紅葉賀の帖 四 源内侍と夕立の夜

(現代語訳)
 ミカドはいい年をして、なお女好きだった。配膳や身の回りの世話をする女官たちも、見た目や性格を重視していたので、後宮の女たちは精鋭揃いなのである。ゲンジの君がちょっかいを出すにしても、相手には事欠かない風情なので、もう見飽きてしまったのだろうか。「まったく女には興味がないようね」と女官たちは、試しに挑発してみるのだが、ゲンジの君は適当にあしらうだけで、少しも発情してくれない。こんな紳士ぶったゲンジの君を「堅物でつまらないわ」と勘違いしている女官もいるのだった。

 ずいぶん歳を取った源典侍という女官がいた。上流階級の才女で気品があり、周りからも一目置かれている人だったが、男癖がだらしなく、行儀が悪くて有名なのだった。ゲンジの君は「どうして歳を取ってまで、あんなに旺盛なのだろうか」と不審に思ったので、おもしろ半分に口説いてみた。すると相手は、身の程知れずに真に受けているので、ゲンジの君は、開いた口が塞がらなくなったが、それでも後学のためにと興味津々で、深い仲になってしまったのだった。何と言っても相手は老女だから、人に知れたら大変である。ゲンジの君の対応が冷たいので、女は恨むばかりなのだった。

 ミカドが髪上げするというので、この源内侍が整え終えると、ミカドは衣装係を呼びに出て行った。誰もいなくなった部屋に、源内侍が一人、普段より小綺麗に、姿や髪を色っぽく、着物も艶やかに、むせ返るようにしていたので、ゲンジの君は「若作りをしていやがる」と軽蔑の視線を向けていた。それでも「あれから、どう思っているだろう」と素通りできずに、腰に付けている裳の裾を引っ張ってみた。源内侍は悪趣味な絵が描かれた扇で顔を隠して振り返る。ゲンジの君を誘う目つきは隈だらけで窪んでいるのだった。ゲンジの君は「年甲斐もなく、こんな扇を持って」と思い、自分の扇を交換する。悪趣味な扇を見てみると、目の醒めるばかりの真紅の紙に、大きな木が繁る森の絵が金色に描かれているのだった。その裏側には、古式ゆかしい筆跡で「森の木陰に生える草が枯れそうで」などと書いてある。ゲンジの君は「他に書くものもあるだろうに。悪趣味極まりますね」と微笑みながら、

 「夏の森の大木の日陰宿りですか」

と言うのだった。こんなやりとりをする相手でもないので、ゲンジの君は「誰かに見られるのは勘弁だ」と気が気でないのだが、源内侍は満更でもない。

 君の乗る馬にも飼い葉をあげましょうもう枯れそうな日陰の草でも

と一首詠むのが、おそろしく色っぽいのだった。

 「踏み分けた笹を誰かに見られたらただでは済まない馬の楽園

 面倒なことになるといけません」

と逃げ出そうとするゲンジの君を、源内侍は引っ張って、

 「今までこんなに馬鹿にされたことは無いのよ。老いぼれてまで恥をかくなんて」

と泣きじゃくっているのだった。

 「また手紙を出しますよ。いつでもあなたのことが気になっていますから」

とゲンジの君は袖を振り払って脱出しようとするのだが、源内侍も必死である。「思っているだけでしょう」と恨みたっぷりなのだった。ミカドは着替えを済ませて、障子の隙間からそれを覗いている。「なんとも似合わない二人だな」と可笑しくなって、

 「堅物だと、お前達は、いつも心配していたようだが、やはり油断できない男だったね」

と笑っているので、源内侍は顔を赤らめながらも「恋しい人のためなら濡れ衣を着たがる人もいるのだから」と、あえて言い逃れようともしなかった。

 後宮では「不思議なこともあるものだ」と、たちまち人々の噂になった。頭中将も聞きつけて「あの男が変態だとは知っていたが、まさか源内侍とは思いつかなかったよ」と、歳を取ってもまだ冷めない男好きな源内侍が気になって仕方なかったので、やはり、深い関係になってしまったのだった。この男も、人に劣らぬ貴公子である。源内侍は、冷たいゲンジの君の身代わりにしようと思ったのだが、本当に愛しているのは一人の男だけなのだった。悪い冗談としか思えない。

