きだった」という想いなどを、真摯に伝えるのだが、手紙の返事もしない人が、目の前で口を開くわけがなかったのだった。ゲンジの君は「もうお手上げです」と途方に暮れる。

 「いつだってあなたは沈黙するだけで 何も言うなと言わないだけで

 せめて、何も言うなと言ってください。生殺しは非道いです」

とゲンジの君が言う。姫君のメノトの娘で、侍従というお転婆若い女官が、見るに見かねて近寄って返事をする。

 鐘をつき終わりにするのは寂しくて答えられない不思議な気持ち

声を若作りして、極力堅苦しくなく、代理人だと思われないように芝居をする。ゲンジの君は、この姫君にしては蓮っ葉な気がしたのだが、初めて口をきいたのが珍しく、

 「そんなことを言われたら、私も何も言えません。

 言葉にはできない心と知りつつも無言でいるのは苦しいばかり」

 ゲンジの君は、いくつもの当たり障りのない話を、おどけたり、真面目な顔をして話してみるのだが、糠に釘だった。どう考えても理解できず「この姫君は変態か。何か怪しい信念を持っている人なのだろうか」と不快に思って、襖を押し開けて侵入してしまうのだった。タイフの命婦は「非道い。私を油断させておいたのね」と、姫君を可哀想に思ったので、知らん顔をして自分お部屋に逃げた。周りの若い女官も、ゲンジの君がこの世の人とは思えない美しさを噂で聞いていたから、撃退するわけにもいかず、大声で騒ぐこともなかった。ただ、この突然の乱入に、姫君が何の覚悟もしていないのが心配なのだ。この姫君はというと、恥ずかしさに混乱して穴があったら入ろうとしている。ゲンジの君は「初めてなのだから、これぐらいの方が可愛い。まだ何も知らないのだろう。大切に可愛がられたお姫様なのだから」と寛容だ。しかし、何かすっきりしない違和感を感じた。とても運命の人ではないと結論が出て、がっかりしたまま、夜更けのうちに退散するのだった。タイフの命婦は、どうなったか心配なので聞き耳を立てたまま、天上を見つめて目をギラギラさせていた。それでも、我関せずを決め込んだほうが良いと思って「お見送りをしましょう」などとは言わないのだった。ゲンジの君も逃げるように出て行った。

 ゲンジの君は、二条院に戻って寝そべりながら「世の中は甘くないな」と思い続けるのだった。あの姫君の身分を考えると、このまま放っておくわけにもいかず、悩みの種から芽が生えた。双葉が開いて蕾が出る頃に、頭中将がやってきた。

 「ずいぶんな朝帰りだね。まあ理由があるんだろうけど」

と言うので、ゲンジの君は飛び起きた。

 「のんきな独り寝だからね。つい寝坊をしてしまったよ。後宮から来たのかい」

とゲンジの君は誤魔化すのだった。

 「そうさ。後宮から出てきたばっかりだよ。今日は、朱雀院の行幸の演奏者や舞人を決める日だ。昨日の夜に話があったので、父上に伝言しに来たんだ。すぐ後宮に戻らないと」

と頭中将は忙しそうだ。ゲンジの君は「ならば一緒に行こう」と、粥や蒸し飯を持ってこさせて頭中将と食べた。車を二台列にして引き出したが、二人は一台に同乗する。頭中将は「まだ、ずいぶん眠そうじゃないか」と茶化して「ずいぶんと隠し事が多そうだ」と執念深い。

 この日、後宮では決定事項が多くあって、ゲンジの君は缶詰になった。ゲンジの君は「あの姫君に、後朝の手紙だけも送らないと」と不憫に思って、送った手紙は夕方になった。雨が降り出して、ゲンジの君は、面倒くさくなったのだろうか、タイフの命婦が言ったように、とても今夜は雨宿りする気分にはなれないようだ。あの荒ら屋では、後朝の手紙の手紙を待ちわびて、時間だけが無常に過ぎた。タイフの命婦は「痛々しくて見ていられない」と泣けてくるのだった。姫君に至っては、心の中に恥ずかしさが充満しているだけで、後朝の手紙などは知ったことではなく思考停止している。

