夕顔の帖 九 コレミツ、夕顔の亡骸を処置する

(現代語訳)
 真夜中が過ぎたのだろう。風が少し強く吹きはじめた。一層と松の木が響くのが、森の奥から聞こえてくる。妖しい鳥がガラガラと鳴いているのは「梟だろう」と思った。よくよく反省してみると、どこからとも遠い不気味な場所で、人の声もせず、「どうしてこんな物騒な場所で乳繰り合おうと思ったのか」と、後の祭りなのであった。右近はといえば、放心状態でゲンジの君にへばりついて、ぶるぶる震えながら死にそうになっている。この女もおかしくなるのではないかと、ゲンジの君は上の空で抱きしめた。正気なのは自分一人だと思えば、ゲンジの君も放心するしかなかった。灯りが淡く揺らぎ、母屋の境界に立ててある屏風の上や、あちらこちらの隅々に影が動き出す幻覚に悩まされ、何かの足音が、ひしひしと床を踏み、背後から擦り寄ってくる幻聴までしだした。ゲンジの君は「コレミツの野郎、早く来い」と切に願う。夜這う家が無数にある男なので、家来達があちらこちらと探し回っているようだが、夜が明けるまでの長さが、千の夜に等しかった。

 やっと鶏の声が遙か彼方から聞こえた。ゲンジの君は「命がけで、どうしてこんな仕打ちにあわなければならないのか。自分の恋心だが、とんでもないことになった。恋路から足を踏み外して大火傷をした失敗例として後の世にまで語り継がれそうな事態だ。隠しても事実は無くならない。ミカドの耳に入るのは当然だし、世の中にも煙が立つに違いない。おしゃべりな子供達の話題にもなりそうだ。そして、社会から変態扱いされるであろう」と気が気でないのだった。

 待ちわびたコレミツ朝臣がやって来た。いつもなら朝から晩まで嫌な顔をせずに言うことを聞く男が、今夜に限って近くにいないだけでなく、なかなか来なかったことを恨みつつも、ゲンジの君は呼び入れる。話をしようにも、蜃気楼のような出来事で、何から話していいのかわからないのだった。右近はコレミツ五位が来たのを察し、ゲンジの君と自分の主人の顛末を思い巡らせて泣いてばかりいる。遂にゲンジの君も我慢ができなくなった。自分一人が強がって右近の世話をしていたのだが、コレミツを目の前にすると緊張の糸が切れて、悲しみがこみ上げてくるのだった。どこまでも泣いた。落ち着きを取り戻し、

 「大変なことになった。気が動転して言葉にならないんだ。こんな事態には僧侶に経を読ませるんだろ。願いも立てなくちゃならない。阿闍梨に来てくれと言ったのだが」

と言う。

 「阿闍梨は昨日、山に帰りました。それにしても妙なことが起こりましたね。前から持病でもあったんでしょうか?」

 「それはなかったと思う」

とゲンジの君が泣く姿が、別次元の美しさで痛々しく、見ているコレミツも悲しくなって、声を出して泣いた。

 何を言っても、歳を取って世の中の場数を踏んだ人は、いざという時に頼りとなるものだ。ここにいる青二才達では、どうにもならない。コレミツが、

 「ここの管理人に知れたら面倒な事になります。あの男は信用できますが、自然としゃべり散らす家族がいるかも知れませんよ。撤収しましょう」

と言う。

 「でも、ここ以上に人気がない場所はあるまい」

とゲンジの君は怪訝に答えた。

 「確かにそうですが、五条の家に至っては、女官達が悲しんで大騒ぎするでしょう。それに隣近所も多い。怪しまれたら里中に知れ渡る危険があります。山寺であれば、亡骸の搬送も日常なので目立つこともありますまい」

とコレミツは余念がない。

 「昔の知り合いの女官が、出家して東山に住んでいるので、そこに搬送します。私の父の朝臣の乳母が生き長らえて隠遁しているのです。人が多い場所ですが、そこだけは閑散としているんです」

と言って、夜明け前の薄明かりにまみれ、車を寄せる。ゲンジの君は夕顔の亡骸を抱える力も残っていなかったので、コレミツが畳の上に敷いてあるムシロで巻いて車に乗せた。とても小さな夕顔の亡骸は、不浄でなく、可憐にさえ見えた。きつく巻くわけにもいかなかったので、ムシロの隙間から黒髪がこぼれてしまう。ゲンジの君は目眩がし、悲しくて仕方ない。最後まで見届けたいと思うのだが、

 「一刻も早く馬で二条院に帰ってください。明るくなると面倒ですから」

とコレミツが、右近を車に乗せた。自分の馬をゲンジの君に差し出し、自分は指貫の裾を括り上げて歩き出す。不思議な葬送だが、コレミツはゲンジの君の落胆が大きいのを見て、自分の事など構わず歩く。ゲンジの君に至っては、燃え尽きたように二条院へ帰って行った。