 頭中将は細心の注意を払っているので、ゲンジの君は何も知らなかった。源内侍は、ゲンジの君を見つけるたびに小言をいうので「可哀想な年寄だからいたわらないと」と思うのだが、やっぱり面倒になってしまうのだった。踏ん切りがつかないまま、月日は過ぎた。夕立の後、にわかに涼しくなった夜に紛れて、ゲンジの君が、控え所の温明殿のあたりを徘徊していると、源内侍が奏でる琵琶がおもしろい。ミカドの御前で男たちに交ざって演奏するほどの琵琶の名手である。腕前に敵う者がいない源内侍が、男恋しさに演奏しているのだから、ゲンジの君の身に沁みるのだった。「瓜作りに……なりやしなまし」と気味が悪いほどの美声なので、ゲンジの君は不安である。「昔、鄂州で女の声に惑わされた白楽天の気持ちは、こんな風だろうか」とゲンジの君は聞き入っている。曲が終わると、源内侍の思い乱れる様子が伝わってきた。ゲンジの君は、東屋という催馬楽を柱に寄りかかって歌い出す。すると源内侍が「押し開いていらっしゃい」と声を揃えて歌うのだから、やはりこの女はただ者ではないのだった。

 佇んで濡れる人なき東屋に雨はこうまで憂鬱に降るの

と一首詠んで、源内侍は泣いている。ゲンジの君は「私だけが、愚痴を言われる筋合いもない。どうして、こんなに男を恋しがるのだろう。嫌らしい」と思うのだった。

 人妻は危険ですから東屋の廂をかりず雨に濡れゆく

とゲンジの君は一首詠んで、さっさと退散したいのだが、それではあまりにもにべもないと思い直して、源内侍の望み通り押し開く。冗談などを言い合っていると、ゲンジの君は「こんな夜も悪くない」と思うのだった。

 頭中将は、この男が真面目面をして、いつも自分を袋だたきにするので癪に障っているのだった。さりげなく通う女も多いだろうから、何とかして見つけてやろうと思っていた矢先である。この現場を押さえたので、嬉しくて仕方ない。この際少し脅かして、尻尾を巻いたら「懲りただろう」と言うつもりで、しばらく泳がしておくのだった。

 冷たい風が吹き、夜が更けはじめてゲンジの君と源内侍が微睡んだようなので、頭中将は静かに侵入を試みる。ゲンジの君は警戒して熟睡できないので、すぐに察知した。まさか頭中将であるとは思いつかず、源内侍を思い続けている修理のカミが未練たらしく忍び込んで来たのだと勘違いしている。こんな醜態を老人に見つけられるのは不体裁だと思い、

 「まずいことになったね。もう帰りますよ。今夜、別の男が来ると知りながら私を騙すとは悪趣味極まる」

とゲンジの君は、直衣だけをつかんで屏風の後ろに隠れるのだった。頭中将は笑いを堪えて、その屏風に近づいて畳んでしまうのだった。わざとらしく音を立ててみる。源内侍は老女だが、とても若作りにめかし込み、こんなことは日常茶飯事なので今さら驚かない。慌てながらも「ゲンジの君の運命はいかに」と心配でわなわなと震えながら、とっさに頭中将を捕獲した。ゲンジの君は自分の正体が知られぬうちに脱出したいと思うのだが「冠をひねったままのだらしない姿で逃げていく後ろ姿の狂態を晒すわけにはいかない」と躊躇っているのだった。頭中将も、自分の正体を明かしてはならぬと無言である。激怒している演技で、刀を引き抜くのだった。

 「あなたあなた」

と源内侍が三つ指を突き出す狂乱なので、頭中将は、笑いを堪えるのに精一杯だ。色気たっぷりに若作りしている化けの皮だけは女らしいのだが、五十七、八の老女なのである。恥も外聞もなく狼狽し、今をときめく二十歳そこらの貴公子に挟まって、狼狽している姿は、悪い冗談にしか見えない。中将は自分だと知れぬように、鬼の形相をしているのだが、ゲンジの君には逆効果だった。正体がわかってしまえば「私と知りながら、仕組んだ罠だ」と馬鹿馬鹿しくなってくるのだった。正体を突き止めてしまうと、笑いが止まらず、太刀を抜いている腕をつかまえて、思いきりつねる。頭中将も「しくじった」と思いながらも笑い出した。

