紅葉賀の帖 一 紅葉の賀

(現代語訳)
 朱雀院への行幸は十月十日頃なのだった。ありふれた行事とは違って世紀の祭典なのだから、後宮の后や女御たちは、鑑賞できずに不満が募った。ミカドは、藤壺宮に見物させてやれないのを寂しく思ったので、後宮で通し稽古をさせることにしたのだった。

 ゲンジの中将は、青海波を踊る。舞の相方は、左大臣家の頭中将である。面影や気立てなど、優れた男だったが、ゲンジの君と向かい合っては、桜の花の隣に生えている山奥の大木なのだった。夕焼け前の西日が鮮やかに輝く中で楽器が響きだす。絶頂に達するころ、同じく舞の二人だが、ゲンジの君の足使い、目つきが、別世界の美しさなのである。音楽が静まり、ゲンジの君が歌い出す声は、彼岸を彷徨う鳥の声と聞き間違えてしまいそうになるほどだった。ゲンジの君の舞は、格調高い中にも甘さがあり、ミカドは思わず涙を浮かべる。高級役人や、親王たちも、もれなく泣いた。歌が終わり、ゲンジの君が、袖を整えるのを合図に、また音楽が賑やかに再開される。ゲンジの君の顔が西日に染まって、普段にも増して光る君に映るのだった。皇太子の母親の、弘徽殿女御は、あまりにも美しいゲンジの君の姿が気に食わないので、

 「天空の神が惑わされそうな容色だわ。くわばら、くわばら」

などと憎まれ口を叩いてるので、若い女官たちは、眉をひそめて聞いている。

 藤壺宮は「私たちに不純な心がなければ、何よりも美しい舞だったでしょう」と思って、夢の中にいるようだった。今夜の藤壺宮は、ミカドの訪問を待つ身である。

 「今夜の通し稽古は、青海波にさらわれてしまったね。感想を聞かせて欲しい」

と言うミカドの質問に、返答に困った藤壺の宮は「ええ、素晴らしい舞でした」とだけ答えただけなのだった。

 「ゲンジの君の相手の舞も悪くなかった。舞の作法、手さばきは、さすが良家の息子だ。名を轟かす舞の名人などは、うまく舞うだけで、さりげない色気を表現できないものですよ。通し稽古で、すっかり鑑賞してしまったら、本番は紅葉の陰に散ってしまいそうで、勿体ない気もしたのだけど、どうしても、あなたに見せてあげたくて準備した稽古なのです」

とミカドは語るのだった。

 次の朝、ゲンジの君は藤壺宮に手紙を送った。

 「いかがでしたか。途方もなく乱れた気持ちのまま舞いました。

 袖を振り乱れる気持ちで舞う我の心の奥も君に見えたか

 行儀が悪いとは知りながら」

と書いてある。あの鮮やかに魅了したゲンジの君の姿を思い出して、素通りできなかったのだろうか、藤壺宮は、返事を書く。

 「袖を振る異国の舞は遠すぎてまぶしい光 甘く見つめた

 ただの観客として」

とあるのを、ゲンジの君は「滅多にない返歌だ」と思う。「異国の朝廷を折り込んだ歌を詠むのだから、もう皇后の風格が備わっているのだろう」とも思い、笑みがこぼれた。それを懐に忍ばせた経文のように広げて見入っている。

 御幸には、皇族たちをはじめ、ありとあらゆる人たちが引っ張り出された。もちろん皇太子も参加する。いつもの音楽隊の舟が池を旋回し、唐の国や高麗の国の楽曲で忙しく舞うのだった。弦楽器、打楽器が空気を振動させている。

 あの通し稽古の日、夕日に染まったゲンジの君の、あまりにも美しい姿を見て、嫌な予感がしたミカドは、各地で祈祷をさせていた。それを聞いた人々も親心を察して心配するのだが、皇太子の母親だけは「大袈裟な」と馬鹿にするのだった。

 舞を囲む演奏者は、殿上役人でも、地下役人でも、優秀だと評判の名手たちが掻き集められた。参議の高官が二人、左ウエ門ノカミと右ウエ門ノカミが、左の唐楽、右の高麗楽に別れて指揮を執っている。舞人は誰もが、有名な踊りの先生の指導のもと、家に籠もって稽古をしていた。

 大きな紅葉の木陰で、四十人の楽隊が響かせる、えもいわれぬ音に誘われて吹き下ろす松風が高嶺おろしのようだ。極彩色に散り交ざった木の葉の中から、青海波を舞うゲンジの君と頭中将が浮かび上がる光景は神々しくさえある。ゲンジの君が冠に飾った紅葉が散ってしまって浮かんだ顔に息を呑んだ左大臣が、目の前にある菊を折って差し替えた。日が暮れる前に少し時雨れて、空までが感動しているようだった。ゲンジの君の美貌に、冠に差した菊の色が絢爛と染まっている。今日は通し稽古にも増して渾身の舞を披露してみせた。ゲンジの君が入り際に引き返して舞う姿を見た人々は、鳥肌を立てて彼岸を忍ぶのだった。木陰や岩陰に隠れてい見ている、教養のない身分の者でも、感情がある人間ならば自動で涙が流れた。

 承香殿の女御が母親の、四番目の皇子はまだ、童姿だった。この子が秋風の踊りを舞ったのが、青海波の次に良かった。今回の行幸は、この二つの舞が別格だったので、他の出し物は、観客を白けさせるだけの代物だったのではないだろうか。

 その夜、ゲンジの中将は従三位から、正三位に出世した。頭中将も、正四位の下に昇進する。他の役人たちも、身分相応の昇級に喜んだが、これはゲンジの君の出世に便乗したのだった。見る人を驚かせ、心まで満たさせる、この男の前世とは、いかなるものなのだろうか。


(原文)
 朱雀院の行幸は神無月の十日あまりなり。世の常ならず、おもしろかるべきたびのことなりければ、御方々、物見たまはぬことを口惜しがりたまふ。上も、藤壼の見たまはざらむを、あかず思さるれば、試楽を御前にてせさせたまふ。

 源氏の中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。片手には大殿の頭中将、容貌用意人にはことなるを、立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木なり。入り方の日影さやかにさしたるに、楽の声まさり、もののおもしろきほどに、同じ舞の足踏面持、世に見えぬさまなり。詠などしたまへるは、これや仏の御迦陵頻伽の声ならむと聞こゆ。おもしろくあはれなるに、帝涙をのごひたまひ、上達部親王たちも、みな泣きたまひぬ。詠はてて、袖うちなほしたまへるに、待ちとりたる楽のにぎははしきに、顔の色あひまさりて、常よりも光ると見えたまふ。春宮の女御、かくめでたきにつけても、ただならず思して、

 「神など、空にめでつべき容貌かな。うたてゆゆし」

とのたまふを、若き女房などは、心うし、と耳とどめけり。

 藤壼は、おほけなき心のなからましかば、ましてめでたく見えまし、と思すに、夢の心地なむしたまひける。宮は、やがて御宿直なりけり。

 「今日の試楽は、青海波に事みな尽きぬな。いかが見たまひつる」

と聞こえたまへば、あいなう、御答へ聞こえにくくて、「ことにはべりつ」とばかり聞こえたまふ。

 「片手もけしうはあらずこそ見えつれ。舞のさま手づかひなむ、家の子はことなる。この世に名を得たる舞の男どもも、げにいとかしこけれど、ここしうなまめいたる筋を、えなむ見せぬ。試みの日かく尽くしつれば、紅葉の蔭やさうざうしくと思へど、見せたてまつらんの心にて、用意せさせつる」

など聞こえたまふ。

 つとめて中将の君、

 「いかに御覧じけむ。世に知らぬ乱り心地ながらこそ、

 もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の袖うちふりし心知りきや

 あなかしこ」

とある。御返り、目もあやなりし御さま容貌に、見たまひ忍ばれずやありけむ。

 「から人の袖ふることは遠けれど立ちゐにつけてあはれとは見き

 おほかたには」

とあるを、限りなうめづらしう、かやうの方さへたどたどしからず、他の朝廷まで思ほしやれる、御后言葉のかねても、とほほ笑まれて、持経のやうにひきひろげて見ゐたまへり。

 行幸には、親王たちなど、世に残る人なく仕うまつりたまへり。春宮もおはします。例の楽の船ども漕ぎめぐりて、唐土、高麗と尽くしたる舞ども、くさ多かり。楽の声、鼓の音、世をひびかす。

 一日の源氏の御夕影、ゆゆしう思されて、御誦経など所どころにせさせたまふを、聞く人もことわりとあはれがりきこゆるに、春宮の女御は、「あながちなり」と憎みきこえたまふ。

 垣代など、殿上人地下も、心ことなりと世人に思はれたる、有職のかぎりととのへさせたまへり。宰相二人、左衛門督、右衛門督、左右の楽のこと行ふ。舞の師どもなど、世になべてならぬをとりつつ、おのおの籠りゐてなむ習ひける。

 木高き紅葉の蔭に、四十人の垣代、いひ知らず吹き立てたる物の音どもにあひたる松風、まことの深山おろしと聞こえて吹きまよひ、色々に散りかふ木の葉の中より、青海波のかかやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ。かざしの紅葉いたう散りすぎて、顔のにほひにけおされたる心地すれば、御前なる菊を折りて、左大将さしかへたまふ。日暮れかかるほどに、けしきばかりうちしぐれて、空のけしきさへ見知り顔なるに、さるいみじき姿に、菊の色々うつろひ、えならぬをかざして、今日はまたなき手を尽くしたる、入り綾のほど、そぞろ寒く、この世の事ともおぼえず。もの見知るまじき下人などの、木のもと岩がくれ、山の木の葉に埋もれたるさへ、すこしものの心知るは涙落しけり。

 承香殿の御腹の四の皇子、まだ童にて、秋風楽舞ひたまへるなむ、さしつぎの見物なりける。これらにおもしろさの尽きにければ、こと事に目も移らず、かへりてはことざましにやありけむ。

 その夜、源氏の中将正三位したまふ。頭中将正下の加階したまふ。上達部は、みなさるべきかぎりよろこびしたまふも、この君にひかれたまへるなれば、人の目をも驚かし、心をもよろこばせたまふ、昔の世ゆかしげなり。


(註釈)
1 試楽
 ・舞楽のリハーサル

2 青海波
 ・唐楽、二人舞。和邇部太田麿が楽を作り、良峯安世をが舞を作り、小野篁が詠を作ったと言われる。盤渉調(ロ調)にされた。

3 詠
 ・舞に合わせて歌う詩のこと。「桂殿迎初歳 桐楼媚早年 剪花梅樹下 蝶鴛画梁辺
」という詩で、小野篁が作った。声を出して、字音の通りに棒読みする。詠の間は音楽が中止され、詠が終わると音楽が再開する。

