紅葉賀の帖 三 藤壺宮の御子誕生

(現代語訳)
 ゲンジの君が参賀に行く場所は、数が知れていた。ミカドと、皇太子、それから前のミカドだけだったが、藤壺宮がいる三条宮殿にも行った。

 「今日は格別に美しく見えること。歳を重ねて、怖いぐらいに成熟されていますわね」

と囁き合う女官たちの黄色い声を聞いて、藤壺宮は仕切りの間からゲンジの君の姿を微かに見るのだが、思い悩むことが多かった。

 出産があるべき十二月も過ぎた。過期産を心配している藤壺宮家の人々も、今月は生まれるだろうと待ちわびて、ミカドもそのつもりでいたのだった。しかし正月も何も無く過ぎてしまう。化け物に取り憑かれたのだろうかと、世間ではもっぱらの噂だったが、藤壺宮は、ただ憂鬱なだけで「これで私もおしまいね」と溜息ばかりで悩ましく、体調も悪化してくのだった。

 ゲンジの君は、思い当たる節がありすぎるので、あちらこちらで事情を伝えずに祈祷をさせていた。「儚い世界を思えば、これでこの恋が終わるかもしれない」と悩むゲンジの君だが、二月十日過ぎに男の子が誕生した。ミカドは満面の笑みで、後宮や三条宮殿も春爛漫である。藤壺宮は「命拾いしてしまったわ」と悲しんでいるが、弘徽殿あたりで呪っていると聞けば「このまま死んだら犬死になってしまう」と気丈になって、体調も快復していくのだった。

 ミカドは早く息子に会いたくて居ても立ってもいられなかった。ゲンジの君もしかり。気になって仕方ない思いを秘めて、人気のない頃にやってくる。

 「ミカドが待ち焦がれていますから、若宮に私がお会いして、様子を伝えましょう」

とゲンジの君が提案するのだが、

 「生まれたばかりで見苦しいですから」

藤壺宮が却下して見せたがらないのは、当然なのだった。なんとこの子は、ゲンジの君と瓜二つなのである。疑う余地はなかった。藤壺宮の心の中に鬼が現れて、たちまち胸をかき乱す。「この子を見て、あの異常な過ちを非難しない人なんていないわ。些細なことでも粗探しをする世の中なのだから、どんな悪女と呼ばれるようになるのかしら」などと悶絶すれば、ひとりぼっちで絶望するしかないのだった。

 ゲンジの君は、王命婦とわずかに面会し、言葉の限りに手助けを求めるが、打つ手はなかった。若宮に会いたいと、執拗に迫ると、

 「どうしてそんなに聞き分けのないことを言うのですか。そのうちお会いになる日がございます」

と王命婦は突っぱねたのだが、心で泣いた。あたりの目が気になるので、ゲンジの君も無茶はできずに、

 「いつの世になったら伝言ではなく、あの人と会えるのだろうか」

泣き出すので、王命婦は見ていられない。そしてゲンジの君は、

 「どうやって前世で交わした約束か この世にできた溝の深さよ

 こんなはずではなかったのに」

と一首詠むのだった。王命婦も悲しみに暮れる藤壺宮の姿を思い出して、冷酷に徹するわけにもいかない。

 「見て悩む見ずに嘆くみどり児を思う親には心に闇を

 悲しいほどに痛々しいお二人です」

と小さく答えるのだった。

 かくて、ゲンジの君が取りつく島もなく帰って行くのだが、藤壺宮は世間の目が恐ろしく「滅茶苦茶だわ」と迷惑に思った。王命婦をも、昔のように信用していない。王命婦は、人目に付かないように細心の注意を払っているのだが、それでも藤壺宮お気に召さないようなので、胸が痛く不本意に思うのだった。

 四月になると、若宮は後宮へ上がった。わりあい発育がよいようで、もう寝返りなどしている。呆れるほどにゲンジの君の生き写しなのだが、ミカドは何も知らないので「絶世の美男子というのは、似たような顔をしているのだろう」と取り違えているのだった。若宮を溺愛し、大切にした。

 ミカドは、ゲンジの君をこれ以上ないほどに慈しんでいたが、世間が許さないだろうと、皇太子にはしなかった。普通の役人にしておくにはもったいない、その気品が備わっていく容姿を見るたびに、可哀想に思っていたのだった。藤壺宮を母として、同じように光り輝く男の子が生まれてきたのを、非の打ち所がないものとして、愛情を注いだ。そのたびに藤壺宮は、身を切られる思で不安に襲われるのだった。