 女官達が、「どちらからお帰りでしょうか? 顔色が悪いようですよ」などと言うのだが、ゲンジの君は仕切りの布をめくって奥に入ってしまう。胸を押さえて考えてみると、ただ悲しい。「どうして一緒に車に乗らなかったのか。もし夕顔が蘇生したら、私が見捨てたと思って恨むだろうな」と取り乱しながらも気がかりなのである。胸がつかえて苦しい。ゲンジの君は、頭痛と発熱と悪寒を自覚した。このまま弱って、自分も死ぬのだろうと思った。

 翌日、日が昇ってもゲンジの君が寝ているので、女官達は心配になった。粥などをすすめるのだが、苦しくて受け付けない。ゲンジの君が「私は死ぬのだ」と思っていると、後宮から使者がやって来た。ミカドは昨夜、ゲンジの君が行方不明だったので心配していたのだった。左大臣家の貴公子たちも見舞いに来たが、頭中将にだけ、「立ったままで構わないから、少しだけこちらへ」と呼び出して、簾の中から言った。

 「私の乳母が、五月頃から重い病気でして。髪を下ろして尼になった効果があったのでしょうか、小康状態になったものの、またぶり返して危篤になってしまったのです。一度見舞って欲しいと申し出があって、幼い頃から世話になっている人の今際の願いを聞かないのも薄情ですから訪ねたのです。その家の家来が病気になりまして、休暇を取らせる間もなく死んでしまったのですよ。私に遠慮をして、日が暮れてから運び出したというのを後から知りました。これから後宮では神事が多くなりますので、縁起が悪いでしょうから謹慎しており、後宮には伺えません。それから、今朝から風邪でしょうか、頭痛がひどくて苦しいので、無礼な挨拶で申し訳ない」

頭中将は、

 「そうですか。では、そのように伝えますよ。昨夜の音楽会でも、ミカドはあなたを捜索させてご機嫌斜めでしたよ」

と伝令を終えて帰ろうとするのだが、振り返って、

 「何があったのか教えてください。まさか、そんな言い訳を私が信じるとでも思うんですか?」

と付け足す。図星なので、ゲンジの君は焦る。

 「詳細は説明しなくてもいいのです。突然の不幸に遭遇したとでも言っておいてください。本当に油断していました」

と誤魔化すのだが、心の中に言葉にできない悲しみが溢れ出す。具合は悪くなるばかりで、ゲンジの君は誰とも会わなかった。頭中将の弟の蔵人弁を呼び出し、まことしやかに事情を説明し、ミカドに伝えるように頼み、左大臣家にも、事実を捏造した手紙を送って参上できないことを説明した。


(原文)
 夜半も過ぎにけんかし、風のやや荒々しう吹きたるは。まして松の響き木深く聞こえて、気色ある鳥のから声に鳴きたるも、梟はこれにやとおぼゆ。うち思ひめぐらすに、こなたかなたけ遠くうとましきに、人声はせず、などてかくはかなき宿は取りつるぞと、くやしさもやらん方なし。右近はものもおぼえず、君につと添ひたてまつりて、わななき死ぬべし。またこれもいかならんと心そらにてとらヘたまヘり。我ひとりさかしき人にて、思しやる方ぞなきや。灯はほのかにまたたきて、母屋の際に立てたる屏風の上、ここかしこのくまぐましくおぼえたまふに、物の、足音ひしひしと踏みならしつつ、背後より寄り来る心地す。惟光とく参らなんと思す。あり処定めぬ者にて、ここかしこ尋ねけるほどに、夜の明くるほどの久しさ、千夜を過ぐさむ心地したまふ。

 からうじて鳥の声はるかに聞こゆるに、「命をかけて、何の契りにかかる目を見るらむ。わが心ながら、かかる筋におほけなくあるまじき心のむくいに、かく来し方行く先の例となりぬべきことはあるなめり。忍ぶとも世にあること隠れなくて、内裏に聞こしめさむをはじめて、人の思ひ言はんこと、よからぬ童べの口ずさびになるべきなめり。ありありて、をこがましき名をとるべきかな」と思しめぐらす。

 からうじて惟光朝臣参れり。夜半暁といはず御心に従へる者の、今宵しもさぶらはで、召しにさヘ怠りつるを憎しと思すものから、召し入れて、のたまひ出でんことのあヘなきに、ふとものも言はれたまはず。右近、大夫のけはひ聞くに、はじめよりのことうち思ひ出でられて泣くを、君もえたヘたまはで、我ひとりさかしがり抱き持たまヘりけるに、この人に息をのべたまひてぞ、悲しきことも思されける、とばかり、いといたくえも止めず泣きたまふ。ややためらひて、

 「ここに、いとあやしき事のあるを、あさましと言ふにもあまりてなんある。かかるとみの事には誦経などをこそはすなれとて、そのことどももせさせん、願なども立てさせむとて、阿闍梨ものせよ、と言ひやりつるは」

