夕顔の帖 五 コレミツの調査報告

(現代語訳)
 一方、コレミツが引き受けた隣邸の偵察だが、ある程度わかったとみえて報告があった。

 「正体はさっぱりわかりません。人目を警戒して潜伏しているようですが、退屈のあまり、南側の跳ね上げ扉のある部屋に出てくることがあります。車の音が聞こえると、若い女官たちが外を窺っているのですが、ここの主人とおぼしき女も交ざっているようです。よく見えなかったのですが、目眩がしました。この間、先払いをして通る車があったときは、見物していた小さい女の子が急いで奥に駆け込んで行ったんです。『右近の方さま。ちょっと見てよ。頭中将さまがここの前を通るんだから』って言うんです。それなりの女官が出てきて『うるさいこと』なんて言いながらも『なんでわかったの? どれ、見てみましょう』などと覗きに出てくるわけですよ。途中に板が渡してあるもんだから、慌てると着物の裾が引っかかるんです。よろめいた瞬間、板から転落しそうになって「この橋は突貫工事なのね」と小言をひとつ、覗く気も失せたようです。頭中将の君は平服姿で、お供を連れていました。あの女の子が『あの人、この人』と、頭中将のお供や、お召しの子どもを指さしていましたから、それでわかったんでしょうね」

とコレミツ。ゲンジの君は、

 「ちゃんと車を確認しておけよ」

と言い、「もしかしたら、頭中将が忘れられられずに未練いっぱいの女かも知れない」などと女たらしの直感が働くのだった。ゲンジの君が、もっと知りたそうな顔をして疼いているので、コレミツは、

 「実は、私もあの家の女官にちょっかいを出しているのです。とんとん拍子で成功しまして、家の様子も隅々まで見ておきました。自分たち女官だけの家だと偽装していて、わざわざ口に出して説明する若い女もいるのですが、こっちも騙されたふりをして、とぼけましたよ。完全に騙し通したつもりなんでしょうか、子供がうっかり口を滑らせると、慌てて誤魔化して猿芝居する始末です」

と笑っている。

 「尼君の見舞いに行く。頼むから覗かせてくれ」

とゲンジの君は正気じゃなくなった。

 仮寝の宿と言っても、あれでは、左馬のカミが言っていた下流階級の女だろう。そんな中から掘り出し物が……。瓢箪から駒が出る予感に、ゲンジの君のスイッチが入る。

 コレミツは、どんなことでもゲンジの君の要望に応える覚悟である。そして彼もまた生粋の女たらしだったから、困難にも臆せず奔走した。その結果、半ば強引に、ゲンジの君を女のもとへと通わせることに成功したのだった。詳細を書くつもりはないので、省略するのだが……。

 女の正体が誰であるか。それはこの際どうでも良かった。ゲンジの君も自分の正体を明かさない。必要以上に地味な姿に身をやつし、普段のように車に乗らず歩いて通うゲンジの君だ。殺気さえ感じたコレミツは、自分の馬を差しだして走りまわった。

 「愛の狩人という者が、こんな足取りで歩いているのを見られたら一大事です」

などとコレミツは気が気でないが、極秘活動である。あの夕顔の花を手折った家来と、面が割れていない子供を一人だけ同行させる。誰にも知れぬよう、念には念を押し、コレミツの家をベースキャンプにすることも断念した。

 女もさすがに不審に思って気持ちが悪いので、使者が来ると尾行させ、明け方にゲンジの君が帰ると尾行させた。「どこの誰か」と探偵まがいのことをするのだが、ゲンジの君は姿をくらませて逃げる。それでもやはり、この女が好きで好きで、どうしても逢いたい衝動を抑えられない。「何て馬鹿なことをやっているんだろう」とか「軽薄すぎる」と頭では理解はできても、足が自動的に女の家へと向かってしまうのだった。

 火遊びは、真面目な男ほど炎上しやすい。ゲンジの君は不真面目なので、過去、人から後ろ指を指されるような失態を犯したことはなかった。しかし今回は別であった。朝に別れたばかりなのに、昼間には発情し乱れ迷ってしまう。あまりにも胸が張り裂けるので、「あんな女ごとき、特に気にする必要もない」と精一杯、自分を冷却するのだが、すればするほど燃え上がる。女の素直な仕草や、とぼけた様子、慎重ではなく考えが浅いこと、無邪気で子供っぽいかと思えば、男を知らないわけでもないことなどが、ちらついて目を離れない。たいした身分でないことは間違いないが、何でこんなに発情するのだろうかと、ゲンジの君は何度も身悶えるのだった。