4 御迦陵頻伽
 ・冥界にいるという想像の鳥。美女の顔を持ち、その美声に及ぶ物はないとされた。

5 家の子
 ・公達の子息。

6 垣代
 ・【かひしろ】楽屋の外部の舞台の下に四十人が円陣を組んで笛を吹いた。それを外から見ると垣根に見えるので、こう呼ぶ。

7 左右の楽
 ・「左の楽」は唐楽で、「右の楽」は高麗楽である。

8 入綾
 ・入り舞で、舞ながら舞台を退場すること。

9 秋風楽
 ・唐楽。玄宗皇帝のが名づけた。嵯峨天皇の時代に、韻を変更して舞を作ったと言われている。

末摘花の帖 六 ゲンジの君、若紫と絵を描く

(現代語訳)
 ゲンジの君が二条院に戻ると、まだ大人になりきっていない若紫だが、とても美しかった。「同じ紅でも、こんないとしい色もあるのだな」と見つめた着物は、無地の桜色なのだった。柔らかく着こなして澄ましているのが、可愛いばかりである。昔気質の祖母君の躾で、お歯黒もまだつけていなかったので、化粧をさせてみると、目元が鮮やかになったので、凛として美しさが増すのであった。「我ながら、どうしてこんなに可愛い子の側にいないで、どうしようもない女の苦労ばかりしているのだろうか」と反省しながら、いつものように若紫と一緒に人形遊びをした。

 若紫は絵を描いて色を塗っている。あれこれと綺麗に描いた。ゲンジの君も隣で絵を描き加えるのだった。髪がずいぶん長い女を描いて、鼻の頭を紅く染めたりしている。ゲンジの君は、ずいぶんと綺麗に自分の姿が鏡に映っているのを見て、自ら鼻に紅い絵の具を塗りつけてる。こんなに綺麗な顔でさえ、変な色が塗られていると間抜けなのだった。若紫がそれを見て笑っている。

 「私の鼻がこんなになってしまったら、どうしようか」

とゲンジの君が言うと、若紫は、

 「いやだ」

と頭を振って、そのまま赤くなってしまったら困ると心配している。ゲンジの君は、鼻をぬぐう真似をして、

 「あれ、色が落ちない。馬鹿ないたずらをしてしまった。ミカドに叱られるな」

と真面目な顔をして言う。騙されて可哀想に思う若紫は、隣に寄り添って鼻を拭くのだった。

 「平仲の物語みたいに、男の顔に墨を塗ってはいけませんよ。まだ赤い方がましだから」

と戯れ合っている姿は、本当に仲の良い夫婦にしか見えないのだった。のどかに晴れ渡っているが、だんだんと空が霞んでくる。森の梢は、花が待ち遠しく、梅の蕾がはち切れんばかりだ。車寄せに植えてある紅梅は、真っ先に花を咲かせるので、もう色が付いている。

 「くれないの花の想い出苦くても梅の姿がなつかしい頃

 まったく」

とゲンジの君は投げやりに一首詠むのだった。

 こんな女たちの運命が、どうなることやら。


(原文)
二条院におはしたれば、紫の君、いともうつくしき片生ひにて、紅はかうなつかしきもありけりと見ゆるに、無紋の桜の細長なよらかに着なして、何心もなくてものしたまふさま、いみじうらうたし。古代の祖母君の御なごりにて、歯ぐろめもまだしかりけるを、ひきつくろはせたまへれば、眉のけざやかになりたるもうつくしうきよらなり。心から、などかかううき世を見あつかふらむ、かく心苦しきものをも見てゐたらで、と思しつつ、例の、もろともに雛遊びしたまふ。

 絵など描きて、色どりたまふ。よろづにをかしうすさび散らしたまひけり。我も描き添へたまふ。髪いと長き女を描きたまひて、鼻に紅をつけて見たまふに、形に描きても見まうきさましたり。わが御影の鏡台にうつれるが、いときよらなるを見たまひて、手づからこの紅花を描きつけ、にほはしてみたまふに、かくよき顔だに、さてまじれらむは見苦しかるべかりけり。姫君見て、いみじく笑ひたまふ。

 「まろが、かくかたはになりなむ時、いかならむ」

とのたまへば、

 「うたてこそあらめ」

とて、さもや染みつかむと、あやふく思ひたまへり。そら拭ひをして、

 「さらにこそ白まね。用なきすさびわざなりや。内裏にいかにのたまはむとすらむ」

と、いとまめやかにのたまふを、いといとほしと思して、寄りて拭ひたまへば、

 「平仲がやうに色どり添へたまふな。赤からむはあへなむ」

と戯れたまふさま、いとをかしき妹背と見えたまへり。日のいとうららかなるに、いつしかと、霞みわたれる梢どもの、心もとなき中にも、梅は気色ばみほほ笑みわたれる、とり分きて見ゆ。階隠のもとの紅梅、いととく咲く花にて、色づきにけり。

 「紅の花ぞあやなくうとまるる梅の立ち技はなつかしけれど

 いでや」

と、あいなくうちうめかれたまふ。

 かかる人々の末々いかなりけむ。


(註釈)
1 細長
 ・幼年の衣装。小袿や小袖の上に来た。紫の上が模様のない細長を着ているのは、喪中のため。

2 平仲
 ・平貞文の字(あざな)である。平仲が硯に入った水で嘘泣きしたのを見破った。女は水入れの中に墨を入れておいた。それを知らずに平仲は、女を訪ねて、いつものように泣いて見せたところ、顔が黒くなったという話。

3 階隠
 ・階段の上に廂を作って車を寄せる場所のこと。

末摘花の帖 五 末摘花、ゲンジに着物を贈る

(現代語訳)
 年も暮れゆく。ゲンジの君が、後宮の宿直所にいると、タイフの命婦がやってきた。髪を梳かせたりするには、色っぽい関係でなくて、それでいて冗談を言えるような女が良かったので、タイフの命婦は、もってこいなのであった。タイフの命婦も、話したいことがあれば、呼び出しがなくても、ゲンジの君のいる桐壺の間へやってくる。

 「一風変わったことがあるのですが、報告しないのは、あんまりだと思って、躊躇っているのです」

とタイフの命婦は、微笑んだまま黙ってしまった。

 「何なのだい。私に隠し事をしても仕方ないだろう」

とゲンジの君が尋問するので、

 「隠し事なんてしませんよ。あたしの心配事なら、ご迷惑でも一番はじめに相談に乗ってもらいますわ。でも、今回だけは、思いあぐねてしまって」

ともったいぶるのである。ゲンジの君は「いつもの思わせぶりか」と苛立つのだった。タイフの命婦は「あの姫宮からの、お手紙がありまして」と言って取り出す。

 「だったら、隠す必要もないじゃないか」

とゲンジの君が受け取る。タイフの命婦は気が気でない。ぶ厚い和紙に、香だけは深く焚いてある。手紙に見えないでもない。歌もあった。

 からごろも君の心が冷たくて私の袖はびしょ濡れになる

とあるのが意味不明なので、ゲンジの君は首をかしげる。すると、タイフの命婦が、布で包まれた重そうな古ぼけた衣装箱を置いて、ゲンジの君の前に押し出した。

 「こんな物、恥ずかしくて見せられるわけがありません。お正月の礼服にと、わざわざあたしに言付けるのを、まさか、返品するわけにもいかなくて。あたしの考えで保管しておくのも失礼でしょう。とにかく見て頂いてから処分を考えようと思って」

とタイフの命婦が困惑しているので、ゲンジの君は、

 「保管されたら困るじゃないか。私には、濡れた袖を乾かす人もいないのだから、有り難い贈り物だ」

と言ったまま無言になってしまった。「なんという、お粗末な歌なのだろう。これがあの姫君の渾身の作なのだ。いつもは侍従が添削しているのだな。侍従の他に先生がいないのいないのだろう」と呆れてる。「姫君が悶絶しながら捻り出した歌なのだろう」と察して、ゲンジの君は「畏れ多い歌というのは、このような歌のことを言うのだろう」と笑ってしまうのだった。タイフの命婦は赤面するばかり。

 濃すぎる紅梅色がおぞましく、古くさくて光沢のない直衣なのである。裏地も同じように濃く染めてあって、どこにでも転がっていそうな直衣なのは、袖や裾の仕立てでわかるのだった。ゲンジの君は白けてしまって、手紙をひろげて、その端に落書きをはじめた。それを、タイフの命婦が横から覗く。

 「気になった色でないのに紅色のすえつむ花を摘んでしまった

 濃い色の花だとは思ったが」

と書き付けてあった。タイフの命婦は「どうして紅花を馬鹿にするのかしら」と訝しがる。すると、月影で見た姫君の鼻を思い出したので「お非道い」と思いながらも、可笑しくなってしまうのだった。

 「一度だけ紅く染めた衣でも笑いものにはなさらぬように

 可哀想ですから」

と達者ぶって独り言をしているタイフの命婦の歌も、駄作だったが、「あの姫君に、せめてこれぐらいの知恵があったなら」とゲンジの君は幻滅したのだった。それでも、姫君の身分を思えば、名を汚すような噂が立つのは可哀想に思った。そろそろ、人々がゲンジの君の御前にやってくるので、

 「これは隠しておこう。こんなことは、まともな人間がする芸当ではないから」

とゲンジの君が苦笑いして言う。タイフの命婦「なんで、こんな物を見せちゃったのだろう。あたしまで徒花になったみたい」と恥ずかしくなって、そっと逃げるのだった。

 翌日、タイフの命婦後宮の詰め所にいると、ゲンジの君が覗いて、

 「ほら、昨日の返事を書いた。やっぱり気になって放っておけなくてさ」

と手紙を投げ入れる。周りの女官たちは、「なんなの」と手紙を見たがる。

 「ただ梅が色づくように、三笠の山の少女を捨てて」

などとゲンジの君が鼻唄交じりで立ち去るので、タイフの命婦は、やっぱり可笑しい。何も知らない女官たちは「なんで一人で笑っているの」と怪しむのだった。

 「なんでもないわよ。こんな寒い霜の朝だから、みんなの鼻を梅の花と間違ったのかも。面白い歌ね」

とタイフの命婦が言うので、

 「失礼しちゃうわ。ここには鼻が染まった人なんていませんよ。赤鼻の、左近の命婦や、肥後のウネメもいませんから」

と意味不明なことを言い合った。

 タイフの命婦が、ゲンジの君の返事を持って行くと、常陸宮邸では、女官たちが集まって絶賛するのだった。

 逢わぬよう隔てるための衣なら重ねて着ろと君は言うのか

と白い紙に気取らずに書いてあるのが、かえって引き立っているのだった。年の終わりの夕方に、末摘花の君の衣装として、人からもらった衣服一揃え、葡萄色に染めた上着、山吹色の上着など、色々と詰め込んだ物をタイフの命婦が持って来た。「このあいだ贈った着物の色が、お気に召さなかったのかしら」と思う人もいるのだが、「あの着物だって、綺麗な紅色だから、負けてはいませんね」と年寄りが勝手なことを言っている。

