帚木の帖 十二 ゲンジの君、空蝉を夜這う

(現代語訳)
 ゲンジの君は切なくて眠れない。寂しい独り寝は目が冴えるばかりだ。北側の紙の扉の向こうに人の気配がする。「もしかして、あの姫君がいるのだろうか?」と甘い気持ちもあって立ち上がった。全神経を集中して立ち聞きしていると、紀伊のカミが話した弟君の声がするのだった。

 「お姉さま。どこにいるの」

震える声が可愛らしい。

 「ここよ。ここで寝ているの。お客様はおやすみになった? 近いところにいるのかと思っていたけど、遠くにいるようね」

眠たそうな声が弟君とよく似ているので姉だとすぐに知れた。

 「廂のある部屋でおやすみになりました。評判のとおり本当に綺麗な人なんです」

弟君は声をひそめて言う。

 「昼間だったら隙間から見てみたかった」

お姫様は着物で顔をおおうようにして、眠そうに言うので、「もう少し真面目に聞いて欲しいね」と、ゲンジの君は拍子抜けするのだった。

 「私は端っこで寝る。真っ暗ね」

とお姫様が言うので、弟君が灯りを立てているようだ。彼女は紙の扉を隔てて、ゲンジの君の対角線上に寝ている。

 「中将の女官はどこに? 近くに誰もいないような気がして怖い」

お姫様が呼ぶと、

 「風呂に行きましたが、すぐ戻ると言ってました」

と部屋の下から、誰かの声がする。

 夜も更けて、みんな寝静まった。「試しに」と、ゲンジの君は紙の扉の掛け金を引っこ抜いてみた。簡単に扉が開いたので、侵入に成功してしまう。向こう側から鍵がかけられていなかったようだ。ゲンジの君は、うす暗い灯りを頼りに、散らかった収納箱をかき分けて侵入を続けた。お姫様の気配のする場所まで来ると、女がひとり小さく丸まって眠っているのだった。ゲンジの君は良心の呵責に苛まれながらも、顔をおおっている着物をつまみ上げた。お姫様は中将の女官が風呂から戻ったと思っている。

 「中将を呼んでいましたね。私の想いが届いたと思いました」

ゲンジの君は近衛中将である。パニック状態の空蝉は、悪夢の続きを見ているように「あん」と抵抗するのだが、顔が着物でふさがって、声にならない。

 「私は好奇心で奇襲をかけたのではありません。昔からあなたが好きだったのです。胸の想いを聞いて欲しかった。今宵のようなタイミングを待っていたのだから、こうやってあなたを捕獲する運命だったのです」

こんな場合でもゲンジの君は爽やかだ。この男には天誅でさえ避けて通るだろう。美しいオーラをまとって近づいてくるので、空蝉はむやみに「ここに変態が」と叫ぶことができない。自らの不甲斐なさに、空蝉は泣くしかなかった。「人違いです。おねがいやめて」と消えてしまいそうな声で抵抗する。混乱したまま暗闇にまみれていく空蝉の姿が、たまらなく愛くるしい。

 「人違いなどしませんよ。あなたへの想いが私を導いたのです。それでもあなたは知らんぷりですか? 私は変態や遊び人ではありません。ただ、この想いをあなたに伝えたいんです」

ゲンジの君は、小さな空蝉を抱き上げて紙の扉の向こう側へと連れて行く。そのとき、中将の女官が風呂から帰ってきた。ゲンジの君が「やあ」と言ったので、中将は異常を感じて周囲を探る。ゲンジの君から漂う甘い芳香が中将の鼻先に広がったので、とっさにすべてを察したようだ。非常事態に中将もパニックをおこし、言葉が出ない。普通の変態ならば力ずくでも反撃にでるのだが、それでも大声を出して人に気がつかれたら、空蝉の恥になる。中将の心拍数が上がっていく。後を追いかけたが、ゲンジの君は空蝉を抱いて寝室へ入ってしまった。