 ゲンジの君は、ずいぶんわざとらしい変装をして姿を隠し、覆面まで着用している。人が寝静まった夜更けに参上し、夜が明けぬうちに退散するので、怪談めいていて、さすがに女も気味悪く思ったが、それでも肌の感触は嘘をつかない。「いったい、誰なのでしょうか? やっぱり隣の変態男が手引きしたのかしら?」とコレミツを疑うのだが、本人は知らんぷりをして、豆鉄砲を喰らった鳩のような顔で相変わらず女官の尻ばかり追いかけている。結局、女は、わけもわからないまま、自分が騙されているような気がして仕方ないのだった。

 ゲンジの君も、心配になってきた。いつまでもこんな無邪気な日が続けばいいが、ここは仮寝の宿である。突然いなくなったらどうしよう。どこを目印に探せばいいのやら。いつ何が起こっても不思議ではない。女がどこかへ引っ越すこともあるかも知れない。そして、後を追いかけて、見失うことがあるかも知れないと思った。それでも諦めきれるものならば、一夏の想い出で、それはそれで良いのだが、やっぱりそうはいかないのだ。と、ゲンジの君は思った。人目が気になって女と逢えない夜が続くと、ゲンジの君は我慢できずに発狂した。「私の正体を知らせずに、二条院に拉致してしまおう。世間体など気にするものか。面倒になったら、その時はその時、そういう運命だったんだ。我ながら、こうまで女に狂うとは、もしかしたら運命の人を見つけたのかも知れない」と馬鹿なことを考える始末だった。

 ゲンジの君が、

 「私と一線を越えてみましょう。静かな場所で、あなたとゆっくり話したいのです」

と誘った。女は、

 「おっしゃる意味がわかりません。あなたは変だから気味が悪くて」

と子供じみたことを言った。ゲンジの君は「それもそうだ」と笑って、

 「私が狐なら、あなたも狐だ。騙されてごらんよ」

と絶好調なのだった。そして、女も発情し「もうどうなってもいい」と思った。世にも希な、禁断の恋である。それでも一途な女心がゲンジの君を捕らえた。愛おしく感じれば感じるほど、この女は、頭中将の言った夕顔に違いないと確信するのだった。しかし、隠さなければならない事情があるのだろうと察して、あえて追及はしなかった。

 ゲンジの君は、夕顔のつぶらな瞳を見つめた。突然逃げ隠れするような顔ではない。夜這いが途絶えて放っておいたら、心変わりもするかもしれないが、ヘソを曲げて逐電するような度胸もなさそうなので、自分が浮気しそうで怖かった。


(原文)
 まことや、かの惟光が預りのかいま見はいとよく案内見取りて申す。

 「その人とはさらにえ思ひえはべらず。人にいみじく隠れ忍ぶる気色になむ見えはべるを、つれづれなるままに、南の半蔀ある長屋に渡り来つつ、車の音すれば、若き者どもののぞきなどすべかめるに、この主とおぼしきも這ひ渡る時はべべかめる。容貌なむ、ほのかなれど、いとらうたげにはべる。一日、前駆追ひて渡る車のはべりしを、のぞきて、童べの急ぎて、『右近の君こそ、まづ物見たまヘ。中将殿こそこれより渡りたまひぬれ』と言ヘば、またよろしき大人出で来て、『あなかま』と、手かくものから、『いかでさは知るぞ。いで見む』とて這ひ渡る。打橋だつものを道にてなむ通ひはべる。急ぎ来るものは、衣の裾を物にひきかけて、よろぼひ倒れて、橋よりも落ちぬべければ、『いで、この葛城の神こそ、さがしうしおきたれ』と、むつかりて、物のぞきの心もさめぬめりき。君は御直衣姿にて、御随身どももありし。『なにがし、くれがし』と数ヘしは、頭中将の随身、その小舎人童をなん、しるしに言ひはべりし」

など、聞こゆれば、

 「たしかにその車をぞ見まし」

と、のたまひて、もしかのあはれに忘れざりし人にや、と思ほしよるも、いと知らまほしげなる御気色を見て、

 「私の懸想もいとよくしおきて、案内も残る所なく見たまヘおきながら、ただ我どちと知らせて、ものなど言ふ若きおもとのはべるを、そらおぼれしてなむ、隠れまかり歩く。いとよく隠したりと思ひて、小さき子どもなどのはべるが、言あやまりしつべきも、言ひ紛らはして、また人なきさまを強ひて作りはべり」