 「夕霧の晴れぬあなたに降る雨が雲を広げて視界を閉ざす

 いつ雲の切れ間が見えるのかと歯がゆいのです」

という手紙がゲンジの君から届いた。「どうやら今夜は来ないらしい」と女官たちは悲しむのだが「返事だけは書いてください」と言いくるめるのだった。姫君は混乱が酷くなるばかりなので、決まり切った歌さえも作れない。「もう夜も遅いので」と、侍従の女官がこの前のように代作した。

 雨の夜に月を待ってる人がいる同じ心で見つめなくても

という歌を、皆から「自分で書いてください」と執拗に言われた。姫君は、風化して紫色が褪せ、灰色になった古い紙に、しっかりとした中古の書体で書く。文字の上と下を揃えて散らすことのない厳めしい筆跡だった。これを見たゲンジの君は、開いた口が塞がらず、そのまま捨ててしまうのだった。

 ゲンジの君は「あの姫君は何を考えているのだろうか」と思うと、恐ろしくなった。「これを、後悔と言わずして、何と言おう。しかし、後悔先に立たずとはよく言ったものだ。私が見捨てずに面倒をみるしかない」と諦めているのだった。そんなことも知らずに、あの荒ら屋の人々は途方に暮れている。

 夜になって、左大臣後宮を後にするのに連れられて、ゲンジの君が左大臣家にやって来た。朱雀院の行幸がもっぱらの話題で、貴公子たちが集まると話が尽きない。各自が舞の稽古に明け暮れ、あっという間に時間が過ぎていった。楽器の音が普段よりも高らかと互いに競争するように鳴り響いている。普通の演奏会とは違って、大きな篳篥の笛、尺八の笛の音が爆音を轟かせている。貴公子たちは、太鼓持ちが持つ太鼓までも、縁側の欄干に転がし、自分で叩き鳴らして遊ぶ始末だった。

 ゲンジの君は多忙で、どうしても逢いたい所には無理にでも時間を作って密通したが、あの荒ら屋には近寄らないまま秋が終わった。それでも、万が一と頼りにしていた、常陸宮家の人々の思いは空中分解したのだった。


(原文)
 君たちは、ありつる琴の音を思し出でて、あはれげなりつる住まひのさまなども、様変へてをかしう思ひつづけ、あらましごとに、いとをかしうらうたき人の、さて年月を重ねゐたらむ時、見そめていみじう心苦しくは、人にももて騒がるばかりやわが心もさまあしからむなどさへ、中将は思ひけり。この君の、かう気色ばみ歩きたまふを、まさにさては過ぐしたまひてむやと、なまねたうあやふがりけり。

その後、こなたかなたより、文などやりたまふべし。いづれも返り事見えず。おぼつかなく心やましきに、あまりうたてもあるかな。さやうなる住まひする人は、もの思ひ知りたる気色、はかなき木草、空のけしきにつけても、とりなしなどして、心ばせ推しはからるるをりをりあらむこそあはれなるべけれ。重しとても、いとかうあまり埋れたらむは、心づきなくわるびたりと、中将はまいて心いられしけり。例の隔てきこえたまはぬ心にて、

 「しかじかの返り事は見たまふや。こころみにかすめたりしこそ、はしたなくてやみにしか」

と愁ふれば、「さればよ。言ひ寄りにけるをや」とほほ笑まれて、

 「いさ。見むとしも思はねばにや、見るとしもなし」

と答へたまふを、人分きしけると思ふに、いとねたし。君は、深うしも思はぬことの、かう情なきを、すさまじく思ひなりたまひにしかど、かうこの中将の言ひ歩きけるを、言多く言ひ馴れたらむ方にぞなびかむかし。したり顔にて、もとの事を思ひ放ちたらむ気色こそ愁はしかるべけれと思して、命婦を、まめやかに語らたまふ。

 「おぼつかなくもて離れたる御気色なむ、いと心うき。すきずきしき方に、疑ひよせたまふにこそあらめ。さりとも、短き心ばへつかはぬものを。人の心ののどやかなることなくて、思はずにのみあるになむ、おのづからわがあやまちにもなりぬべき。心のどかにて、親兄弟のもてあつかひ恨むるもなう、心やすからむ人は、なかなかなむらうたかるべきを」