 「歌だって、姫様の歌は筋が通った秀歌でしたわ。この返歌は、技巧に頼りすぎね」

などと身の程知らずなのだった。末摘花も会心の一首だと思ったので、あの歌を複写していた。

 元旦の儀式が終わると、今年は男踏歌という行事があった。そんなわけで、街中は歌の稽古で賑わっている。ゲンジの君も慌ただしいのだが、寂しげな常陸宮邸が気になって仕方なかった。白馬の節句が閉宴し夜になった頃、ミカドの御前を下がり、桐壺の宿直所に泊まったふりをして夜更けの出発を待った。

 常陸宮邸は、以前と比べれば華やいでいて、普通の家のようにも見えた。末摘花も少しは愛嬌が出てきたようなのだった。「今年からは、立て直しもしないとね」と、ゲンジの君は目論んだ。日の出までくつろいでから帰ることにした。東側の引き戸を開けると、向こうへ渡す廊下が壊れて屋根がなくなっている。やがて降り注ぐ日差しが雪を反射させて奥の方まですっかり見渡せるようになるのだった。ゲンジの君が直衣を着ているのを見つめながら、横たえた末摘花の、頭の形や溢れんばかりの髪の毛が、ずいぶん可憐なのであった。ゲンジの君は「幾分か化ける女だったらいいのだけど」と思って窓を跳ね上げる。それでも、末摘花を余すことなく見てしまった後悔に懲りているので、窓を全開にはしない。肘掛けに窓に挟んで、ゲンジの君は、髪の乱れを整える。すると、女官たちが、おかしなほど古い鏡台や、舶来の櫛入れ、髪上げの道具などを持ってくる。ゲンジの君は「男物の道具があるのは趣味が良い」と感心するのだった。

 末摘花の着ている物が、今日は普通に見えるのは、年末に贈った箱の中身を、そのまま着ているからなのである。ゲンジの君は、それに気がつかず、面白い模様の入った上着を見て「どこかで見たことのある着物だな」と思うのだった。

 「今年からは、少しでも声を聞かせて下さい。鶯のさえずりは待ち遠しいですが、それよりも、生まれ変わったあなたの声を聞いてみたい」

とゲンジの君が言うと、

 「さえずる春は」

と末摘花は、やっと口を開いて声を震わせている。

 「その調子。成長しましたね」

とゲンジの君は笑いながら、

 「夢のようだ」

と口ずさんで帰って行く。末摘花は見送って壁により掛かっている。口元を覆っている横顔の袖の下から、やはり末摘花が色鮮やかに咲いているのだった。ゲンジの君は「あの容貌だけは、どうにもならないな」と思った。


(原文)
 年も暮れぬ。内裏の宿直所におはしますに、大輔命婦参れり。御梳櫛などには、懸想だつ筋なく、心やすきものの、さすがにのたまひ戯れなどして、使ひ馴らしたまへれば、召しなき時も、聞こゆべきことあるをりは参う上りけり。

 「あやしきことのはべるを、聞こえさせざらむも、ひがひがしう思ひたまへわづらひて」

と、ほほ笑みて聞こえやらぬを、

 「何ざまのことぞ。我にはつつむことあらじとなむ思ふ」

とのたまへば、

 「いかがは。みづからの愁へは、かしこくともまづこそは。これはいと聞こえさせにくくなむ」

と、いたう言籠めたれば、「例の艶なる」と憎みたまふ。「かの宮よりはべる御文」とて取り出でたり。

 「ましてこれは、とり隠すべきことかは」

とて、取りたまふも胸つぶる。みちのくに紙の厚肥えたるに、匂ひばかりは深うしめたまへり。いとよう書きおほせたり。歌も、

 からころも君が心のつらければたもとはかくぞそぼちつつのみ

心得ず、うちかたぶきたまへるに、つつみに衣箱の重りかに古代なる、うち置きておし出でたり。

 「これを、いかでかはかたはらいたく思ひたまへざらむ。されど、朔日の御よそひとて、わざとはべるめるを、はしたなうはえ返しはべらず。ひとり引き籠めはべらむも人の御心違ひはべるべければ、御覧ぜさせてこそは」

と聞こゆれば、

 「引き籠められなむは、からかりなまし。袖まきほさむ人もなき身に、いとうれしき心ざしにこそは」

とのたまひて、ことにもの言はれたまはず。さても、あさましの口つきや。これこそは手づからの御事の限りなめれ。侍従こそ取り直すべかめれ、また筆のしりとる博士ぞなかべきと、言ふかひなく思す。心を尽くして詠み出でたまひつらむほどを思すに、いともかしこき方とは、これをも言ふべかりけりと、ほほ笑みて見たまふを、命婦おもて赤みて見たてまつる。

 今様色の、えゆるすまじくつやなう古めきたる、直衣の裏表ひとしうこまやかなる、いとなほなほしう、つまづまぞ見えたる。あさましと思すに、この文をひろげながら、端に手習すさびたまふを、側目に見れば、

 「なつかしき色ともなしに何にこのを袖にふれけむ

 色こき花と見しかども」

など、書きけがしたまふ。花の咎めを、なほあるやうあらむと、思ひあはするをりをりの月影などを、いとほしきものから、をかしう思ひなりぬ。

 「紅のひとはな衣薄くともひたすらくたす名をしたてずは

 心苦しの世や」

と、いといたう馴れて独りごつを、よきにはあらねど、かうやうのかいなでにだにあらましかばと、かへすがへす口惜し。人のほどの心苦しきに、名の朽ちなむはさすがなり。人々参れば、

 「取り隠さむや。かかるわざは人のするものにやあらむ」

とうちうめきたまふ。何に御覧ぜさせつらむ。我さへ心なきやうにと、いと恥づかしくてやをらおりぬ。

 またの日、上にさぶらへば、台盤所にさしのぞきたまひて、

 「くはや。昨日の返り事。あやしく心ばみ過ぐさるる」

とて投げたまへり。女房たち、何ごとならむとゆかしがる。

 「ただ、梅の花の、色のごと、三笠の山の、をとめをば、すてて」

と、歌ひすさびて出でたまひぬるを、命婦はいとをかしと思ふ。心知らぬ人々は、「なぞ。御独り笑みは」と、とがめあへり。

 「あらず。寒き霜朝に、掻練このめるはなの色あひや見えつらむ。御つづしり歌のいとほしき」

と言へば、

 「あながちなる御ことかな。このなかには、にほへるはなもなかめり。左近命婦肥後采女やまじらひつらむ」

など、心もえず言ひしろふ。

 御返り奉りたれば、宮には女房つどひて見めでけり。

 逢はぬ夜をへだつる中の衣手にかさねていとど見もし見よとや

白き紙に、捨て書いたまへるしもぞ、なかなかをかしげなる。晦日の日、タつ方、かの御衣箱に、御料とて人の奉れる御衣一具、葡萄染の織物の御衣、また山吹かなにぞ、いろいろ見えて、命婦ぞ奉りたる。「ありし色あひをわろしとや見たまひけん」と、思ひ知らるれど、「かれはた、紅のおもおもしかりしをや。さりとも消えじ」と、ねび人どもは定むる。

 「御歌も、これよりのは、ことわり聞こえてしたたかにこそあれ、御返りは、ただをかしき方にこそ」

など、口々に言ふ。姫君も、おぼろけならでし出でたまひつるわざなれば、物に書きつけておきたまへりけり。

 朔日のほど過ぎて、今年、男踏歌あるべければ、例の所どころ遊びののしりたまふに、もの騒がしけれど、淋しき所のあはれに思しやらるれば、七日の日の節会はてて、夜に入りて御前よりまかでたまひけるを、御宿直所にやがてとまりたまひぬるやうにて、夜更かしておはしたり。

 例のありさまよりは、けはひうちそよめき世づいたり。君もすこしたをやぎたまへる気色もてつけたまへり。いかにぞ、あらためてひきかへたらむ時、とぞ思しつづけらるる。日さし出づるほどにやすらひなして、出でたまふ。東の妻戸押し開けたれば、むかひたる廊の、上もなくあばれたれば、日の脚、ほどなくさし入りて、雪すこし降りたる光に、いとけざやかに見入れらる。御直衣など奉るを見出だして、すこしさし出でて、かたはら臥したまひつる頭つき、こぼれ出でたるほど、いとめでたし。生ひなほりを見出でたらむ時、と思されて、格子引き上げたまへり。いとほしかりし物懲りに、上げもはてたまはで、脇息をおし寄せて、うちかけて、御鬢ぐきのしどけなきをつくろひたまふ。わりなう古めきたる鏡台の、唐櫛笥、掻上の箱など取り出でたり。さすがに、男の御具さへほのぼのあるを、ざれてをかしと見たまふ。

 女の御装束、今日は世づきたりと見ゆるは、ありし箱の心ばへをさながらなりけり。さも思しよらず、興ある紋つきてしるき表着ばかりぞ、あやしと思しける。

 「今年だに声すこし聞かせたまへかし。待たるるものはさしおかれて、御気色のあらたまらむなむゆかしき」

とのたまへば、

 「さへづる春は」

とからうじてわななかしいでたり。

 「さりや。年経ぬるしるしよ」

と、うち笑ひたまひて、「夢かとぞ見る」とうち誦じて出でたまふを、見送りて、添ひ臥したまへり。口おほひの側目より、なほ、かの末摘花、いとにほひやかにさし出でたり。見苦しのわざやと思さる。


(註釈)
1 みちのくに紙
 ・【陸奥紙】は「檀紙」のこと。厚手で白く縮緬のような皺がある。懸想の手紙には、通常、薄い色紙を使うのが常識で、厚い檀紙を使うのは異常だった。

2 すゑつむ花
 ・【末摘花】は、紅花(べにばな)のこと。その茎を染料にする。赤い花を咲かせるので、赤い鼻の姫君を、「末摘花」と呼んだ。

3 台盤所
 ・清涼殿の西廂にあった、女房の詰め所。

4 ただ、梅の花の、色のごと
 ・ただうめの花のごと、掻練好むや、滅し紫の色好むや『風俗歌』の一節。

5 掻練
 ・赤い練って柔らかくした絹。

6 男踏歌
 ・正月の十四日から十五日にかけて、殿上人、地下の人々が内裏から諸院、諸宮へ、催馬楽などを歌いながら巡回する行事。

7 七日の日の節会
 ・「白馬(あおうま)の節会」のこと。奈良時代から行われている中国伝来の宮廷行事。陰暦正月七日、紫宸殿にて「青馬」二十一頭を天覧し、宴が行われた。