 通例の演奏会などでゲンジの君は、藤壺の間に呼び出される。ミカドが若宮を抱いて出てくると、

 「私の子供は大勢いるが、この子と同じぐらいの年齢から四六時中近くに置いたのは、お前だけだ。だから勘違いしてしまうのだろうが、本当によく似ている。子供というのは、皆こういうものなのだろうか」

と言って、息子の可愛さに顔がほころんでいる。ゲンジの君は顔面蒼白になって、恐ろしくも、かたじけなくも、嬉しくも、感無量にも、複雑な思いで泣きそうになるのだった。若宮は、声を発して笑っている。不気味なほど美しい顔をしているので、ゲンジの君は我ながら「自分がこの子に似ているとは、何とも畏れ多い」と思っているのだから、いい気なものだ。藤壺宮は、その場にいるのも耐え難く、恥ずかしさに冷や汗を流している。ゲンジの君は、ますます取り乱し、理性を失いそうになったので、後宮から出たのだった。

 ゲンジの君は二条院に戻って「動悸息切れが治まってから左大臣の屋敷へ行こう」と思った。目の前の植え込みが、何やら青くなっている中に、撫子の花がきらめくように咲いている。手折って、王命婦に手紙を書いたことは言うまでもないのだった。

 「子を想い見つめる花の撫子は袖を濡らして我を鎮めず

 花が咲くのを待っていましたが、叶わぬ想いでした」

と書いてある。誰もいない時だったのだろうか、王命婦は、藤壺宮に見せて、

 「塵ほどで構いませんから、どうかこの花びらに返事を」

と言うと、藤壺宮も悲しみに暮れていた頃なので、

 この花が涙を誘う形見でも根には持てない大和撫子

とだけ、微かな筆跡で付け足したような返事を王命婦が嬉々として届けたのだった。返事がないのは毎度のことで、ゲンジの君が臥したまま思い悩んでいた折である。ゲンジの君は、胸がときめき、嬉しさに涙が出るのだった。

 湿っぽくいじけながら寝転んでいても、何も解決しないような気がしたので、ゲンジの君は、いつものように西の対に気晴らしに行くことにした。髪をボサボサにしたまま、上着を着流して、後を追いたくなるような笛の音を出しながら、ゲンジの君は、部屋を覗く。若紫は、あの植え込みの撫子が露に濡れたような姿で、壁に凭れているのが美しく、可愛らしい。この可憐な少女は、ゲンジの君が帰宅してから、すぐに顔を出してくれなかったので、拗ねているようだ。背中を向けたまま部屋の隅に座っている。ゲンジの君が「こっちへおいで」と言っても知らん顔なのだった。「海に沈んだ若布だから、会えないの」と歌いながら口を袖で隠すと、若紫は、美しくうるおった。

 「生意気だね。どこでそんな歌を覚えたのかい。見過ぎて飽きるは、もっと良くない」

とゲンジの君は冗談を言ってから、琴を持ってこさせて若紫に弾かせようとするのだった。

 「十三弦の琴は中央の細い弦が切れやすいから注意しないといけません」

とゲンジの君が調律する。簡単な曲を弾いて調律してから、箏の琴を若紫に差し出すので、もう拗ねてなどいられなくなって、元気よく弾き始める。小さな身体をいっぱいにして弦を押さえる左手が綺麗なので、ゲンジの君は見惚れながらも笛を吹き合わせて教えるのだった。若紫は飲み込みが良くて、難しい拍子も一度で覚えた。何をやらせても才能が煌めく少女なので、ゲンジの君は、「やっぱり思ったとおりの人だった」と実感するのだった。ホソグロセリというおかしな名前の曲を、ゲンジの君が節回し面白く笛で吹くと合奏が始まる。若紫は、未熟ながらも拍子を間違えることなく、筋がよいのだった。

 灯りをともして二人で絵を見ていると、出かける時間になったので、家来たちが咳払いをして「雨が降りそうです」と言う。若紫は、いつものように寂しくなってしょんぼりするのだった。絵を見る気になれないように、うつ伏せているので、ゲンジの君は可愛くて仕方ない。ふさふさとこぼれる髪の毛を撫で上げながら、

 「私がいない時は寂しいのかな」

とゲンジの君が聞くと、若紫は頷いた。

 「私だって一日でも会わないと苦しいんだよ。だけどあなたはまだ小さいから心配していない。まずは、私が行かないと意地悪な恨み言を言う人が怒り出したら大変だから、しばらくはご機嫌伺いしているんだ。あなたが大人になったら、どこへも行かない。人から恨まれないようにするのは、長生きして、あなたといつまでも幸せに暮らしたいからなのですよ」