 「夜が明けたら迎えに来なさい」

と紙の扉を閉める。空蝉は中将の胸中を思うと、割り箸みたいに真っ二つに割れそうになるのだった。汗が止めどなく流れ、悶える姿が色っぽい。ゲンジの君は可哀想にも思いながら、いつものように口が自動的に女を口説きだす。誠意いっぱいに女心をこじ開けるのだが、空蝉は、ますます惨めな心地がして、悲しみに心を閉ざす。

 「悪夢の続きだと言ってください。私が庶民だからって、あなたは見下している。遊び心じゃないなんて、どうやって信じたらいいの。私たち庶民には庶民の生き方があるの。お願い、放して」

 無理矢理押し倒したゲンジの君の傲慢さを恨んでいる。そんな空蝉を、ゲンジの君も不憫に思い、間が悪くなる。

 「私は人の階級など知らないガキなんだ。あなたが私を普通の変態扱いするから悲しいよ。私が馬鹿な火遊びをしないって、あなたも知っているはずでしょう。あなたは私を狂わせる。我慢できないんだ。だから軽蔑されても構わない」

全身全霊をこめて口説くのだが、空蝉は硬直したままだ。この眩しく輝く男の姿を目の当たりにして「心を許してしまったら、いっそう惨めになるだけ」と思うのだった。このまま可愛くない嫌な女だと思われたかった。優しくておとなしい空蝉が強がると、竹のようにしなって、折れそうで折れない。本気で拒み涙を流す様子が、ゲンジの君にはいとおしい。可哀想なことをしていると思うのだが、今夜を逃したら後悔するとも思う。「求めてられてはならない恋だ」と悲しみに暮れている空蝉に、ゲンジの君は、

 「なぜ嫌がるんだ。私たちはもうこうなっている。定めなんだよ。子供みたいに男と女の事を知らないふりして、とぼけて泣いているんだね。意地悪な人だ」

と強引に襲いかかる。

 「私が人妻になる前の憂鬱な昔に、今夜のようなあなたを受け入れたなら、身分も忘れて愛し合えたかも知れないわ。今度あなたに抱かれることを慰めにする夜もあるでしょう。でも、ひと夜かぎり愛されて、途方に暮れるのはいや。あなたに抱かれても、今夜のことはなかったことにして。おねがい」

空蝉が泣きながら言うことも、もっともだ。ゲンジの君は心をこめて慰め、多くの約束を交わしたのだろう。


(原文)
 君は、とけても寝られたまはず。いたづら臥しと思さるるに御目さめて、この北の障子のあなたに人のけはひするを、こなたやかく言ふ人の隠れたる方ならむ、あはれやと、御心とどめて、やをら起きて立ち聞きたまへば、ありつる子の声にて、

 「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ」

と、かれたる声のをかしきにて言へば、

 「ここにぞ臥したる。客人は寝たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されどけ遠かりけり」

と言ふ。寝たりける声のしどけなき、いとよく似通ひたれば、妹と聞きたまひつ。

 「廂にぞ大殿篭りぬる。音に聞きつる御ありさまを見たてまつりつる。げにこそめでたかりけれ」

と、みそかに言ふ。

 「昼ならましかば、のぞきて見たてまつりてまし」

と、ねぶたげに言ひて、顔ひき入れつる声す。ねたう、心とどめても問ひ聞けかしと、あぢきなく思す。

 「まろは端に寝はべらん。あな暗」

とて、灯かかげなどすべし。女君はただこの障子口筋違ひたるほどにぞ臥したるべき。

 「中将の君は、いづくにぞ。人げ遠き心地してもの恐ろし」

と言ふなれば、長押の下に人々臥して答へすなり。

 「下に湯におりて、ただ今参らむとはべり」

と言ふ。

 みな静まりたるけはひなれば、掛け金をこころみに引き開けたまへれば、あなたよりは鎖さざりけり。几帳を障子口には立てて、灯はほの暗きに見たまへば、唐櫃だつ物どもを置きたれば、乱りがはしき中を分け入りたまひて、けはひしつる所に入りたまへれば、ただ独りいとささやかにて臥したり。なまわづらはしけれど、上なる衣おしやるまで、求めつる人と思へり。