8 待たるるものは
 ・拾遺、春植え、素性 あらたまの年立ち返るあしたより待たるる物は鶯の声 和漢朗詠集、春にもある。

9 夢かとぞ
 ・古今、雑下、業平 忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見んとは

末摘花の帖 四 ゲンジ、雪の朝に末摘花の鼻に絶句する

(現代語訳)
 朱雀院の行幸が近づくと、ミカドの御前で試演などが始まり騒がしくなってくる。その頃、タイフの命婦後宮に戻ってきた。

 「あの人はどうしている」

とゲンジの君は詰め寄った。気の毒には思っているらしい。タイフの命婦は状況を報告して、「こんなに愛想を尽かしたようにされては、周りの女官たちまで可哀想になってしまいます」と泣きべそなのだった。ゲンジの君は「タイフの命婦が、純粋な関係程度で留めておこうとしたのを、私がぶち壊してしまった。この人は、私を非道い男だと思っているだろうな」とバツが悪かった。また「あの姫君は、何も言わずに萎れているのだろう」と想して哀れに思った。「今は忙しいのだ。仕方ないよ」と溜息をついて、

 「世の中の仕組みがわかっていないようだから、少し懲らしめてやろうと思ってね」

と微笑むのだった。その顔がみずみずしく綺麗なので、タイフの命婦も釣られて笑ってしまう。「この若さでは、大勢の女から恨まれても仕方ないわね。女心も知らないで、やりたい放題なのも当然だわ」と頷けるのだった。

 この御幸の準備も落ち着いた頃、ゲンジの君は時々、常陸宮家に通う。しかし、若紫を二条院に拉致してからは、この子に夢中でいたから、六条付近の人ともご無沙汰になってしまった。なので、荒ら屋のことは、いつも可哀想だと思いながら、だんだんと面倒臭くなってしまうのだった。あの必要以上に恥ずかしがる姫君の素顔を見てみたいという気持ちも、今ではどうでも良くなってきたまま時間が過ぎた。それでも「じっくり見てみれば素敵な人なのかも知れない。いつもは暗闇で手探りに触っているだけだから馴染めないのだろうか。姿を見てみたい」と思うのだが、じろじろと正面で見るわけにもいかないので覗くことにした。女官たちが油断している夕暮れに、こそこそと侵入して跳ね上げ窓の隙間から透き見するのだった。当然ながら姫君の姿が見えるはずがない。仕切り布はボロボロに破れていたが、昔から同じ場所に整然と配置してあるようで、よく見えない。かろうじて四、五人の女官だけが確認できた。お膳があって、舶来の言われありそうな青磁の食器が乗っているが、古ぼけていていて、あられもない。奥の部屋から下がって、味気ない食事をしているようだ。屋敷の隅の部屋で、凍えそうな女官が、信じられないほど垢まみれの着物に、汚れた布を巻いている腰の様子が不気味なのだった。それでも、古式ゆかしく髪の毛を櫛で押さえつけている額は、舞の練習所や、神鏡の御鎮所などの伝統継承をしている場所で、似たような人を見たことがあるので、ゲンジの君は笑えてきた。こんな天然記念物が、宮家の姫君に侍っていることが信じられないのだった。

 「ああ、今年は寒いわ。長生きすると、こんな目にも遭うのね」

と泣いている女官もいる。

 「亡くなった常陸宮さまがいたときに、不満を言ったこの口が憎い。こんなに没落しても死ねないなんて」

と飛び上がりそうに震えるている女官もいた。ありとあらゆる惨状をぼやいているのを盗み聞きするのも悪趣味だと思って、ゲンジの君は引き下がった。そして、今しがた来たような素振りで跳ね上げ窓を叩くのだった。女官たちは「さあ」と言って、火を灯し、跳ね上げ窓を上げて、ゲンジの君を迎入れる。

 姫君のメノトの娘である、あの侍従は斎院にも仕えた若い女官だったので、最近はここにいない。残ったのは、貧乏くさい田舎者しかいないので、ゲンジの君は当惑していた。「寒い」と愚痴っていた雪が、よりいっそう強く降りしきる。空模様は大荒れで風が吹き荒れ、灯火を消してしまうのだが、誰も火を付けようとしない。ゲンジの君は、あの夕顔の君が化け物に襲われた夜を思い出した。あの時と同じように荒れた場所だが、ここは狭くて、まだ人気が少しあるのが気休めになった。それでも、恐ろしくて、嫌な予感がする、とても眠れそうにない夜なのだった。この、不思議と胸が締め付けられる夜は、日常からかけ離れて、胸騒ぎを覚えさそうなものなのに、姫君は恥ずかしがって愛想がないので、ゲンジの君は肩透かしを喰らっているのだった。

 やっと夜が明けたようだ。ゲンジの君は自分で跳ね上げ窓を開けて、庭の植え込みに積もった雪を見ている。人の足跡が一つもなく、遠くまで荒れ果てている。とても殺伐としているので、ゲンジの君は、このまま振り切って帰るのが可哀想になった。

 「鮮やかな空の色だ。見てご覧。いつまでも警戒している、あなたの気持ちを扱いきれなません」

とゲンジの君が不満を言う。外はまだ薄暗いのだが、雪の光に反射した、この男の瑞々しくて、美しいと言ったら。年老いた女官たちは、うっとりと笑みをこぼす。

 「早くお出まし下さい。恥ずかしがるのは良くありません」

 「女は素直にするものです」

などと女官たちが言って聞かせると、この姫君は人の言うことに逆らえない性格なので、とにかく身支度して近寄ってくるのだった。ゲンジの君は見ない振りをして、外を見つめているのだが、横目で盗み見ずにはいられなかった。「どうだろう。心を許しあってから、少しでも美しいと感じる人だったら」とゲンジの君は思っているのだが、それも無理な話なのである。最初に、座高が高く胴長に見えたので「やはり悪い予感が的中した」と絶句した。次に「なんだこれは」と見たのは鼻だった。目が釘付けになる。普賢菩薩が乗っていた象のようだ。おぞましく高い鼻が長く、尖端は少し垂れ下がって色づいている。これが際だって不気味だ。顔色は雪も恥じらう白さで、青ざめている。額は腫れぼったいのに、下ぶくれしているのは、顔がとてつもなく長いからだろう。痩せこけているのは、哀れに思うぐらいだった。骨張っていて、鎖骨が痛々しく着物の上まで浮いている。ゲンジの君は「なぜ、全てを見てしまったのだろうか」と良心の呵責を感じながらも、滅多に見られそうもない容貌に観察せざるを得なかった。

 頭の形や髪の生え具合は、一般的に美人だと言われている姫君たちと比べたとしても、勝るとも劣らない。引き摺った着物の裾よりも、一尺ばかり長かった。着ている物のあら探しをするのも差し出がましい気がするが、昔物語では、最初に登場人物の衣装について書くものなので仕方ない。淡い色がさらに脱色して白くなった物を重ねて、その上に黒ずんだ着物、立派に誂えた黒貂の皮衣を、香しく重ねている。曰く付きの年代物の出で立ちだが、若い女の身なりには、ほど遠く、飛び抜けて時代錯誤なのだった。しかし、この皮衣がなかったら、さすがに寒いだろうと思わずにいられない顔色を、ゲンジの君は腫れ物に触るように見つめていた。

 もはやゲンジの君に言葉はなかった。自分までが無口な人間になった気がするが、毎度の無言もほころびるかどうか実験してみようかと、色々と話すのだった。姫君は過敏に恥ずかしがって、口を袖で隠してしまう。それが古ぼけていて、田舎くさい。儀式を取り仕切る役人が、物々しく練り歩くときの肘付きを思い出される。一所懸命に笑う姫君の顔は、ただ不細工で仮面のようだった。ゲンジの君は、痛まれなくて逃げる。

 「身寄りのない立場なのですから、深い仲になった私には、嫌がらないで心を開いて欲しいと思っているのです。私を拒んでいるようだから、悲しくて」

とゲンジの君は、姫君が悪いようにしておいて、

 朝日差す軒のつららは溶けるのに地面を覆う氷は溶けず

と一首詠むのだった。姫君は「うう」と口ごもって笑い、返歌さえできそうにないのが悲惨に見えるので、ゲンジの君は立ち去るのであった。

 車を寄せた中門が酷く歪んでいる。夜に見れば、何となく荒れ果てているとは思っても、闇に隠されていたのだった。朝に見渡せば、何とも寂しく荒廃して、松に積もった雪だけがふっくらとしている。山里のように寂しく閑散としているので、ゲンジの君は「雨夜の品定めで、あいつらが言っていた、草の絡まった廃屋というのは、こんな場所なのかも知れない。確かに、悲惨な境遇の女をこんな場所に囲って、心配しながら心を通わせてみたい。そうすれば、禁断の恋の傷心も癒えるだろう。理想の場所ではあったが、住んでいる人が理想ではなかった。もし私でなかったら、とんずらするだろう。姫君と私が結ばれたのは、亡き常陸宮の霊魂が、娘の将来を案じて、死んでも死にきれずに引き寄せたのだろう」と思うのだった。

 橘の木が雪に埋もれているので、家来を呼んで払わせる。それを嫉むように松の木が跳ね上がって雪を落とす。「名に立つ末の」という歌のようで「特別な知識はいらないから、こんなことを共有できる人がいて欲しい」とゲンジの君は見つめている。車を引き出す門が、まだ閉まっているので、鍵を持った門番を探すと、よぼよぼな老人が出てきた。つついて、娘だか孫だかわからぬような中途半端な年齢の女がついてきた。着ている物に雪が反射して、よりいっそう汚らしく見える。骨の心まで冷えている顔をして、見たこともない入れ物に火を少しだけ癒えて、袖で包んで抱きかかえている。老人が門を開けられないので、女が隣で手伝うのだが、まったく役に立たないのだった。ゲンジの君の家来が近寄って開門する。

 「降る雪が翁の頭を濡らすのに劣らぬ涙で袖濡らす我

幼い人は着る物もない」

とゲンジの君は、一首詠んで、『白氏文集』の詩を口ずさむのだった。鼻の先が花の色に染まった、寒そうな姫君の顔を思い出して、つい笑ってしまう。「頭中将に、あの姫君を見られたら、何て馬鹿にされるだろうか。しょっちゅう偵察に来ているようだから、そのうち発覚されるだろう」とゲンジの君は、始末が悪い。平凡で普通の女だったら、放置しておいても構わないのだが、あの姿を見てしまったゲンジの君は、日に日に不憫に思えてきて、いつも気にかけて面倒をみた。

