空蝉の帖 一 ゲンジの君、煩悶す

(現代語訳)
 ゲンジの君は寝付けない。

 「ここまで女にコケにされたのは初めてだ。今夜は恋愛の厳しさを知ったよ。死にたくなっちゃった」

とぼやくので、弟も泣けてきた。その様子がとても可愛い。ゲンジの君は、弟を手探って撫でてやる。小さく華奢な体と、それほど長くなかった髪の毛、気配までもが空蝉を思い出させるから、いとおしい。いつまでも空蝉を探しているのも間が悪く、はらわたが煮えくり返るような夜を明かしているので、普段のように気を許して話すでもない。ゲンジの君が真夜中に出発するというので、この子も同情して切なくなっている。

 空蝉といえば、張り裂けんばかりの胸の内でいたが、ゲンジの君からの手紙が舞い込むことはなかった。「ダメージが強すぎたのね」と思えば、このまま自分が忘れられてしまうような気がして寂しくもなった。それでも、ゲンジの君が危険な恋のトラップを越えて通い続けるのは迷惑である。「最初から破綻していた恋だったの」と自分に言い聞かせるのだが、やはり抜け殻のようになっていた。ゲンジの君に至っては、性懲りもなく「このまま時が解決させてしまったら取り返しがつかない」と焦るのだった。しかし、プライドもあるので、弟に、

 「失恋のショックで自己嫌悪しているんだが、忘れようとすればするほど狂おしい。私に奇襲の出番を作ってくれないか」

などと頼むのだった。弟は「面倒なことに巻き込まれた」と思いつつも、ゲンジの君が自分を頼ってくれるのが嬉しい。子供ではあるが、せっせと奇襲のチャンスを伺い、紀伊のカミが出張する日を押さえた。屋敷に残っているのは女たちだけだ。弟は、ゲンジの君を自分の車に乗せて、夕日にまみれるように出撃した。ゲンジの君は「子供のすることだから」と心配なのだが、贅沢は言ってられない。迷彩服を身にまとい「屋敷の門が閉じられる前に突破せよ」と急ぐ。見張りのいない門から侵入に成功すると、車を停めた。

 

(原文)
寝られたまはぬままには、

 「我はかく人に憎まれても習はぬを、今宵なむ初めてうしと世を思ひ知りぬれば、恥づかしくてながらふまじうこそ思ひなりぬれ」

などのたまヘば、涙をさヘこぼして臥したり。いとらうたしと思す。手さぐりの、細く小さきほど、髪のいと長からざりしけはひのさま通ひたるも、思ひなしにやあはれなり。あながちにかかづらひたどり寄らむも人わろかるべく、まめやかにめざましと思し明かしつつ、例のやうにものたまひまつはさず。

 夜深う出でたまヘば、この子は、いといとほしくさうざうしと思ふ。女もなみなみならずかたはらいたしと思ふに、御消息も絶えてなし。思し懲りにけると思ふにも、やがてつれなくてやみたまひなましかば、うからまし。しひていとほしき御ふるまひの絶えざらむもうたてあるべし。よきほどに、かくて閉ぢめてんと思ふものから、ただならずながめがちなり。君は心づきなしと思しながら、かくてはえやむまじう御心にかかり、人わろく思ほしわびて、小君に、


 「いとつらうもうれたうもおぼゆるに、しひて思ひかヘせど、心にしも従はず苦しきを、さりぬべきをりみて対面すべくたばかれ」

と、のたまひわたれば、わづらはしけれど、かかる方にても、のたまひまつはすは、うれしうおぼえけり。幼き心地に、いかならんをりと待ちわたるに、紀伊守国に下りなどして、女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなるまぎれに、わが車にて率てたてまつる。この子も幼きをいかならむと思せど、さのみもえ思しのどむまじかりければ、さりげなき姿にて、門など鎖さぬさきにと、急ぎおはす。人見ぬ方より引き入れて、下ろしたてまつる。