とのたまへば、

 「いでや、さやうにをかしき方の御笠宿には、えしもやと、つきなげにこそ見えはべれ。ひとへにものづつみし、ひき入りたる方はしも、あり難うものしたまふ人になむ」

と、見るありさま語りきこゆ。

 「らうらうじうかどめきたる心はなきなめり。いと児めかしう、おほどかならむこそ、らうたくはあるべけれ」

と思し忘れずのたまふ。瘧病にわづらひたまひ、人知れぬもの思ひのまぎれも、御心のいとまなきやうにて、春夏過ぎぬ。

 秋のころほひ、静かに思しつづけて、かの砧の音も、耳につきて聞きにくかりしさへ、恋しう思し出でらるるままに、常陸の宮にはしばしば聞こえたまへど、なほおぼつかなうのみあれば、世づかず心やましう、負けてはやまじの御心さへ添ひて、命婦を責めたまふ。

 「いかなるやうぞ。いとかかることこそまだ知らね」

と、いとものしと思ひてのたまへば、いとほしと思ひて、

 「もて離れて、似げなき御事とも、おもむけはべらず。ただおほかたの御ものづつみのわりなきに、手をえさし出でたまはぬとなむ見たまふる」

と聞こゆれば、

 「それこそは世づかぬことなれ。もの思ひ知るまじきほど、ひとり身をえ心にまかせぬほどこそ、さやうにかかやかしきもことわりなれ、何ごとも思ひしづまりたまへらむと思ふこそ。そこはかとなく、つれづれに心細うのみおぼゆるを、同じ心に答へたまはむは、願ひかなふ心地なむすべき。何やかやと、世づける筋ならで、その荒れたる簀子にたたずままほしきなり。いとうたて心得ぬ心地するを、かの御ゆるしなくともたばかれかし。心いられし、うたてあるもてなしには、よもあらじ」

など、語らひたまふ。

 なほ、世にある人のありさまを、おほかたなるやうにて聞きあつめ、耳とどめたまふ癖のつきたまへるを、さうざうしき宵居など、はかなきついでに、さる人こそとばかり聞こえ出でたりしに、かくわざとがましうのたまひわたれば、なまわづらはしく、女君の御ありさまも、世づかはしく、よしめきなどもあらぬを、なかなかなる導きに、いとほしきことや見えむなむど思ひけれど、君のかうまめやかにのたまふに、聞き入れざらむもひがひがしかるべし。父親王おはしけるをりにだに、古りにたるあたりとて、音なひきこゆる人もなかりけるを、まして今は、浅茅分くる人もあと絶えたるに、かく世にめづらしき御けはひの漏りにほひくるをば、生女ばらなども笑みまけて、「なほ聞こえたまへ」とそそのかしたてまつれど、あさましうものづつみしたまふ心にて、ひたぶるに見も入れたまはぬなりけり。

 命婦は、さらば、さりぬべからんをりに、物越しに聞こえたまはむほど御心につかずは、さてもやみねかし、またさるべきにて、仮にもおはし通はむを、咎めたまふべき人なしなど、あだめきたるはやり心はうち思ひて、父君にも、かかることなども言はざりけり。

 八月二十余日、宵過ぐるまで待たるる月の心もとなきに、星の光ばかりさやけく、松の梢吹く風の音心細くて、いにしへのこと語り出でて、うち泣きなどしたまふ。いとよきをりかなと思ひて、御消息や聞こえつらむ、例のいと忍びておはしたり。

 月やうやう出でて、荒れたる籬のほどうとましく、うちながめたまふに、琴そそのかされて、ほのかに掻き鳴らしたまふほど、けしうはあらず。すこしけ近う、今めきたるけをつけばやとぞ、乱れたる心には心もとなく思ひゐたる。人目しなき所なれば、心やすく入りたまふ。命婦を呼ばせたまふ。今しも驚き顔に、

 「いとかたはらいたきわざかな。しかじかこそおはしましたなれ。常にかう恨みきこえたまふを、心にかなはぬよしをのみ、いなびきこえはべれば、『みづからことわりも聞こえ知らせむ』とのたまひわたるなり。いかが聞こえかへさむ。並々のたはやすき御ふるまひならねば、心苦しきを、物越しにて、聞こえたまはむこと聞こしめせ」