 黒貂の皮衣は、さすがにいただけないので、絹や、綾や、木綿など、老人女官の着物や、あの鍵預かりの翁のためにも、召使いの上から下まで余すことなく贈った。こんな風に面倒をみられるのを、姫君は嫌がらなかったので、ゲンジの君は「生活の面倒もみてあげよう」という気にもなったので、少し変ではあるが、普通はしないような世話までするのだった。

 「あの夕暮れに、盗み見た空蝉君の横顔も、かなり美しくはなかったが、仕草が可憐だったから愛らしかった。常陸宮の姫君は、空蝉の君に身分で劣るはずもない。やはり、女は身分ではないのだ。優しい人だったけど、憎たらしかった空蝉の君には、負けたままだ」とゲンジの君は、いつでも懐かしく思い出すのだった。


(原文)
 行幸近くなりて、試楽などののしるころぞ、命婦は参れる。

 「いかにぞ」

など問ひたまひて、いとほしとは思したり。ありさま聞こえて、「いとかうもて離れたる御心ばへは、見たまふる人さへ心苦しく」など、泣きぬばかり思へり。心にくくもてなしてやみなむと思へりしことを、くたいてける、心もなく、この人の思ふらむをさへおぼす。正身の、ものは言はで思し埋もれたまふらむさま、思ひやりたまふもいとほしければ、「暇なきほどぞや。わりなし」とうち嘆いたまひて、

 「もの思ひ知らぬやうなる心ざまを、懲らさむと思ふぞかし」

と、ほほ笑みたまへる、若ううつくしげなれば、我もうち笑まるる心地して、わりなの、人に恨みられたまふ御齢や、思ひやり少なう、御心のままならむもことわりと思ふ。

 この御いそぎのほど過ぐしてぞ、時々おはしける。かの紫のゆかりたづねとりたまひて、そのうつくしみに心入りたまひて六条わたりにだに、離れまさりたまふめれば、まして荒れたる宿は、あはれに思しおこたらずながら、ものうきぞわりなかりける。ところせき御もの恥を見あらはさむの御心もことになうて過ぎゆくを、内返し、見まさりするようもありかし、手探りのたどたどしきに、あやしう心得ぬこともあるにや、見てしがな、と思ほせど、けざやかにとりなさむもまばゆし、うちとけたる宵居のほど、やをら入りたまひて、格子のはさまより見たまひけり。されど、みづからは見えたまふべくもあらず。几帳など、いたくそこなはれたるものから、年経にける立処変らず、おしやりなど乱れねば、心もとなくて、御達四五人ゐたり。御台、秘色やうの唐土のものなれど、人わろきに、何のくさはひもなくあはれげなる、まかでて人々食ふ。隅の間ばかりぞ、いと寒げなる女ばら、白き衣のいひしらず煤けたるに、きたなげなる褶ひき結ひつけたる腰つき、かたくなしげなり。さすがに櫛おしたれてさしたる額つき、内教坊、内侍所のほどに、かかる者どもあるはやと、をかし。かけても、人のあたりに近うふるまふ者とも知りたまはざりけり。

 「あはれ、さも寒き年かな。命長ければ、かかる世にも逢ふものなりけり」

とて、うち泣くもあり。

 「故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけり」

とて、飛び立ちぬべくふるふもあり。さまざまに人わろき事どもを愁へあへるを、聞きたまふもかたはらいたければ、たちのきて、ただ今おはするやうにてうち叩きたまふ。「そそや」など言ひて、灯とりなほし、格子放ちて入れたてまつる。

 侍従は、斎院に参り通ふ若人にて、このころはなかりけり。いよいよあやしう、ひなびたる限りにて、見ならはぬ心地ぞする。いとど、愁ふなりつる雪、かきたれいみじう降りけり。空のけしきはげしう、風吹きあれて、大殿油消えにけるを、点しつくる人もなし。かの物に襲はれしをり思し出でられて、荒れたるさまは劣らざめるを、ほどの狭う、人げのすこしあるなどに慰めたれど、すごう、うたていざとき心地する夜のさまなり。をかしうも、あはれにも、やう変へて心とまりぬべきありさまを、いと埋れ、すくよかにて、何のはえなきをぞ、口惜しう思す。

 からうじて明けぬる気色なれば、格子手づから上げたまひて、前の前栽の雪を見たまふ。踏みあけたる跡もなく、はるばると荒れわたりて、いみじうさびしげなるに、ふり出でて行かむこともあはれにて、

 「をかしきほどの空も見たまへ。つきせぬ御心の隔てこそわりなけれ」

と恨みきこえたまふ。まだほの暗けれど、雪の光に、いとどきよらに若う見えたまふを、老人ども笑みさかえて見たてまつる。

 「はや出でさせたまへ。あぢきなし」

 「心うつくしきこそ」

など教へきこゆれば、さすがに、人の聞こゆることを、えいなびたまはぬ御心にて、とかうひきつくろひて、ゐざり出でたまへり。見ぬやうにて、外の方をながめたまへれど、後目はただならず。いかにぞ、うちとけまさりのいささかもあらば、うれしからむとおぼすも、あながちなる御心なりや。まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、さればよと、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。色は雪はづかしく白うて、さ青に、額つきこよなうはれたるに、なほ下がちなる面やうは、おほかたおどろおどろしう長きなるべし。痩せたまへること、いとほしげにさらぼひて、肩のほどなどは、いたげなるまで衣の上まで見ゆ。何に残りなう見あらはしつらむと思ふものから、めづらしきさまのしたれば、さすがにうち見やられたまふ。

 頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人々にも、をさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて、ひかれたるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ。着たまへる物どもをさへ言ひたつるも、もの言ひさがなきやうなれど、昔物語にも、人の御装束をこそまづ言ひためれ。ゆるし色のわりなう上白みたる一かさね、なごりなう黒き袿かさねて、表着には黒貂の皮衣、いときよらにかうばしきを着たまへり。古代のゆゑづきたる御装束なれど、なほ若やかなる女の御よそひには、似げなうおどろおどろしきこと、いともてはやされたり。されど、げにこの皮なうて、はた寒からましと見ゆる御顔ざまなるを、心苦しと見たまふ。

 何ごとも言はれたまはず、我さへ口とぢたる心地したまへど、例のしじまもこころみむと、とかう聞こえたまふに、いたう恥ぢらひて、口おほひしたまへるさへ、ひなび古めかしう、ことごとしく儀式官の練り出でたる肘もちおぼえて、さすがにうち笑みたまへる気色、はしたなうすずろびたり。いとほしくあはれにて、いとど急ぎ出でたまふ。

 「頼もしき人なき御ありさまを、見そめたる人には、うとからず思ひ睦びたまはむこそ、本意ある心地すべけれ。ゆるしなき御気色なれば、つらう」

などことつけて、

 朝日さす軒のたるひはとけながらなどかつららのむすぼほるらむ

とのたまへど、ただ「むむ」とうち笑ひて、いと口重げなるもいとほしければ、出でたまひぬ。

 御車寄せたる中門の、いといたうゆがみよろぼひて、夜目にこそ、しるきながらも、よろづ隠ろへたること多かりけれ、いとあはれにさびしく荒れまどへるに、松の雪のみあたたかげに降りつめる、山里の心地してものあはれなるを、かの人々の言ひし葎の門は、かうやうなる所なりけむかし、げに心苦しくらうたげならん人をここにすゑて、うしろめたう恋しと思はばや。あるまじきもの思ひは、それに紛れなむかしと、思ふやうなる住み処にあはぬ御ありさまは、とるべき方なしと思ひながら、我ならぬ人は、まして見忍びてむや、わがかうて見馴れけるは、故親王のうしろめたしとたぐへおきたまひけむ魂のしるべなめりとぞ、思さるる。

 橘の木の埋もれたる、御随身召して払はせたまふ。うらやみ顔に、松の木のおのれ起きかへりて、さとこぼるる雪も、「名にたつ末の」と見ゆるなどを、いと深からずとも、なだらかなるほどに、あひしらはむ人もがなと見たまふ。御車出づべき門は、まだ開けざりければ、鍵の預り尋ね出でたれば、翁のいといみじきぞ出で来たる。むすめにや、孫にや、はしたなる大きさの女の、衣は雪にあひて煤けまどひ、寒しと思へる気色ふかうて、あやしきものに、火をただほのかに入れて袖ぐくみに持たり。翁、門をえ開けやらねば、寄りてひき助くる、いとかたくななり。御供の人寄りてぞ開けつる。

 「ふりにける頭の雪を見る人もおとらずぬらす朝の袖かな

幼き者は形蔽れず」

とうち誦じたまひても、鼻の色に出でて、いと寒しと見えつる御面影、ふと思ひ出でられて、ほほ笑まれたまふ。頭中将にこれを見せたらむ時、いかなることをよそへ言はむ、常にうかがひ来れば、いま見つけられなむと、すべなう思す。世の常なるほどの、ことなる事なさならば思ひ棄ててもやみぬべきを、さだかに見たまひて後は、なかなかあはれにいみじくてまめやかなるさまに、常におとづれたまふ。

 黒貂の皮ならぬ絹綾綿など、老人どもの着るべき物のたぐひ、かの翁のためまで上下思しやりて、奉りたまふ。かやうのまめやか事も恥づかしげならぬを、心やすく、さる方の後見にてはぐくまむと思ほしとりて、さまことにさならぬうちとけわざもしたまひけり。

 「かの空蝉の、うちとけたりし宵の側目には、いとわろかりし容貌ざまなれど、もてなしに隠されて口惜しうはあらざりきかし。劣るべきほどの人なりやは。げに品にもよらぬわざなりけり。心ばせのなだらかにねたげなりしを、負けてやみにしかな」と、もののをりごとには思し出づ。


(註釈)
1 秘色
 ・【ひそく】中国の越の国で生産された高温で焼かれた青磁の器。唐代から宋代に書けて、宮廷用に使われ、民間の使用が禁じられたため、このように呼ばれる。天皇の食事を盛るために使われた。末摘花の没落した旧家をうかがえる。

2 褶
 ・下級の女房が身につけた腰布。

3 櫛おしたれてさしたる
 ・「插し櫛」は装飾のことである。食事を支給する女房は、插し櫛をした。没落しても、常陸の宮家としての体裁は失っていない。

4 内教坊
 ・舞姫が舞を習う場所。

5 内侍所
 ・神鏡御鎮座の所。

6 普賢菩薩の乗物
 ・普賢菩薩乗大白象。鼻如紅蓮華色。『観音賢経』

7 ゆるし色
 ・誰でも着用できた衣服の色。淡い紅色か、紫色。

8 黒貂
 ・【ふるき】はクロテンで、その毛皮はとても貴重だった。

9 儀式官
 ・儀式や典礼を司る役人。

10 名にたつ末の
 ・わが袖は名に立つ末の松山か空より波の越えぬ日はなし 『後撰』恋二、土佐。

11 幼き者は形蔽れず
 ・「夜深煙花尽。霧雪白粉々。幼者形不蔽。老者体無温。悲喘与寒気。併入鼻中辛」『白氏文集奏中吟』

末摘花の帖 三 ゲンジの君と中将の勝負。ゲンジ、末摘花に逢う

(現代語訳)
 ゲンジの君と頭中将は、さっきの琴の音を思い出した。あの粗末な住処も、別世界のようで心に焼き付いている。頭中将に至っては「もし、あんな場所に、凄い可憐な女が寂しく何年も住んでいたとしよう。私と結ばれて好きになってしまう女だったとしたら、私は恋に溺れて、世間からとやかく言われるかもしれない。それもまずいな」などと妄想する始末だ。「ゲンジの君が、あれほど夢中になって通うのだから、このままでは済まされないだろう」と、嫉妬にも似た胸騒ぎさえ感じるのだった。