 「まるで無茶苦茶な。ふざけてばかりいられないね。さて、この直衣を着ますよ」

とゲンジの君が言うと、頭中将は直衣をつかんで着せてくれない。

 「では、君の直衣も」

とゲンジの君は、頭中将の帯を引っこ抜いて、脱がせようとするのだった。頭中将は、必死に抵抗するのだが、手当たり次第に引き合っていると、ビリビリとほころびてしまった。頭中将は、

 「包み込む噂の漏れるほころびを引き合う我等の衣の中に

 こんな直衣を上に着たら、怪しまれますよ」

と一首詠むのだった。ゲンジの君は、

 隠せない秘密と知って夏ごろも着たのは薄い心のしわざ

と迎え撃つ。二人は引き分けて、だらしない姿で出て行くのだった。

 ゲンジの君は、この奇襲を悔しく思いながら寝た。源内侍はへなへなと萎れたまま、翌朝、落とし物の袴や帯を届けるのだった。

 「怨んでも仕方ないけどふたつ波 寄せては返し 返して消える

 波が消えて底が露わになってしまいました」

などと書いてある。ゲンジの君は「図々しい女だ」と手紙を読んで忌々しく思うのだが、当惑しているようなので可哀想に思って、

 荒ぶれる波に心は揺れずとも寄せる磯には恨みが残る

と返歌だけするのだった。その帯は、頭中将の物だった。自分の直衣よりも、濃い紫であると気がつき、確認してみると、袖の先もない。ゲンジの君は「みっともないな。女に夢中になっている男は、しょっちゅうこんな無様な思いをしているのだろう」と思えば、神妙な顔にもなった。

 頭中将の控え所から「まずは、これを縫い付けてください」と包みが届いた。ゲンジの君は「どうしてこの袖の先を奪われたのか」と歯ぎしりするのだった。「この帯を手に入れてなかったら、惨敗だな」と気を取り直し、帯を、同じ色の紙に包んで、

 途絶えたと糾弾されると癪だから帯に触らず祟りに触れず

と一首詠むのだった。当然、頭中将からも反撃があるのだった。

 「こんなにも君が引っ張る帯だから二人の仲は離れ離れに

 もう言い訳はできませんね」

などと書いてある。

 昼になってから、二人は後宮へやって来た。ゲンジの君が涼しい顔でとぼけているので、頭中将は可笑しくて仕方がない。それでも、公用の多い日で、伺いを立てたり、宣旨で忙しく、頭中将も行儀良く神妙にしていた。二人は目配せをすると、自然と笑みがこぼれてしまう。頭中将は人目を伺って近寄り、

 「秘め事は懲りただろうね」

と棘のある視線を向けるのだった。

 「馬鹿なことを言うなよ。君の方こそ折角来たのに残念だったね。本当に恋愛とは面倒だ」

とゲンジの君も応酬する。「さあ、わかりませんと答えましょう」と、この一件は、お互いの胸にしまっておくことにするのだった。しかし、その後、何かがあるたびに、この話を頭中将が蒸し返すので、ゲンジの君も「面倒な女に手を出してしまった」と後悔もしただろう。源内侍は、未だ懲りずに艶っぽい恨み言をしてくる。ゲンジの君は、ほとほと困るばかりなのだった。頭中将は、この話をアオイには隠しておくことにした。何かがあった際の切り札にするつもりなのだ。

 やんごとない母を持った皇子たちでも、ミカドが特別扱いしているゲンジの君には一目置いていた。しかし頭中将は違う。「後れを取るまい」と、つまらないことでもライバル意識を燃やすのだった。左大臣家では、頭中将だけが、アオイと同じ皇族の血を引く男である。「ゲンジの君だって、ミカドの子というだけだ。私だって、同じ大臣と言っても、今をときめく左大臣家の皇族の血を引く息子なのだ。しっかりと教育を受けたのだから、ゲンジの君に劣ることがあるだろうか」と思っているらしいのである。頭中将もまた、人格の整った利口な男である。何をさせても完璧に備わっているのだった。この二人の張り合いは、異常なほどだったが、これ以上書いてもややこしくなるだけなので、例の通り省略する。


(原文)
 帝の御年ねびさせたまひぬれど、かうやうの方え過ぐさせたまはず、采女女蔵人などをも、かたち心あるをば、ことにもてはやし思しめしたれば、よしある宮仕人多かるころなり。はかなきことをも言ひふれたまふには、もてはなるることもありがたきに、目馴るるにやあらむ、げにぞあやしうすいたまはざめると、こころみに戯れ言を聞こえかかりなどするをりあれど、情なからぬほどにうち答へて、まことには乱れたまはぬを、まめやかにさうざうしと思ひきこゆる人もあり。