と言へば、いと恥づかしと思ひて、

 「人にもの聞こえむやうも知らぬを」

とて奥ざまへゐざり入りたまふさま、いとうひうひしげなり。うち笑ひて、

 「いと若々しうおはしますこそ心苦しけれ。限りなき人も、親などおはしてあつかひ後見きこえたまふほどこそ、若びたまふもことわりなれ、かばかり心細き御ありさまに、なほ世を尽きせず思し憚るは、つきなうこそ」

と教へきこゆ。さすがに、人の言ふことは強うもいなびぬ御心にて、

 「答へきこえで、ただ聞けとあらば、格子など鎖してはありなむ」

とのたまふ。

 「簀子などは便なうはべりなむ。おしたちて、あはあはしき御心などは、よも」

など、いとよく言ひなして、二間の際なる障子、手づからいと強く鎖して、御褥うち置きひきつくろふ。いとつつましげに思したれど、かやうの人にもの言ふらむ心ばへなども、ゆめに知りたまはざりければ、命婦のかう言ふを、あるやうこそはと思ひてものしたまふ。

 乳母だつ老人などは、曹司に入り臥して、タまどひしたるほどなり。若き人二三人あるは、世にめでられたまふ御ありさまを、ゆかしきものに思ひきこえて、心げさうしあへり。よろしき御衣奉りかへ、つくろひきこゆれば、正身は、何の心げさうもなくておはす。

 男は、いと尽きせぬ御さまを、うち忍び用意したまへる御けはひ、いみじうなまめきて、「見知らむ人にこそ見せめ、はえあるまじきわたりを。あないとほし」と、命婦は思へど、ただおほどかにものしたまふをぞ、うしろやすうさし過ぎたることは見えたてまつりたまはじと思ひける。わが常に責められたてまつる罪避りごとに、心苦しき人の御もの思ひや出で来むなど、やすからず思ひゐたり。

 君は人の御ほどを思せば、ざれくつがへる、今様のよしばみよりは、こよなう奥ゆかしうと思さるるに、いたうそそのかされて、ゐざり寄りたまへるけはひ、しのびやかに、えひの香いとなつかしう薫り出でて、おほどかなるを、さればよと思す。年ごろ思ひわたるさまなど、いとよくのたまひつづくれど、まして近き御答へは絶えてなし。わりなのわざやと、うち嘆きたまふ。

 「いくそたび君がしじまに負けぬらんものな言ひそといはぬたのみに

 のたまひも棄ててよかし。玉だすき苦し」

とのたまふ。女君の御乳母子、侍従とて、はやりかなる若人、いと心もとなう、かたはらいたしと思ひて、さし寄りて聞こゆ。

 鐘つきてとぢめむことはさすがにてこたへまうきぞかつはあやなき

いと若びたる声の、ことにおもりかならぬを、人づてにはあらぬやうに聞こえなせば、ほどよりはあまえてと聞きたまへど、めづらしきが、

 「なかなか口ふたがるわざかな。

 いはぬをもいふにまさると知りながらおしこめたるは苦しかりけり」

 何やかやとはかなきことなれど、をかしきさまにも、まめやかにも、のたまへど、何のかひなし。いとかかるも、さま変り、思ふ方ことにものしたまふ人にやと、ねたくて、やをら押し開けて入りたまひにけり。命婦、あなうたて、たゆめたまへる、といとほしければ、知らず顔にてわが方へ往にけり。この若人ども、はた世にたぐひなき御ありさまの音聞きに、罪ゆるしきこえて、おどろおどろしうも嘆かれず、ただ思ひもよらずにはかにて、さる御心もなきをぞ思ひける。正身は、ただ我にもあらず、恥づかしくつつましきよりほかのことまたなければ、今はかかるぞあはれなるかし、まだ世馴れぬ人のうちかしづかれたると、見ゆるしたまふものから、心得ずなまいとほしとおぼゆる御さまなり。何ごとにつけてかは御心のとまらむ、うちうめかれて、夜深う出でたまひぬ。命婦は、いかならむと目覚めて聞き臥せりけれど、知り顔ならじとて、御送りにとも声づくらず。君も、やをら忍びて出でたまひにけり。