 その後、当然ながら、ゲンジの君も頭中将も恋文攻撃をしたのは言うまでもない。しかし、二人に返事は届かなかった。納得できずに頭中将は「あんまりだ。あんなボロ屋に済んでいる女は、非力な草花や、変わりやすい空模様に自分を重ねて、思いやりのある返事をするものだ。いくら宮家の末裔だと言っても、こんなに寝惚けている女は駄目だ」と腹を立てている。中将は、同士のゲンジの君には、隠し事などしなかったので、

 「ボロ屋の君から返事が来たかい? 試しに私も簡単な手紙を送ったのだが、宙ぶらりんだ。放って置かれたままだよ」

などと心外に思って訴える。ゲンジの君は「やはり、この女たらしは言い寄ったな」と可笑しくなって、

 「さあね。別に返事を見たいとも思ってないから、見たかどうか」

と済まして答えた。頭中将は「私は仕分けられたのか」とはらわたが煮えくり返った。ゲンジの君は、深追いする来もなかったし、ここまで放置されたので白けていた。しかし、頭中将が、こうして求愛している今となっては「しつこく言い寄った方に女もなびくだろう。そうなってから、得意げに、先に言い寄った私を捨てたような態度をされたら、たまったもんじゃない」と思って、タイフの命婦を呼んで熱心に根まわしをした。

 「あの姫君が意地悪に、私を突き放すから、悔しいんだ。きっと私のことを変態だと勘違いしているんだろう。私には不純な心など持っていないのだ。相手の女の方が辛抱できず不本意なことも起きて、わけもなく私が悪者にされるんだ。おっとりとした感じで、余計なお世話や、いんねんを吹っ掛ける親兄弟がいない、人なつっこい女がいたら、私は大切にするというのに」

などとゲンジの君は饒舌になった。タイフの命婦は、

 「どうかしら。そうんな優雅な雨宿り先には値しないでしょう。ただ恥ずかしがっているだけで、世にも希な小心者ですから」

と事実をありのままに伝えた。

 「不器用で控えめな人なのだろう。子供のように無邪気な人も、私は好きなのだ」

とゲンジの君は夕顔の君を思い出して言った。そのままゲンジの君は、例の熱病に悩まされ、人には言えない恋の悩みに気を取られて落ち着かないまま、季節だけは春から夏へ。夏も終わろうとしている。

 季節は秋。ゲンジの君は静かに考え事などをして、あの布を叩く音が煩く聞こえたことを思い出し、夕顔の君を恋しく思った。常陸宮の姫君には、何度も手紙を届けたのだが、なしのつぶてだった。「常識外れな仕打ち」だと頭に来るのだが、このまま撃退されるのは沽券に関わるのだった。仕方ないので、ゲンジの君はタイフの命婦に八つ当たりする。

 「あの人は何を考えているのだ。私は今まで、こんなに非道い仕打ちに合ったことはない」

と頭に血が上っているので、タイフの命婦も不憫に思い、

 「あたしは、不似合いな縁だなんて余計なことは何一つ言ってません。あの方は何を言っても必要以上に恥ずかしがってしまう性格だから、それで返事ができないんだと思うんです」

と言い訳すると、

 「世間知らずにも程がある。物心つかない子供じゃあるまいし。面倒な親がいて、自分の好き勝手にできないのだったら、こうして恥ずかしがってもいられようが、もう、自分で何でも判断できるだろうに。私はわけもなく寂しいんだ。同情してもらいたかったんだ。返事をくれたら、それだけで幸せなんだ。私は嫌らしいことを考えているんじゃない。ただ、あの荒れ果てた縁側でつろぎたいだけなんだよ。このまま引き下がれないんだから、あの姫君が嫌がるなら秘密工作してくれ。早まって淫らなことをしたりしないから安心してほしい」

などとゲンジの君は淫らなことをするつもりなのだった。

 ゲンジの君は世界中の女の話を、何気なく聞いているようにみえて、実は巧みに情報管理する習慣を身につけていた。タイフの命婦は、寂しい夜を紛らわそうと、何となく「こんな人が」と言っただけなのに、まさかここまで執着するとは思っていなかった。命婦は「ややこしいことになった」と思うのだが、後の祭りだ。姫君にしても、ゲンジの君と釣り合うところが全くないのだった。「こんな縁組みを手引きして、むしろ姫君を不幸に沈める結果になるのではないだろうか」と不安にもなるのだが、逆上せているゲンジの君を無視するのも、どうかと思うのだった。常陸宮が存命の頃でさえ、忘れ去られた宮だと世間に言われて、訪ねる人も無かったのに、今では雑草を踏み分けて来る物好きは誰もいない。そんな家に、世間に光渡るゲンジの君から手紙が届いたのだから、若い女官たちは微笑みながら「お返事しなくてはいけません」と促すのだった。しかし、この姫君は不吉なまでに恥ずかしがり屋だったので、執拗なまでに手紙を読もうとしなかった。

 タイフの命婦は「ええい、面倒だ。時を見計らって、物越に話でもさせよう。ゲンジの君のお気に召さなくても構わない。縁があって通うようになっても知ったこっちゃない。誰も文句は言わないだろう」と、ふしだらな女に相応しい結論を出したのだった。姫君の兄である父親に報告すらしない。

 八月二十日過ぎのことである。夜が更けるまで月が浮かばず、星だけが白々しく光っていた。松林に吹き寄せる風の音が寂しい。姫君は昔を思い出して泣いているのであった。タイフの命婦が「今夜しかない」と手引きしたのだろう。ゲンジの君は隠密でやって来たのだった。

 やっと浮かんだ月が、荒れ果てた垣根を照らすので、姫君が薄気味悪く眺めていると、琴を進められた。そっと掻き鳴らすのが、そう悪くはない。それでも「もう少し今っぽく、気取らない弾き方だったら」と男好きなタイフの命婦にはじれったいのだった。人目のない屋敷なので、ゲンジの君は簡単に侵入に成功し、タイフの命婦を呼んだ。タイフの命婦は、今初めて知ったような驚き顔を演じて、

 「大変なことになりました。ゲンジの君が来たのです。いつも返事が来ないと根に持っていましたので、一方的に私が手引きするわけには行きませんと断り続けたら『自分で直接話すから、もうよい』って言うのです。なんて返事をしましょうか。いい加減な気持ちで、こんなことをする身分の人ではないですから、胸が痛みます。物越しでも構いませんから、お話しをお聞きになって下さい」

と姫君に言うのだった。姫君は大げさに恥ずかしがって、

 「殿方とお話しする方法を知らないのです」

と奥の方へ逃げていくのが初々しく見える。タイフの命婦は、笑いながら、

 「なんて子供みたいなことを。いけませんわ。どんなに身分が高い方でも、親に保護されている間なら、そんな子供じみたことも言えましょう。こんなに貧乏な生活をしているのに、まだ世間を怖がって逃げてばかりいたら、大間違いです」

と説教する。姫君は、人の言うことに刃向かえないほどの小心者なので、

 「返事をしないでいいんだったら、ここで、窓を下ろして聞いてもいいわ」

と観念したのだった。

 「縁側では失礼ですよ。決して強引に襲ってくることはありませんから。大丈夫です」

とタイフの命婦は言いくるめ、隣の部屋との間にある襖を、手ずから強く閉ざした。隣の部屋には、ゲンジの君の席を用意する。姫君は、恥ずかしくていたたまれないのだが。ゲンジの君のような人と会話するなど、夢にも想像していなかったので、タイフの命婦が言ったことを鵜呑みにして神妙な顔をしている。

 姫君のメノトは老人なので、部屋に籠もって眠そうにしている時間だ。若い二、三人の女官は、世間を騒がす男の姿を見たくて仕方ないので、はしゃぎ合っている。晴着を着せられ、身繕いされた姫君は放心状態で、魂はどこか別の場所にあるのだった。

 この男の見た目は、非の打ち所のない完璧なものなのだが、目立たぬよう、用心している様子も、ずいぶんと美しい。命婦は「見てわかる人に見せたいものね。こんな荒ら屋じゃ見栄えも何もあったもんじゃないから可哀想」と思うのだが、とぼけた感じの姫君なので、余計なことはしないだろうと安心しているのだった。ただ「私がいつもゲンジの君に責められるのと引き替えに、この可哀想な姫君を不幸のどん底に突き落とすことになったらどうしよう」と不安でもあったのだ。

 ゲンジの君は、姫君の身分を察しているので「線香花火みたいに気取った女よりも、格段に感じがよい」と思っているのだった。姫君が、誰かに引っ張られて近寄ってくると、着物に燻らせた香の香りが微かに漂う。飾り気のない女の気配がするので、ゲンジの君は、「思ったとおりだ」と確信した。いつものように「ずっと好きだった」という想いなどを、真摯に伝えるのだが、手紙の返事もしない人が、目の前で口を開くわけがなかったのだった。ゲンジの君は「もうお手上げです」と途方に暮れる。

 「いつだってあなたは沈黙するだけで 何も言うなと言わないだけで

 せめて、何も言うなと言ってください。生殺しは非道いです」

とゲンジの君が言う。姫君のメノトの娘で、侍従というお転婆若い女官が、見るに見かねて近寄って返事をする。

 鐘をつき終わりにするのは寂しくて答えられない不思議な気持ち

声を若作りして、極力堅苦しくなく、代理人だと思われないように芝居をする。ゲンジの君は、この姫君にしては蓮っ葉な気がしたのだが、初めて口をきいたのが珍しく、

 「そんなことを言われたら、私も何も言えません。

 言葉にはできない心と知りつつも無言でいるのは苦しいばかり」

 ゲンジの君は、いくつもの当たり障りのない話を、おどけたり、真面目な顔をして話してみるのだが、糠に釘だった。どう考えても理解できず「この姫君は変態か。何か怪しい信念を持っている人なのだろうか」と不快に思って、襖を押し開けて侵入してしまうのだった。タイフの命婦は「非道い。私を油断させておいたのね」と、姫君を可哀想に思ったので、知らん顔をして自分お部屋に逃げた。周りの若い女官も、ゲンジの君がこの世の人とは思えない美しさを噂で聞いていたから、撃退するわけにもいかず、大声で騒ぐこともなかった。ただ、この突然の乱入に、姫君が何の覚悟もしていないのが心配なのだ。この姫君はというと、恥ずかしさに混乱して穴があったら入ろうとしている。ゲンジの君は「初めてなのだから、これぐらいの方が可愛い。まだ何も知らないのだろう。大切に可愛がられたお姫様なのだから」と寛容だ。しかし、何かすっきりしない違和感を感じた。とても運命の人ではないと結論が出て、がっかりしたまま、夜更けのうちに退散するのだった。タイフの命婦は、どうなったか心配なので聞き耳を立てたまま、天上を見つめて目をギラギラさせていた。それでも、我関せずを決め込んだほうが良いと思って「お見送りをしましょう」などとは言わないのだった。ゲンジの君も逃げるように出て行った。