 年いたう老いたる典侍、人もやむごとなく心ばせあり、あてにおぼえ高くはありながら、いみじうあだめいたる心ざまにて、そなたには重からぬあるを、かうさだ過ぐるまでなどさしも乱るらむ、といぶかしくおぼえたまひければ、戯れ言いひふれてこころみたまふに、似げなくも思はざりける。あさましと思しながら、さすがにかかるもをかしうて、ものなどのたまひてけれど、人の漏り聞かむも、古めかしきほどなれば、つれなくもてなしたまへるを、女はいとつらしと思へり。

 上の御梳櫛にさぶらひけるを、はてにければ、上は御袿の人召して、出でさせたまひぬるほどに、また人もなくて、この内侍常よりもきよげに、様体頭つきなまめきて、装束ありさま、いとはなやかに好ましげに見ゆるを、さも旧りがたうもと、心づきなく見たまふものから、いかが思ふらんと、さすがに過ぐしがたくて、裳の裾を引きおどろかしたまへれば、かはほりのえならずゑがきたるを、さし隠して見かへりたるまみ、いたう見延べたれど、目皮らいたく黒み落ち入りて、いみじうはづれそそけたり。似つかはしからぬ扇のさまかな、と見たまひて、わが持たまへるに、さしかへて見たまへば、赤き紙の、映るばかり色深きに、木高き森のかたを塗り隠したり。片つ方に、手はいとさだ過ぎたれど、よしなからず、「森の下草老いぬれば」など書きすさびたるを、言しもあれ、うたての心ばへや、と笑まれながら、

 「森こそ夏の、と見ゆめる」

とて、何くれとのたまふも、似げなく、人や見つけん、と苦しきを、女はさも思ひたらず。

 君し来ば手なれの駒に刈り飼はむさかり過ぎたる下葉なりとも

と言ふさま、こよなく色めきたり。

 「笹分けば人や咎めむいつとなく駒なつくめる森の木がくれ

 わづらはしさに」

とて、立ちたまふを、ひかへて、

 「まだかかるものをこそ思ひはべらね。今さらなる身の恥になむ」

とて、泣くさまいといみじ。

 「いま聞こえむ。思ひながらぞや」

とて、引き放ちて出でたまふを、せめておよびて、「橋柱」と恨みかくるを、上は御袿はてて、御障子よりのぞかせたまひけり。似つかはしからぬあはひかなと、いとをかしう思されて、

 「すき心なしと、常にもてなやむめるを、さはいへど、すぐさざりけるは」

とて、笑はせたまへば、内侍は、なままばゆけれど、憎からぬ人ゆゑは、濡れ衣をだに着まほしがるたぐひもあなればにや、いたうもあらがひきこえさせず。

 人々も、思ひの外なることかな、とあつかふめるを、頭中将聞きつけて、いたらぬ隈なき心にて、まだ思ひよらざりけるよ、と思ふに、尽きせぬ好み心も、見まほしうなりにければ、語らひつきにけり。この君も、人よりはいとことなるを、かのつれなき人の御慰めに、と思ひつれど、見まほしきは限りありけるをとや。うたての好みや。

 いたう忍ぶれば、源氏の君はえ知りたまはず。見つけきこえては、まづ恨みきこゆるを、齢のほどいとほしければ、慰めむと思せど、かなはぬものうさに、いと久しくなりにけるを、タ立して、なごり涼しき宵のまぎれに、温明殿のわたりをたたずみ歩きたまへば、この内侍、琵琶をいとをかしう弾きゐたり。御前などにても、男方の御遊びにまじりなどして、ことにまさる人なき上手なれば、もの恨めしうおぼえけるをりから、いとあはれに聞こゆ。「瓜作りになりやしなまし」と、声はいとをかしうて謡ふぞ、すこし心づきなき。鄂州にありけむ昔の人も、かくやをかしかりけむと、耳とまりて聞きたまふ。弾きやみて、いといたう思ひ乱れたるけはいなり。君、東屋を忍びやかに謡ひて、寄りたまへるに、「おし開いて来ませ」と、うち添へたるも、例に違ひたる心地ぞする。