などとゲンジの君は必死に説得する。さすがに若紫も恥ずかしくなって何も答えられないのだった。そのままゲンジの君の膝に寄り添って不貞寝をしてしまう。ゲンジの君は、いじらしくてたまらなく、

 「今夜の外出はやめた」

と家来たちに言う。皆、立ち上がって食事を西の対に運んでくる。ゲンジの君が、若紫を起こしながら、

 「出かけないことにしたよ」

と言うと、嬉しくて目を覚ますのだった。二人は一緒に食事をするのだが、若紫は少しだけしか食べられず、

 「おやすみなさい」

と心配そうにしているので、ゲンジの君は「こんなに可愛らしい人を見捨てては、あの世への旅でさえ行くのがつらいだろう」と思うのだった。

 こうやって引き止められることが多かったので、自然と噂になって左大臣家に密告する者も現れた。

 「いったい何者かしら。本当に失礼な人よね。ゲンジの君の縁談なんて聞いたことがないけど、そうやってまとわりついて甘ったれている女なんて、たかが知れているわ。どうせ後宮でつまみ食いした女を溺愛して、目立たないように囲っているのでしょう。ひどく子供っぽい女だって言うじゃないですか」

などと、アオイ付きの女官たちにも、もっぱらの噂だった。後宮でもミカドに「そういう人がいるそうです」と告げ口があった。

 「忍びない。左大臣が心配しているぞ。まだ小さいお前の後見人になってくれて、今まで受けた世話を忘れたのか。そんなこともわからない年齢じゃないだろう。どうして非道いことをするのだ」

とミカドはゲンジの君に説教する。ゲンジの君は、ただ恐縮するばかりで、何も答えられないのだった。ミカドは「夫婦仲がうまくいっていないらしいな」と可哀想になった。

 「けれどもお前には浮ついた話もないではないか。後宮にいる女官たちや、その辺の女たちと泥沼になったように見えないし、噂も聞かない。それなのに、どうして隠し事までして人に恨まれるようなことをするのだ」

とミカドは心配するのだった。


(原文)
 参座しにとても、あまた所も歩きたまはず。内裏、春宮、一院ばかり、さては藤壼の三条宮にぞ参りたまへる。

 「今日はまたことにも見えたまふかな。ねびたまふままに、ゆゆしきまでなりまさりたまふ御ありさまかな」

と、人々めできこゆるを、宮、几帳の隙より、ほの見たまふにつけても、思ほすことしげかりけり。

 この御事の、十二月も過ぎにしが心もとなきに、この月はさりとも、と宮人も待ちきこえ、内裏にもさる御心まうけどもあり。つれなくてたちぬ。御物の怪にや、と世人も聞こえ騒ぐを、宮いとわびしう、このことにより、身のいたづらになりぬべきこと、と思し嘆くに、御心地もいと苦しくてなやみたまふ。

 中将の君は、いとど思ひあはせて、御修法など、さとはなくて所どころにせさせたまふ。世の中の定めなきにつけても、かくはかなくてややみなむと、取り集めて嘆きたまふに、二月十余日のほどに、男皇子生まれたまひぬれば、なごりなく、内裏にも宮人もよろこびきこえたまふ。命長くも、と思ほすは心うけれど、弘徽殿などの、うけはしげにのたまふと聞きしを、空しく聞きなしたまはましかば人笑はれにや、と思しつよりてなむ、やうやうすこしづつさはやいたまひける。

 上の、いつしかとゆかしげに思しめしたること限りなし。かの人知れぬ御心にも、いみじう心もとなくて、人まに参りたまひて、

 「上のおぼつかながりきこえさせたまふを、まづ見たてまつりて奏しはべらむ」

と聞こえたまへど、

 「むつかしげなるほどなれば」

とて、見せたてまつりたまはぬも、ことわりなり。さるは、いとあさましう、めづらかなるまで写し取りたまへるさま、違ふべくもあらず。宮の、御心の鬼にいと苦しく、人の見たてまつるも、あやしかりつるほどのあやまりを、まさに人の思ひ咎めじや、さらぬはかなきことをだに、疵を求むる世に、いかなる名のつひに漏り出づべきにか、と思しつづくるに、身のみぞいと心うき。