 ゲンジの君は、二条院に戻って寝そべりながら「世の中は甘くないな」と思い続けるのだった。あの姫君の身分を考えると、このまま放っておくわけにもいかず、悩みの種から芽が生えた。双葉が開いて蕾が出る頃に、頭中将がやってきた。

 「ずいぶんな朝帰りだね。まあ理由があるんだろうけど」

と言うので、ゲンジの君は飛び起きた。

 「のんきな独り寝だからね。つい寝坊をしてしまったよ。後宮から来たのかい」

とゲンジの君は誤魔化すのだった。

 「そうさ。後宮から出てきたばっかりだよ。今日は、朱雀院の行幸の演奏者や舞人を決める日だ。昨日の夜に話があったので、父上に伝言しに来たんだ。すぐ後宮に戻らないと」

と頭中将は忙しそうだ。ゲンジの君は「ならば一緒に行こう」と、粥や蒸し飯を持ってこさせて頭中将と食べた。車を二台列にして引き出したが、二人は一台に同乗する。頭中将は「まだ、ずいぶん眠そうじゃないか」と茶化して「ずいぶんと隠し事が多そうだ」と執念深い。

 この日、後宮では決定事項が多くあって、ゲンジの君は缶詰になった。ゲンジの君は「あの姫君に、後朝の手紙だけも送らないと」と不憫に思って、送った手紙は夕方になった。雨が降り出して、ゲンジの君は、面倒くさくなったのだろうか、タイフの命婦が言ったように、とても今夜は雨宿りする気分にはなれないようだ。あの荒ら屋では、後朝の手紙の手紙を待ちわびて、時間だけが無常に過ぎた。タイフの命婦は「痛々しくて見ていられない」と泣けてくるのだった。姫君に至っては、心の中に恥ずかしさが充満しているだけで、後朝の手紙などは知ったことではなく思考停止している。

 「夕霧の晴れぬあなたに降る雨が雲を広げて視界を閉ざす

 いつ雲の切れ間が見えるのかと歯がゆいのです」

という手紙がゲンジの君から届いた。「どうやら今夜は来ないらしい」と女官たちは悲しむのだが「返事だけは書いてください」と言いくるめるのだった。姫君は混乱が酷くなるばかりなので、決まり切った歌さえも作れない。「もう夜も遅いので」と、侍従の女官がこの前のように代作した。

 雨の夜に月を待ってる人がいる同じ心で見つめなくても

という歌を、皆から「自分で書いてください」と執拗に言われた。姫君は、風化して紫色が褪せ、灰色になった古い紙に、しっかりとした中古の書体で書く。文字の上と下を揃えて散らすことのない厳めしい筆跡だった。これを見たゲンジの君は、開いた口が塞がらず、そのまま捨ててしまうのだった。

 ゲンジの君は「あの姫君は何を考えているのだろうか」と思うと、恐ろしくなった。「これを、後悔と言わずして、何と言おう。しかし、後悔先に立たずとはよく言ったものだ。私が見捨てずに面倒をみるしかない」と諦めているのだった。そんなことも知らずに、あの荒ら屋の人々は途方に暮れている。

 夜になって、左大臣後宮を後にするのに連れられて、ゲンジの君が左大臣家にやって来た。朱雀院の行幸がもっぱらの話題で、貴公子たちが集まると話が尽きない。各自が舞の稽古に明け暮れ、あっという間に時間が過ぎていった。楽器の音が普段よりも高らかと互いに競争するように鳴り響いている。普通の演奏会とは違って、大きな篳篥の笛、尺八の笛の音が爆音を轟かせている。貴公子たちは、太鼓持ちが持つ太鼓までも、縁側の欄干に転がし、自分で叩き鳴らして遊ぶ始末だった。

 ゲンジの君は多忙で、どうしても逢いたい所には無理にでも時間を作って密通したが、あの荒ら屋には近寄らないまま秋が終わった。それでも、万が一と頼りにしていた、常陸宮家の人々の思いは空中分解したのだった。


(原文)
 君たちは、ありつる琴の音を思し出でて、あはれげなりつる住まひのさまなども、様変へてをかしう思ひつづけ、あらましごとに、いとをかしうらうたき人の、さて年月を重ねゐたらむ時、見そめていみじう心苦しくは、人にももて騒がるばかりやわが心もさまあしからむなどさへ、中将は思ひけり。この君の、かう気色ばみ歩きたまふを、まさにさては過ぐしたまひてむやと、なまねたうあやふがりけり。

その後、こなたかなたより、文などやりたまふべし。いづれも返り事見えず。おぼつかなく心やましきに、あまりうたてもあるかな。さやうなる住まひする人は、もの思ひ知りたる気色、はかなき木草、空のけしきにつけても、とりなしなどして、心ばせ推しはからるるをりをりあらむこそあはれなるべけれ。重しとても、いとかうあまり埋れたらむは、心づきなくわるびたりと、中将はまいて心いられしけり。例の隔てきこえたまはぬ心にて、

 「しかじかの返り事は見たまふや。こころみにかすめたりしこそ、はしたなくてやみにしか」

と愁ふれば、「さればよ。言ひ寄りにけるをや」とほほ笑まれて、

 「いさ。見むとしも思はねばにや、見るとしもなし」

と答へたまふを、人分きしけると思ふに、いとねたし。君は、深うしも思はぬことの、かう情なきを、すさまじく思ひなりたまひにしかど、かうこの中将の言ひ歩きけるを、言多く言ひ馴れたらむ方にぞなびかむかし。したり顔にて、もとの事を思ひ放ちたらむ気色こそ愁はしかるべけれと思して、命婦を、まめやかに語らたまふ。

 「おぼつかなくもて離れたる御気色なむ、いと心うき。すきずきしき方に、疑ひよせたまふにこそあらめ。さりとも、短き心ばへつかはぬものを。人の心ののどやかなることなくて、思はずにのみあるになむ、おのづからわがあやまちにもなりぬべき。心のどかにて、親兄弟のもてあつかひ恨むるもなう、心やすからむ人は、なかなかなむらうたかるべきを」

とのたまへば、

 「いでや、さやうにをかしき方の御笠宿には、えしもやと、つきなげにこそ見えはべれ。ひとへにものづつみし、ひき入りたる方はしも、あり難うものしたまふ人になむ」

と、見るありさま語りきこゆ。

 「らうらうじうかどめきたる心はなきなめり。いと児めかしう、おほどかならむこそ、らうたくはあるべけれ」

と思し忘れずのたまふ。瘧病にわづらひたまひ、人知れぬもの思ひのまぎれも、御心のいとまなきやうにて、春夏過ぎぬ。

 秋のころほひ、静かに思しつづけて、かの砧の音も、耳につきて聞きにくかりしさへ、恋しう思し出でらるるままに、常陸の宮にはしばしば聞こえたまへど、なほおぼつかなうのみあれば、世づかず心やましう、負けてはやまじの御心さへ添ひて、命婦を責めたまふ。

 「いかなるやうぞ。いとかかることこそまだ知らね」

と、いとものしと思ひてのたまへば、いとほしと思ひて、

 「もて離れて、似げなき御事とも、おもむけはべらず。ただおほかたの御ものづつみのわりなきに、手をえさし出でたまはぬとなむ見たまふる」

と聞こゆれば、

 「それこそは世づかぬことなれ。もの思ひ知るまじきほど、ひとり身をえ心にまかせぬほどこそ、さやうにかかやかしきもことわりなれ、何ごとも思ひしづまりたまへらむと思ふこそ。そこはかとなく、つれづれに心細うのみおぼゆるを、同じ心に答へたまはむは、願ひかなふ心地なむすべき。何やかやと、世づける筋ならで、その荒れたる簀子にたたずままほしきなり。いとうたて心得ぬ心地するを、かの御ゆるしなくともたばかれかし。心いられし、うたてあるもてなしには、よもあらじ」

など、語らひたまふ。

 なほ、世にある人のありさまを、おほかたなるやうにて聞きあつめ、耳とどめたまふ癖のつきたまへるを、さうざうしき宵居など、はかなきついでに、さる人こそとばかり聞こえ出でたりしに、かくわざとがましうのたまひわたれば、なまわづらはしく、女君の御ありさまも、世づかはしく、よしめきなどもあらぬを、なかなかなる導きに、いとほしきことや見えむなむど思ひけれど、君のかうまめやかにのたまふに、聞き入れざらむもひがひがしかるべし。父親王おはしけるをりにだに、古りにたるあたりとて、音なひきこゆる人もなかりけるを、まして今は、浅茅分くる人もあと絶えたるに、かく世にめづらしき御けはひの漏りにほひくるをば、生女ばらなども笑みまけて、「なほ聞こえたまへ」とそそのかしたてまつれど、あさましうものづつみしたまふ心にて、ひたぶるに見も入れたまはぬなりけり。

 命婦は、さらば、さりぬべからんをりに、物越しに聞こえたまはむほど御心につかずは、さてもやみねかし、またさるべきにて、仮にもおはし通はむを、咎めたまふべき人なしなど、あだめきたるはやり心はうち思ひて、父君にも、かかることなども言はざりけり。

 八月二十余日、宵過ぐるまで待たるる月の心もとなきに、星の光ばかりさやけく、松の梢吹く風の音心細くて、いにしへのこと語り出でて、うち泣きなどしたまふ。いとよきをりかなと思ひて、御消息や聞こえつらむ、例のいと忍びておはしたり。

 月やうやう出でて、荒れたる籬のほどうとましく、うちながめたまふに、琴そそのかされて、ほのかに掻き鳴らしたまふほど、けしうはあらず。すこしけ近う、今めきたるけをつけばやとぞ、乱れたる心には心もとなく思ひゐたる。人目しなき所なれば、心やすく入りたまふ。命婦を呼ばせたまふ。今しも驚き顔に、