 立ち濡るる人しもあらじ東屋にうたてもかかる雨そそきかな

とうち嘆くを、われひとりしも聞きおふまじけれど、うとましや、何ごとをかくまでは、とおぼゆ。

 人妻はあなわづらはし東屋の真屋のあまりも馴れじとぞ思ふ

とてうち過ぎなまほしけれど、あまりはしたなくや、と思ひかへして、人に従へば、すこしはやりかなる戯れ言など言ひかはして、これもめづらしき心地ぞしたまふ。

 頭中将は、この君の、いたうまめだち過ぐして、常にもどきたまふがねたきを、つれなくて、うちうち忍びたまふ方々多かめるを、いかで見あらはさむとのみ思ひわたるに、これを見つけたる心地、いとうれし。かかるをりに、すこしおどしきこえて、御心まどはして、「懲りぬや」と言はむと思ひて、たゆめきこゆ。

 風冷やかにうち吹きて、やや更けゆくほどに、すこしまどろむにやと見ゆる気色なれば、やをら入りくるに、君はとけてしも寝たまはぬ心なればふと聞きつけて、この中将とは思ひよらず、なほ忘れがたくすなる修理大夫にこそあらめと思すに、おとなおとなしき人に、かく似げなきふるまひをして、見つけられんことは恥づかしければ、

 「あな、わづらはし。出でなむよ。蜘珠のふるまひはしるかりつらむものを。心うくすかしたまひけるよ」

とて、直衣ばかりを取りて、屏風の後に入りたまひぬ。中将をかしきを念じて、引きたてたまへる屏風のもとに寄りて、こぼこぼと畳み寄せて、おどろおどろしく騒がすに、内侍は、ねびたれど、いたくよしばみなよびたる人の、さきざきもかやうにて心動かすをりをりありければ、ならひて、いみじく心あわたたしきにも、この君をいかにしきこえぬるかと、わびしさにふるふふるふ、つと控へたり。誰と知られで出でなばやと思せど、しどけなき姿にて、冠などうちゆがめて走らむ後手思ふに、いとをこなるべしと思しやすらふ。中将、いかで我と知られきこえじ、と思ひて、ものも言はず、ただいみじう怒れる気色にもてなして、太刀を引き抜けば、女、

 「あが君、あが君」

と向ひて手をするに、ほとほど笑ひぬべし。好ましう若やぎてもてなしたるうはべこそさてもありけれ、五十七八の人の、うちとけてもの思ひ騒げるけはひ、えならぬ二十の若人たちの御中にて物怖ぢしたるいとつきなし。かうあらぬさまにもてひがめて、恐ろしげなる気色を見すれど、なかなかしるく見つけたまひて、我と知りてことさらにするなりけりと、をこになりぬ。その人なめり、と見たまふに、いとをかしければ、太刀抜きたる腕をとらへていといたうつみたまへれば、ねたきものから、えたへで笑ひぬ。

 「まことはうつし心かとよ。戯れにくしや。いでこの直衣着む」

とのたまへど、つととらへてさらにゆるしきこえず。

 「さらばもろともにこそ」

とて、中将の帯をひき解きて脱がせたまへば、脱がじとすまふを、とかくひきしろふほどに、綻びはほろほろと絶えぬ。中将、

 「つつむめる名やもり出でん引きかはしかくほころぶる中の衣に

 上に取り着ば、しるからん」

といふ。君、

 かくれなきものと知る知る夏衣きたるをうすき心とぞ見る

と言ひかはして、うらやみなきしどけな姿に引きなされて、みな出でたまひぬ。

 君はいと口惜しく、見つけられぬること、と思ひ臥したまへり。内侍は、あさましくおぼえければ、落ちとまれる御指貫帯など、つとめてたてまつれり。

 「うらみても言ふかひぞなきたちかさね引きてかへりし波のなごりに

 底もあらはに」

とあり。面なのさまやと、見たまふも憎けれど、わりなしと思へりしもさすがにて、

 あらだちし波にこころは騒がねど寄せけむ磯をいかがうらみぬ

とのみなむありける。帯は、中将のなりけり。わが御直衣よりは色深し、と見たまふに、端袖もなかりけり。あやしの事どもや、下り立ちて乱るる人は、むべをこがましきことは多からむと、いとど御心をさめられたまふ。

 中将、宿直所より、「これまづとぢつけさせたまへ」とて、おし包みておこせたるを、いかで取りつらむ、と心やまし。この帯をえざらましかば、と思す。その色の紙につつみて、