 命婦の君に、たまさかに逢ひたまひて、いみじき言どもを尽くしたまへど、何のかひあるべきにもあらず。若宮の御事を、わりなくおぼつかながりきこえたまへば、

 「など、かうしもあながちにのたまはすらむ。いま、おのづから見たてまつらせたまひてむ」

と聞こえながら、思へる気色かたみにただならず。かたはらいたきことなれば、まほにもえのたまはで、

 「いかならむ世に、人づてならで聞こえさせむ」

とて、泣いたまふさまぞ心苦しき。

 「いかさまに昔むすべる契りにてこの世にかかる中のへだてぞ

 かかることこそ心得がたけれ」

とのたまふ。命婦も、宮の思ほしたるさまなどを見たてまつるに、えはしたなうもさし放ちきこえず。

 「見ても思ふ見ぬはたいかに嘆くらむこや世の人のまどふてふ闇

 あはれに心ゆるびなき御事どもかな」

と、忍びて聞こえけり。

 かくのみ言ひやる方なくて帰りたまふものから、人のもの言ひもわづらはしきを、わりなきことにのたまはせ思して、命婦をも、昔思いたりしやうにも、うちとけ睦びたまはず。人目立つまじく、なだらかにもてなしたまふものから、心づきなしと思す時もあるべきを、いとわびしく思ひの外になる心地すべし。

 四月に内裏へ参りたまふ。ほどよりは大きにおよすけたまひて、やうやう起きかへりなどしたまふ。あさましきまで、紛れどころなき御顔つきを、思しよらぬことにしあれば、また並びなきどちは、げに通ひたまへるにこそは、と思ほしけり。いみじう思ほしかしづくこと限りなし。源氏の君を限りなきものに思しめしながら、世の人のゆるしきこゆまじかりしによりて、坊にも据ゑたてまつらずなりにしを、あかず口惜しう、ただ人にてかたじけなき御ありさま容貌にねびもておはするを御覧ずるままに、心苦しく思しめすを、かうやむごとなき御腹に、同じ光にてさし出でたまへれば、瑕なき玉と思しかしづくに、宮はいかなるにつけても、胸の隙なく、やすからずものを思ほす。

 例の、中将の君、こなたにて御遊びなどしたまふに、抱き出でたてまつらせたまひて、

 「皇子たちあまたあれど、そこをのみなむ、かかるほどより明け暮れ見し。されば思ひわたさるるにやあらむ、いとよくこそおぼえたれ。いと小さきほどは、みなかくのみあるわざにやあらむ」

とて、いみじくうつくしと思ひきこえさせたまへり。中将の君、面の色かはる心地して、恐ろしうも、かたじけなくも、うれしくも、あはれにも、かたがたうつろふ心地して、涙落ちぬべし。物語などして、うち笑みたまへるが、いとゆゆしううつくしきに、わが身ながらこれに似たらむは、いみじういたはしうおぼえたまふぞあながちなるや。宮は、わりなくかたはらいたきに、汗も流れてぞおはしける。中将は、なかなかなる心地の乱るやうなれば、まかでたまひぬ。

 わが御方に臥したまひて、胸のやる方なきほど過ぐして、大殿へと思す。御前の前栽の、何となく青みわたれる中に、常夏のはなやかに咲き出でたるを、折らせたまひて、命婦の君のもとに、書きたまふこと多かるべし。

 「よそへつつ見るに心は慰まで露けさまさるなでしこの花

 花に咲かなんと思ひたまへしも、かひなき世にはべりければ」

とあり。さりぬべき隙にやありけむ、御覧ぜさせて、

 「ただ塵ばかり、この花びらに」

と聞こゆるを、わが御心にも、ものいとあはれに思し知らるるほどにて、

 袖ぬるる露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬやまとなでしこ

とばかり、ほのかに書きさしたるやうなるを、喜びながら奉れる、例のことなれば、しるしあらじかし、とくづほれてながめ臥したまへるに、胸うちさわぎて、いみじくうれしきにも涙落ちぬ。

 つくづくと臥したるにも、やる方なき心地すれば、例の、慰めには、西の対にぞ渡りたまふ。しどけなくうちふくだみたまへる鬢ぐき、あざれたる袿姿にて、笛をなつかしう吹きすさびつつ、のぞきたまへれば、女君、ありつる花の露にぬれたる心地して、添ひ臥したまへるさま、うつくしうらうたげなり。愛敬こぼるるやうにて、おはしながらとくも渡りたまはぬ、なまうらめしかりければ、例ならず背きたまへるなるべし、端の方についゐて、「こちや」とのたまへどおどろかず、「入りぬる磯の」と口ずさみて、口おほひしたまへるさま、いみじうざれてうつくし。