と、のたまふに、

 「昨日山ヘまかり登りにけり。まづいとめづらかなる事にもはべるかな。かねて例ならず御心地ものせさせたまふことやはべりつらん」

 「さることもなかりつ」

とて、泣きたまふさま、いとをかしげにらうたく、見たてまつる人も、いと悲しくて、おのれもよよと泣きぬ。

 さ言ヘど、年うちねび、世の中のとあることとしほじみぬる人こそ、もののをりふしは頼もしかりけれ、いづれいづれも若きどちにて、言はむ方もなけれど、

 「この院守などに聞かせむことは、いと便なかるべし。この人ひとりこそ睦ましくもあらめ、おのづからもの言ひ漏らしつべき眷属もたち交りたらむ。まづこの院を出でおはしましね」

と、言う。

 「さて、これより人少ななる所はいかでかあらん」

と、のたまふ。

 「げにさぞはべらん。かの古里は、女房などの悲しびにたヘず、泣きまどひはべらんに、隣しげく、咎むる里人多くはべらんに、おのづから聞こえはべらんを、山寺こそなほかやうの事おのづから行きまじり、物紛るることはべらめ」

と、思ひまはして、

 「昔見たまヘし女房の、尼にてはべる、東山の辺に移したてまつらん、惟光が父の朝臣の乳母にはべりし者のみづはぐみて住みはべるなり。あたりは人しげきやうにはべれど、いとかごかにはべり」

と聞こえて、明けはなるるほどのまぎれに、御車寄す。この人をえ抱きたまふまじければ、上蓆に押しくくみて、惟光乗せたてまつる。いとささやかにて、うとましげもなくらうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれまどひて、あさましう悲しと思せば、なりはてんさまを見むと思せど、

 「はや御馬にて二条院ヘおはしまさん、人さわがしくなりはべらぬほどに」

とて、右近を添へて乗すれば、徒歩より、君に馬は奉りて、括り引き上げなどして、かつはいとあやしく、おぼえぬ送りなれど、御気色のいみじきを見たてまつれば、身を捨てて行くに、君はものもおぼえたまはず、我かのさまにておはし着きたり。

 人々、「いづこよりおはしますにか、悩ましげに見えさせたまふ」など言ヘど、御帳の内に入りたまひて、胸を押ヘて思ふに、いといみじければ、「などて乗り添ひて行かざりつらん、生きかヘりたらん時いかなる心地せん、見捨てて行きあかれにけりと、つらくや思はむ」と、心まどひの中にも思ほすに、御胸せき上ぐる心地したまふ。御ぐしも痛く、身も熱き心地して、いと苦しく、まどはれたまヘば、かくはかなくて我もいたづらになりぬるなめり、と思す。

 日高くなれど、起き上りたまはねば、人々あやしがりて、御粥などそそのかしきこゆれど、苦しくて、いと心細く思さるるに、内裏より御使あり。昨日え尋ね出でたてまつらざりしより、おぼつがなからせたまふ。大殿の君達参りたまヘど、頭中将ばかりを、「立ちながらこなたに入りたまへ」とのたまひて、御廉の内ながらのたまふ。

 「乳母にてはべる者の、この五月のころほひより、重くわづらひはべりしが、頭剃り戒受けなどして、そのしるしにやよみがヘりたりしを、このごろまた起こりて、弱くなんなりにたる、いま一たびとぶらひ見よと申したりしかば、いときなきよりなづさひし者のいまはのきざみにつらしとや思はんと思うたまへて、まかれりしに、その家なりける下人の病しけるが、にはかに出であヘで亡くなりにけるを、怖ぢ憚りて、日を暮らしてなむ取り出ではべりけるを、聞きつけはべりしかば、神事なるころいと不便なることと思ひたまヘかしこまりて、え参らぬなり。この暁より、咳病にやはべらん、頭いと痛くて苦しくはべれば、いと無礼にて聞こゆること」

などのたまふ。中将、

 「さらば、さるよしをこそ奏しはべらめ。昨夜も、御遊びにかしこく求めたてまつらせたまひて、御気色あしくはべりき」

と聞こえたまひて、たち返りて、

 「いかなる行き触れにかからせたまふぞや。述べやらせたまふことこそ、まことと思ひたまヘられね」

と言ふに、胸つぶれたまひて、

 「かくこまかにはあらで、ただおぼえぬ穢らひに触れたるよしを奏したまへ、いとこそたいだいしくはべれ」

と、つれなくのたまヘど、心の中には、言ふかひなく悲しきことを思すに、御心地もなやましければ、人に目も見あはせたまはず。蔵人弁を召し寄せて、まめやかにかかるよしを奏せさせたまふ。大殿などにも、かかる事ありてえ参らぬ御消息など聞こえたまふ。


(註釈)
1 梟
 ・梟鳴松桂枝、狐藏蘭菊叢。 (白楽天)『凶宅詩』