桐壺の帖 九、桐壺更衣の郷里改築。
(現代語訳)
ゲンジが元服し大人になると、ミカドは以前のように簾の内に入れなくなった。ゲンジの君は演奏会があれば、藤壺女御の琴に自分の笛の音を重ねて無言の会話を楽しみ、ほのかに漏れる声を聞いて心を慰めた。そして、藤壺女御のぬくもりを感じられる後宮での暮らしを好んだ。五六日も後宮で過ごし、左大臣の御殿には二三日という、よそよそしい通い方だ。左大臣は「まだ子供だから仕方がない」と許してやり、ますます優しくするのだった。ゲンジの君にも、娘の姫君にも、相当な家政婦を見繕ってはべらせている。また、若者が喜びそうなイベントなども用意して、気に入られようと頑張っていた。
後宮にあっては、あの桐壺御殿があてがわれ、母の家政婦が暇を出されることなく働いている。実家の御殿は、建築や木工の役所に命令が下り、またとない豪邸に改築されることになった。もともと造園の木々や山の見栄えがよく、立派な建物だったが、大きな池まで造ることになり、改築工事の職人たちで賑わっている。ゲンジの君は「こういう御殿で運命の人と同棲したい」とためため息一つ、甘い妄想を浮かべた。
「ヒカル君」という名前は、半島の外国人がゲンジの君の美貌を祝福して呼んだのだと言い伝えられている。
(原文)
大人になりたまひて後は、ありしやうに、御廉の内にも入れたまはず。御遊びのをりをり、琴笛の音に聞こえ通ひ、ほのかなる御声を慰めにて、内裏住みのみ好ましうおぼえたまふ。五六日さぶらひたまひて、大殿に二三日など、絶え絶えにまかでたまへど、ただ今は、幼き御ほどに、罪なく思しなして、いとなみかしづききこえたまふ。御方々の人々、世の中におしなべたらぬを、選りととのへすぐりてさぶらはせたまふ。御心につくべき御遊びをし、おほなおほな思しいたつく。
内裏には、もとの淑景舎を御曹司にて、母御息所の御方の人々、まかで散らずさぶらはせたまふ。里の殿は、修理職、内匠寮に宣旨下りて、二なう改め造らせたまふ。もとの木立、山のたたずまひおもしろき所なりけるを、池の心広くしなして、めでたく造りののしる。かかる所に、思ふやうならむ人を据ゑて住まばやとのみ、嘆かしう思しわたる。
光る君といふ名は、高麗人のめできこえて、つけたてまつりけるとぞ、言ひ伝へたるとなむ。
(注釈)
1 大殿
・左大臣の御殿。
2 淑景舎
・桐壺の正式な名称。ゲンジの母の殿舎だった。
3 里の殿
・後に二条院となる。
4 修理職
・殿舎の改築・造営を司る役所。
5 内匠寮
・木工・殿舎の装飾を承る役所。