 「中将召しつればなん。人知れぬ思ひのしるしある心地して」

とのたまふを、ともかくも思ひ分かれず、物におそはるる心地して、やとおびゆれど、顔に衣のさはりて、音にも立てず。

 「うちつけに、深からぬ心のほどと見たまふらん、ことわりなれど、年ごろ思ひわたる心の中も聞こえ知らせむとてなん。かかるをりを待ち出でたるも、さらに浅くはあらじと思ひなしたまへ」

と、いとやはらかにのたまひて、鬼神も荒だつまじきけはひなれば、はしたなく、「ここに人」とも、えののしらず。心地はたわびしく、あるまじきことと思へば、あさましく、「人違へにこそはべるめれ」と言ふも、息の下なり。消えまどへる気色いと心苦しくらうたげなれば、をかしと見たまひて、

 「違ふべくもあらぬ心のしるべを、思はずにもおぼめいたまふかな。すきがましきさまには、よに見えたてまつらじ。思ふことすこし聞こゆべきぞ」

とて、いと小さやかなれば、かき抱きて障子のもとに出でたまふにぞ、求めつる中将だつ人来あひたる。「やや」とのたまふにあやしくて、探り寄りたるにぞ、いみじく匂ひ満ちて、顔にもくゆりかかる心地するに、思ひよりぬ。あさましう、こはいかなることぞと、思ひまどはるれど、聞こえん方なし。なみなみの人ならばこそ、荒らかにも引きかなぐらめ、それだに人のあまた知らむはいかがあらん、心も騒ぎて慕ひ来たれど、どうもなくて、奥なる御座に入りたまひぬ。障子を引き立てて、

 「暁に御迎へにものせよ」

と、のたまへば、女はこの人の思ふらむことさへ死ぬばかりわりなきに、流るるまで汗になりて、いとなやましげなる、いとほしけれど、例のいづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、あはれ知るばかり情々しくのたまひ尽くすべかめれど、なほいとあさましきに、

 「現ともおぼえずこそ。数ならぬ身ながらも、思し下しける御心ばへのほどもいかが浅くは思うたまへざらむ。
いとかやうなる際は際とこそはべなれ」

とて、かくおし立ちたまへるを深く情なくうしと思ひ入りたるさまも、げにいとほしく心恥づかしきけはひなれば、

 「その際際をまだ知らぬ初事ぞや。なかなかおしなべたるつらに思ひなしたまへるなん、うたてありける。おのづから聞きたまふやうもあらむ。あながちなるすき心はさらにならはぬを。さるべきにや、げにかくあはめられたてまつるもことわりなる心まどひを、みづからもあやしきまでなん」

など、まめだちてよろづにのたまへど、いとたぐひなき御ありさまの、いよいようちとけきこえんことわびしければ、すくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも、さる方の言ふかひなきにて過ぐしてむと思ひて、つれなくのみもてなしたり。人がらのたをやぎたるに、強き心をしひて加へたれば、なよ竹の心地してさすがに折るべくもあらず。まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを、言ふかたなしと思ひて、泣くさまなどいとあはれなり。心苦しくはあれど、見ざらましかば口惜しからましと思す。慰めがたくうしと思へれば、

 「などかくうとましきものにしも思すべき。おぼえなきさまなるしもこそ、契りあるとは思ひたまはめ。むげに世を思ひ知らぬやうにおぼほれたまふなん、いとつらき」

と、恨みられて、

 「いとかくうき身のほどの定まらぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばへを見ましかば、あるまじきわが頼みにて、見直したまふ後瀬をも思ひたまへ慰めましを、いとかう仮なるうき寝のほどを思ひはべるに、たぐひなく思うたまへまどはるるなり。よし、今は見きとなかけそ」

とて、思へるさまげにいとことわりなり。おろかならず契り慰めたまふこと多かるべし。


(注釈)
1 中将
 ・女房の名前。(このときゲンジの君は官位が中将だった)

2 妹
 ・ここでは「姉」の意味。

3 見きとなかけそ
 ・それをだに思ふこととて我が宿をみきとないひそ人の聞かくに (古今集