 中絶えばかごとやおふとあやふさにはなだの帯を取りてだに見ず

とて遣りたまふ。たち返り、

 「君にかく引き取られぬる帯なればかくて絶えぬる中とかこたむ

 え逃れさせたまはじ」

とあり。

 日たけて、おのおの殿上に参りたまへり。いと静かに、もの遠きさましておはするに、頭の君もいとをかしけれど、公事多く奏し下す日にて、いとうるはしくすくよかなるを見るも、かたみにほほ笑まる。人まにさし寄りて、

 「もの隠しは懲りぬらむかし」

とて、いとねたげなる後目なり。

 「などてかさしもあらむ。立ちながらかへりけむ人こそいとほしけれ。まことは、うしや世の中よ」

と言ひ合はせて、「とこの山なる」と、かたみに口がたむ。さてその後、ともすれば事のついでごとに、言ひむかふるくさはひなるを、いとど、ものむつかしき人ゆゑと、思し知るべし。女は、なほいと艶に恨みかくるを、わびしと思ひありきたまふ。中将は、妹の君にも聞こえ出でず。たださるべきをりのおどしぐさにせむ、とぞ思ひける。

 やむごとなき御腹々の御子たちだに、上の御もてなしのこよなきに、わづらはしがりて、いとことに避りきこえたまへるを、この中将は、さらにおし消たれきこえじと、はかなきことにつけても、思ひいどみきこえたまふ。この君ひとりぞ、姫君の御ひとつ腹なりける。帝の皇子といふばかりこそあれ、我も、同じ大臣と聞こゆれど、御おぼえことなるが、皇女腹にて、またなくかしづかれたるは、何ばかり劣るべき際とおぼえたまはぬなるべし。人がらもあるべき限りととのひて、何ごともあらまほしく、足らひてぞものしたまひける。この御仲どものいどみこそ、あやしかりしか。されどうるさくてなむ。


(註釈)
1 采女
 ・ミカドの食事を配膳する女官。

2 女蔵人
 ・内裏の雑務をする下級女官。

3 かはほり
 ・蝙蝠扇のことで、片面に紙を貼ってあるもの。

4 森の下草老いぬれば
 ・(古今、雑上、読み人知らず)大荒木の森の下草老いぬれば駒も進めず刈る人もなし

5 森こそ夏
 ・(信明集)時鳥来鳴くを聞けば大荒木の森こそ夏の宿りなるらん

6 君し来ば
 ・わが門の一むらすすき刈り飼はん君が手馴の駒も来ぬかな(後撰集を踏まえた歌である)

7 橋柱
 ・(伊行釈)津の国の長柄の橋の橋柱古りぬる身こそ悲しかりけれ (新勅撰集、雑四、読み人知らず)思ふこと昔ながらの橋柱ふりぬる身こそ悲しけれ

8 瓜作りになりやしなまし
 ・催馬楽、山城。「山城の、狛のわたりの瓜つくり(中略)瓜つくり、我を欲しと言う、いかにせん」

9  鄂州
 ・地名。白氏文集に「秋江ニ月澄徹ス、隣船ニ歌フ者有リ、調ヲ発シテ愁絶ニ堪ヘタリ、歌罷ンデ継グニ泣ヲ以テス(中略)借問ス誰ガ家ノ婦ゾ、歌泣スルコト何ゾ凄切ナル」とある。

10 東屋
 ・催馬楽、東屋。「東屋の真屋のあまりのその雨そそぎ、我立ち濡れぬ殿戸開かせ。鎹も錠もあらばこそ、その殿戸我鎖さめ、おし開いて来ませ我や人妻」

11 蜘珠のふるまひ
 ・(古今、墨消歌、読み人知らず)わがせこが来べき宵なりささがにの蜘蛛の行ひかねて著しも

12 底もあらは
 ・(新勅撰、恋四、読み人知らず)別れての後ぞ悲しき涙川底もあらはになりぬと思へば

13 わが御直衣よりは色深し
 ・三位中将の源氏は薄い二藍か縹の直衣を着用した。源氏より位の低い頭中将は濃い二藍か縹の直衣を着用したことから。

14 端袖
 ・袖を広く見せるために木綿幅の半幅を足したもの。

15 とこの山なる
 ・(古今、墨消歌、読み人知らず)犬上のとこの山なるいさや川いさと答へてなき名もらすな