 「あなにく。かかること口馴れたまひにけりな。みるめにあくは正なきことぞよ」

とて、人召して、御琴取り寄せて弾かせたてまつりたまふ。

 「箏の琴は、中の細緒のたへがたきこそところせけれ」

とて、平調におしくだして調べたまふ。掻き合はせばかり弾きて、さしやりたまへれば、え怨じはてず、いとうつくしう弾きたまふ。ちひさき御ほどに、さしやりてゆしたまふ御手つき、いとうつくしければ、らうたしと思して、笛吹き鳴らしつつ教へたまふ。いとさとくて、かたき調子どもを、ただ一わたりに習ひとりたまふ。おほかた、らうらうしうをかしき御心ばへを、思ひしことかなふ、と思す。保曾呂倶世利といふものは、名は憎けれど、おもしろう吹きすさびたまへるに、掻き合はせまだ若けれど、拍子違はず上手めきたり。

 大殿油まゐりて、絵どもなど御覧ずるに、出でたまふべし、とありつれば、人々声づくりきこえて、「雨降りはべりぬべし」など言ふに、姫君、例の、心細くて屈したまへり。絵も見さして、うつぶしておはすれば、いとらうたくて、御髪のいとめでたくこぼれかかりたるを、かき撫でて、

 「ほかなるほどは恋しくやある」

とのたまへば、うなづきたまふ。

 「我も、一日も見たてまつらぬはいと苦しうこそあれど、幼くおはするほどは、心やすく思ひきこえて、まづくねくねしく怨むる人の心破らじと思ひて、むつかしければ、しばしかくもありくぞ。大人しく見なしてば、ほかへもさらに行くまじ。人の恨み負はじなど思ふも、世に長うありて、思ふさまに見えたてまつらんと思ふぞ」

など、こまごまと語らひきこえたまへば、さすがに恥づかしうて、ともかくも答へきこえたまはず。やがて御膝によりかかりて、寝入りたまひぬれば、いと心苦しうて、

 「今宵は出でずなりぬ」

とのたまへば、みな立ちて、御膳などこなたにまゐらせたり。姫君起こしたてまつりたまひて、

 「出でずなりぬ」

と聞こえたまへば、慰みて起きたまへり。もろともに物などまゐる。いとはかなげにすさびて、

 「さらば寝たまひねかし」

と、あやふげに思ひたまひつれば、かかるを見棄てては、いみじき道なりとも、おもむきがたくおぼえたまふ。

 かやうに、とどめられたまふをりをりなども多かるを、おのづから漏り聞く人、大殿に聞こえければ、

 「誰ならむ。いとめざましきことにもあるかな。今までその人とも聞こえず、さやうにまつはし、戯れなどすらんは、あてやかに心にくき人にはあらじ。内裏わたりなどにて、はかなく見たまひけむ人を、ものめかしたまひて、人や咎めむと隠したまふななり。心なげにいはけて聞こゆるは」

など、さぶらふ人々も聞こえあへり。内裏にも、かかる人あり、と聞こしめして、

 「いとほしく大臣の思ひ嘆かるなることも、げに。ものげなかりしほどを、おほなおほなかくものしたる心を、さばかりのことたどらぬほどにはあらじを、などかなさけなくはもてなすなるらむ」

とのたまはすれど、かしこまりたるさまにて、御答へも聞こえたまはねば、心ゆかぬなめり、といとほしく思しめす。

 「さるは、すきずきしううち乱れて、この見ゆる女房にまれ、またこなたかなたの人々など、なべてならず、なども見え聞こえざめるを、いかなるものの隈に隠れ歩きて、かく人にも恨みらるらむ」

とのたまはす。


(註釈)

1 参座
 ・年頭の参賀

2 世の人のまどふ
 ・(後撰、雑一、藤原兼輔) 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな

3 花に咲かなん
 ・(後撰、夏、読み人知らず) わが宿の垣根に植ゑし撫子は花に咲かなんよそへつつ見む

4 入りぬる磯の
 ・(拾遺、恋五、坂上郎女) 潮満てばいりぬる磯の草なれや見らく少く恋ふらくの多き (万葉集にも読み人知らずとしてある)

5 みるめにあくは正なきこと
 ・(古今、恋四、読み人知らず) 伊勢の海士の朝な夕なにかづくてふみるめに人を飽く由もがな

6 平調
 ・現代のホ調。盤渉調(ロ調)や壱越調(ニ調)では高すぎるために、調律をした。

7 掻き合はせ
 ・琴や琵琶の弦をかき鳴らして調子を合わせること。

8 保曾呂倶世利
 ・曲名。現代では長保楽の破として伝わっている。