 二条院におはして、うち臥したまひても、なほ思ふにかなひがたき世にこそと思しつづけて、かるらかならぬ人の御ほどを、心苦しとぞ思しける。思ひ乱れておはするに、頭中将おはして、

 「こよなき御朝寝かな。ゆゑあらむかしとこそ思ひたまへらるれ」

と言へば、起き上りたまひて、

 「心やすき独り寝の床にてゆるびにけりや。内裏よりか」

とのたまへば、

 「しか。まかではべるままなり。朱雀院の行幸、今日なむ、楽人、舞人定めらるべきよし、昨夜うけたまはりしを、大臣にも伝へ申さむとてなむ、まかではべる。やがて帰り参りぬべうはべり」

と、いそがしげなれば、「さらば、もろともに」とて、御粥強飯召して、まらうとにもまゐりたまひて、引きつづけたれど、ひとつにたてまつりて、「なほいとねぶたげなり」と、とがめ出でつつ、「隠いたまふこと多かり」とぞ恨みきこえたまふ。

 事ども多く定めらるる日にて、内裏にさぶらひ暮らしたまひつ。かしこには、文をだにといとほしく思し出でて、タつ方ぞありける。雨降り出でて、ところせくもあるに、笠宿せむとはた思されずやありけむ。かしこには、待つほど過ぎて、命婦も、いといとほしき御さまかなと、心うく思ひけり。正身は、御心の中に恥づかしう思ひたまひて、今朝の御文の暮れぬれど、なかなか、咎とも思ひわきたまはざりけり。

 「夕霧のはるる気色もまだ見ぬにいぶせさそふる宵の雨かな

 雲間待ち出でむほど、いかに心もとなう」

とあり。おはしますまじき御気色を、人々胸つぶれて思へど、「なほ聞こえさせたまへ」と、そそのかしあへれど、いとど思ひ乱れたまへるほどにて、え型のやうにもつづけたまはねば、「夜更けぬ」とて、侍従ぞ例の教へきこゆる。

 晴れぬ夜の月まつ里をおもひやれおなじ心にながめせずとも

口々に責められて、紫の紙の、年経にければ灰おくれ古めいたるに、手はさすがに文字強う、中さだの筋にて、上下ひとしく書いたまへり。見るかひなううち置きたまふ。

 いかに思ふらんと、思ひやるもやすからず。かかることをくやしなどはいふにやあらむ、さりとていかがはせむ、我はさりとも心長く見はててむと、思しなす御心を知らねば、かしこにはいみじうぞ嘆いたまひける。

 大臣、夜に入りてまかでたまふに、ひかれたてまつりて、大殿におはしましぬ。行幸のことを興ありと思ほして、君たち集まりてのたまひ、おのおの舞ども習ひたまふを、そのころの事にて過ぎゆく。物の音ども、常よりも耳かしがましくて、方々いどみつつ、例の御遊びならず、大篳篥、尺八の笛などの、大声を吹きあげつつ、太鼓をさへ、高欄のもとにまろばし寄せて、手づからうち鳴らし、遊びおはさうず。

 御いとまなきやうにて、せちに思す所ばかりにこそ、ぬすまはれたまへ、かのわたりには、いとおぼつかなくて、秋暮れはてぬ。なほ頼みこしかひなくて過ぎゆく。


(註釈)
1 笠宿
 ・妹が門、せなが門、行き過ぎかねて、や、わが行かば、肱笠の肱笠の、雨もや降らなん、しどり、笠やどり、やどりてまからん、しでたをさ 『催馬楽』「妹之門」

2 砧の音
 ・夕顔(六 http://genji-m.com/?p=1023)参照

3 えびの香
 ・衣を薫らせるための香。栴檀を材料とした。

4 玉だすき
 ・どっちつかず。「ことならば思はずとやは言ひはてぬぞ世の中の玉だすきなる」古今、諧謔歌、読み人知らず。

5 鐘つきてとぢめむこと
 ・口を閉じて何も言わない。拒絶する。鐘は、読経の終わりに突く鐘を指す。

6 中さだ
 ・中古風の筆跡。藤原行成よりも前の、草仮名で、小野同風、藤原佐理などが書いた書体。