など、語りて笑ふ。

 「尼君のとぶらひにものせんついでに、かいま見せさせよ」

と、のたまひけり。

 かりにても、宿れる住まひのほどを思ふに、これこそ、かの人の定め侮りし下の品ならめ、その中に思ひの外にをかしき事もあらばなど、思すなりけり。

 惟光、いささかのことも御心に違はじと思ふに、おのれも、隈なきすき心にて、いみじくたばかりまどひ歩きつつ、しひておはしまさせそめてけり。このほどの事くだくだしければ、例のもらしつ。

 女、さしてその人と尋ね出でたまはねば、我も名のりをしたまはで、いとわりなくやつれたまひつつ、例ならず下り立ち歩きたまふは、おろかに思されぬなるべしと見れぱ、わが馬をば奉りて、御供に走り歩く。

 「懸想人のいとものげなき足もとを見つけられてはべらん時、からくもあるべきかな」

などわぶれど、人に知らせたまはぬままに、かの夕顔のしるべせし随身ばかり、さては顔むげに知るまじき童ひとりばかりぞ、率ておはしける。もし思ひ寄る気色もやとて、隣に中宿をだにしたまはず。

 女も、いとあやしく心得ぬ心地のみして、御使に人を添ヘ、暁の道をうかがはせ、御ありか見せむと尋ぬれど、そこはかとなくまどはしつつ、さすがにあはれに、見ではえあるまじく、この人の御心に懸りたれば、便なくかろがろしき事と思ほし返しわびつつ、いとしばしばおはします。

 かかる筋は、まめ人の乱るるをりもあるを、いとめやすくしづめたまひて、人の咎めきこゆべきふるまひはしたまはざりつるを、あやしきまで、今朝のほど昼間の隔てもおぼつかなくなど、思ひわづらはれたまヘば、かつはいともの狂ほしく、さまで心とどむべき事のさまにもあらずと、いみじく思ひさましたまふに、人のけはひ、いとあさましく柔らかに、おほどきて、もの深く重き方はおくれて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず、いとやむごとなきにはあるまじ、いづくにいとかうしもとまる心ぞと、かヘすがヘす思す。

 いとことさらめきて、御装束をもやつれたる狩の御衣を奉り、さまを変ヘ、顔をもほの見せたまはず、夜深きほどに、人をしづめて出で入りなどしたまヘば、昔ありけん物の変化めきて、うたて思ひ嘆かるれど、人の御けはひ、はた手さぐりにもしるきわざなりければ、誰ばかりにかはあらむ、なほこのすき者のしいでつるわざなめりと、大夫を疑ひながら、せめてつれなく知らず顔にて、かけて思ひ寄らぬさまに、たゆまずあざれ歩けば、いかなることにかと心得がたく、女がたもあやしうやう違ひたるもの思ひをなむしける。

 君も、かくうらなくたゆめて這ひ隠れなば、いづこをはかりとか我も尋ねん、かりそめの隠れ処とはた見ゆめれば、いづ方にも、いづ方にも、移ろひゆかむ日を何時とも知らじと思すに、追ひまどはして、なのめに思ひなしつべくは、ただかばかりのすさびにても過ぎぬべきことを、さらにさて過ぐしてんと思されず。人目を思して、隔ておきたまふ夜な夜ななどは、いと忍びがたく苦しきまでおぼえたまヘば、なほ誰となくて二条院に迎ヘてん、もし聞こえありて、便なかるべき事なりとも、さるべきにこそは。わが心ながら、いとかく人にしむことはなきをいかなる契りにかはありけんなど、思ほしよる。

 「いざ、いと心やすき所にて、のどかに聞こえん」

など、語らひたまへば、

 「なほあやしう。かくのたまへど、世づかぬ御もてなしなれば、もの恐ろしくこそあれ」

と、いと若びて言へば、げにとほほ笑まれたまひて、

 「いづれか狐なるらんな。ただはかられたまヘかし」

と、なつかしげにのたまヘば、女もいみじくなびきて、さもありぬべく思ひたり。世になくかたはなることなりとも、ひたぶるに従ふ心はいとあはれげなる人、と見たまふに、なほかの頭中将の常夏疑はしく、語りし心ざままづ思ひ出でられたまヘど、忍ぶるやうこそはと、あながちにも問ひ出でたまはず。

 気色ばみて、ふと背き隠るべき心ざまなどはなければ、かれがれにと絶えおかむをりこそは、さやうに思ひ変ることもあらめ、心ながらも、少し移ろふことあらむこそあはれなるべけれ、とさヘ思しけり。


(註釈)
1 打橋
 ・板を架けただけの、仮設の橋。

2 葛城の神
 ・一言主神の伝説にもとづく。葛城山金峰山との間に、岩の橋を架けようとした歳に、一夜のうちにかけるよう命令されたが、夜か明けても橋は完成しなかった。