空蝉の帖 四 ゲンジの君、夜明けの退散

(現代語訳)
 ゲンジの君は、近くに寝ている弟を揺り起こす。弟は、はらはらしながら寝ていたので、すぐに起き上がった。戸をそっと押し開けると、年寄った女官の声がして「あら、どなた?」と大声を張り上げたのだった。弟は「うるせえな」と思いつつ「僕だよ」と黙らせる。それでも「こんな夜更けに、どこへ行くんですか」と説教じみてきた。来なくても良いのに、わざわざ近寄ってくるので腹が立つ。弟は「何でもないよ。外の空気を吸っているだけ」と言いながら、ゲンジの君の背中を押して隠す。月が辺り一面を照らす夜明けだから、ゲンジの君の影が、すうっと浮かび上がった。老女は「もう一人は誰です」と問い詰める。弟が返事に窮していると、

 「ああ、民部さんなのね。背の高い人だからすぐにわかったわ」

と一人で納得している。長身のいつもからかわれている女官の名前である。老女は弟が民部を連れているのだと勘違いしているようだ。「すぐに、坊ちゃまも同じぐらいの背丈になりますよ」などと、戸口から出てくるのだった。ゲンジの君は「まずいことになった」と思いながら、廊下の入り口に寄り添って硬直している。老女が近くにやって来て、

 「あなたも今夜はお屋敷でしたの。私はお腹が痛くて下宿で休んでいたのよ。でも人手が足りないからって、夜になってから呼び出されたの。痛くて痛くて仕方ないのに」

と文句を言っている。返事などそっちのけで、

 「痛い、痛い。キリキリするの。また後で」

と外に飛び出してくれたので、事なきを得た。ゲンジの君は「やっぱり無謀な火遊びは危険を伴うものだな」と、少しは反省した様子である。


(原文)
 小君近う臥したるを起こしたまヘば、うしろめたう思ひつつ寝ければ、ふとおどろきぬ。戸をやをら押し開くるに、老いたる御達の声にて「あれは誰そ」と、おどろおどろしく問ふ。わづらはしくて、「まろぞ」と答ふ。「夜半に、こはなぞと歩かせたまふ」と、さかしがりて、外ざまヘ来。いと憎くて「あらず。ここもとヘ出づるぞ」とて、君を押し出でたてまつるに、暁近き月隈なくさし出でて、ふと人の影見えければ、「またおはするは誰そ」と問ふ。

 「民部のおもとなめり。けしうはあらぬおもとの丈だちかな」

と言ふ。丈高き人の常に笑はるるを言ふなりけり。老人、これを連ねて歩きけると思ひて、「いま、ただ今立ち並びたまひなむ」と言ふ言ふ、我もこの戸より出でて来。わびしけれど、えはた押しかヘさで、渡殿の口にかい添ひて、隠れ立ちたまヘれば、このおもとさしよりて、

 「おもとは、今宵は上にやさぶらひたまひつる。一昨日より腹を病みて、いとわりなければ、下にはべりつるを、人少ななりとて召ししかば、昨晩参う上りしかど、なほえ堪ふまじくなむ」

と憂ふ。答ヘも聞かで、

 「あな腹々。今聞こえん」

とて過ぎぬるに、からうじて出でたまふ。なほかかる歩きはかろがろしくあやふかりけりと、いよいよ思し懲りぬべし。


(注釈)
1 おもと
 ・御許。平安時代の女房の敬称。名前の下に付けたりする。