 「いとかたはらいたきわざかな。しかじかこそおはしましたなれ。常にかう恨みきこえたまふを、心にかなはぬよしをのみ、いなびきこえはべれば、『みづからことわりも聞こえ知らせむ』とのたまひわたるなり。いかが聞こえかへさむ。並々のたはやすき御ふるまひならねば、心苦しきを、物越しにて、聞こえたまはむこと聞こしめせ」

と言へば、いと恥づかしと思ひて、

 「人にもの聞こえむやうも知らぬを」

とて奥ざまへゐざり入りたまふさま、いとうひうひしげなり。うち笑ひて、

 「いと若々しうおはしますこそ心苦しけれ。限りなき人も、親などおはしてあつかひ後見きこえたまふほどこそ、若びたまふもことわりなれ、かばかり心細き御ありさまに、なほ世を尽きせず思し憚るは、つきなうこそ」

と教へきこゆ。さすがに、人の言ふことは強うもいなびぬ御心にて、

 「答へきこえで、ただ聞けとあらば、格子など鎖してはありなむ」

とのたまふ。

 「簀子などは便なうはべりなむ。おしたちて、あはあはしき御心などは、よも」

など、いとよく言ひなして、二間の際なる障子、手づからいと強く鎖して、御褥うち置きひきつくろふ。いとつつましげに思したれど、かやうの人にもの言ふらむ心ばへなども、ゆめに知りたまはざりければ、命婦のかう言ふを、あるやうこそはと思ひてものしたまふ。

 乳母だつ老人などは、曹司に入り臥して、タまどひしたるほどなり。若き人二三人あるは、世にめでられたまふ御ありさまを、ゆかしきものに思ひきこえて、心げさうしあへり。よろしき御衣奉りかへ、つくろひきこゆれば、正身は、何の心げさうもなくておはす。

 男は、いと尽きせぬ御さまを、うち忍び用意したまへる御けはひ、いみじうなまめきて、「見知らむ人にこそ見せめ、はえあるまじきわたりを。あないとほし」と、命婦は思へど、ただおほどかにものしたまふをぞ、うしろやすうさし過ぎたることは見えたてまつりたまはじと思ひける。わが常に責められたてまつる罪避りごとに、心苦しき人の御もの思ひや出で来むなど、やすからず思ひゐたり。

 君は人の御ほどを思せば、ざれくつがへる、今様のよしばみよりは、こよなう奥ゆかしうと思さるるに、いたうそそのかされて、ゐざり寄りたまへるけはひ、しのびやかに、えひの香いとなつかしう薫り出でて、おほどかなるを、さればよと思す。年ごろ思ひわたるさまなど、いとよくのたまひつづくれど、まして近き御答へは絶えてなし。わりなのわざやと、うち嘆きたまふ。

 「いくそたび君がしじまに負けぬらんものな言ひそといはぬたのみに

 のたまひも棄ててよかし。玉だすき苦し」

とのたまふ。女君の御乳母子、侍従とて、はやりかなる若人、いと心もとなう、かたはらいたしと思ひて、さし寄りて聞こゆ。

 鐘つきてとぢめむことはさすがにてこたへまうきぞかつはあやなき

いと若びたる声の、ことにおもりかならぬを、人づてにはあらぬやうに聞こえなせば、ほどよりはあまえてと聞きたまへど、めづらしきが、

 「なかなか口ふたがるわざかな。

 いはぬをもいふにまさると知りながらおしこめたるは苦しかりけり」

 何やかやとはかなきことなれど、をかしきさまにも、まめやかにも、のたまへど、何のかひなし。いとかかるも、さま変り、思ふ方ことにものしたまふ人にやと、ねたくて、やをら押し開けて入りたまひにけり。命婦、あなうたて、たゆめたまへる、といとほしければ、知らず顔にてわが方へ往にけり。この若人ども、はた世にたぐひなき御ありさまの音聞きに、罪ゆるしきこえて、おどろおどろしうも嘆かれず、ただ思ひもよらずにはかにて、さる御心もなきをぞ思ひける。正身は、ただ我にもあらず、恥づかしくつつましきよりほかのことまたなければ、今はかかるぞあはれなるかし、まだ世馴れぬ人のうちかしづかれたると、見ゆるしたまふものから、心得ずなまいとほしとおぼゆる御さまなり。何ごとにつけてかは御心のとまらむ、うちうめかれて、夜深う出でたまひぬ。命婦は、いかならむと目覚めて聞き臥せりけれど、知り顔ならじとて、御送りにとも声づくらず。君も、やをら忍びて出でたまひにけり。

 二条院におはして、うち臥したまひても、なほ思ふにかなひがたき世にこそと思しつづけて、かるらかならぬ人の御ほどを、心苦しとぞ思しける。思ひ乱れておはするに、頭中将おはして、

 「こよなき御朝寝かな。ゆゑあらむかしとこそ思ひたまへらるれ」

と言へば、起き上りたまひて、

 「心やすき独り寝の床にてゆるびにけりや。内裏よりか」

とのたまへば、

 「しか。まかではべるままなり。朱雀院の行幸、今日なむ、楽人、舞人定めらるべきよし、昨夜うけたまはりしを、大臣にも伝へ申さむとてなむ、まかではべる。やがて帰り参りぬべうはべり」

と、いそがしげなれば、「さらば、もろともに」とて、御粥強飯召して、まらうとにもまゐりたまひて、引きつづけたれど、ひとつにたてまつりて、「なほいとねぶたげなり」と、とがめ出でつつ、「隠いたまふこと多かり」とぞ恨みきこえたまふ。

 事ども多く定めらるる日にて、内裏にさぶらひ暮らしたまひつ。かしこには、文をだにといとほしく思し出でて、タつ方ぞありける。雨降り出でて、ところせくもあるに、笠宿せむとはた思されずやありけむ。かしこには、待つほど過ぎて、命婦も、いといとほしき御さまかなと、心うく思ひけり。正身は、御心の中に恥づかしう思ひたまひて、今朝の御文の暮れぬれど、なかなか、咎とも思ひわきたまはざりけり。

 「夕霧のはるる気色もまだ見ぬにいぶせさそふる宵の雨かな

 雲間待ち出でむほど、いかに心もとなう」

とあり。おはしますまじき御気色を、人々胸つぶれて思へど、「なほ聞こえさせたまへ」と、そそのかしあへれど、いとど思ひ乱れたまへるほどにて、え型のやうにもつづけたまはねば、「夜更けぬ」とて、侍従ぞ例の教へきこゆる。

 晴れぬ夜の月まつ里をおもひやれおなじ心にながめせずとも

口々に責められて、紫の紙の、年経にければ灰おくれ古めいたるに、手はさすがに文字強う、中さだの筋にて、上下ひとしく書いたまへり。見るかひなううち置きたまふ。

 いかに思ふらんと、思ひやるもやすからず。かかることをくやしなどはいふにやあらむ、さりとていかがはせむ、我はさりとも心長く見はててむと、思しなす御心を知らねば、かしこにはいみじうぞ嘆いたまひける。

 大臣、夜に入りてまかでたまふに、ひかれたてまつりて、大殿におはしましぬ。行幸のことを興ありと思ほして、君たち集まりてのたまひ、おのおの舞ども習ひたまふを、そのころの事にて過ぎゆく。物の音ども、常よりも耳かしがましくて、方々いどみつつ、例の御遊びならず、大篳篥、尺八の笛などの、大声を吹きあげつつ、太鼓をさへ、高欄のもとにまろばし寄せて、手づからうち鳴らし、遊びおはさうず。

 御いとまなきやうにて、せちに思す所ばかりにこそ、ぬすまはれたまへ、かのわたりには、いとおぼつかなくて、秋暮れはてぬ。なほ頼みこしかひなくて過ぎゆく。


(註釈)
1 笠宿
 ・妹が門、せなが門、行き過ぎかねて、や、わが行かば、肱笠の肱笠の、雨もや降らなん、しどり、笠やどり、やどりてまからん、しでたをさ 『催馬楽』「妹之門」

2 砧の音
 ・夕顔(六 http://genji-m.com/?p=1023)参照

3 えびの香
 ・衣を薫らせるための香。栴檀を材料とした。

4 玉だすき
 ・どっちつかず。「ことならば思はずとやは言ひはてぬぞ世の中の玉だすきなる」古今、諧謔歌、読み人知らず。

5 鐘つきてとぢめむこと
 ・口を閉じて何も言わない。拒絶する。鐘は、読経の終わりに突く鐘を指す。

6 中さだ
 ・中古風の筆跡。藤原行成よりも前の、草仮名で、小野同風、藤原佐理などが書いた書体。

末摘花の帖 二 頭中将の尾行、中務の恋

(現代語訳)
 今夜は、他に密通する場所があるのだろうか。ゲンジの君は、そわそわと帰ろうとする。

 「ミカドが、ゲンジの君は堅物で困る、と勘違いして心配しているから、あたしは可笑しくて。まさか、こんな不純な夜歩きをしているなんて知らないでしょうから」

とタイフの命婦が冷やかすので、ゲンジの君は微笑みながら引き返して、

 「命婦、お前までそんなことを言うのか。今夜のことを不純だと言うなら、お前の恋愛は何と呼ぶんだい」

と嫌味を言うのだった。ゲンジの君は、淫らな女だと思って、このようなことをよく言うので、タイフの命婦は恥ずかしく、何も言い返せない。

 母屋の方へ行けば、姫君の様子がわかるかも知れないと思って、ゲンジの君は忍び寄った。竹を結んだ垣根だろうか、ボロボロになって少し残っているその陰にへばりつこうとすると、そこには先客がいたのだった。「誰だろう。この姫君に欲情している変質者だろうか」と自分のことを棚に上げて、暗闇に身を隠した。その人影は頭中将だったのだ。

 今日の夕方、二人は後宮を一緒に後にしたのだが、ゲンジの君は、左大臣家にも行かず、二条院にも帰らなかった。途中で行方をくらまそうとするので、頭中将は「あやしい。どこへ行くのか」と、自分も行くところがあったのを、そっちのけにしてまで尾行したのだった。貧弱な馬に乗って、汚らしい普段着に変装して来たので、ゲンジの君は気がつかなかったのだ。頭中将は、ゲンジの君が、とんでもないボロ屋に入っていたので、理解に苦しんでいるうちに、琴の音が聞こえてきた。聞き惚れて佇みながら、ゲンジの君が引き上げるのを待ち構えていたのだった。ゲンジの君は、誰だかわからずに、自分の正体を知られたらまずいと、抜き足差し足、庭を脱出しようとしたとたんに、男が近づいてくる。

 「そこの変態、私を撒きましたね。癪にさわったので、迎えに来ましたよ。

 道連れに夜空に浮かんだはずなのに十六夜う月は何処へ消えたか」

と毒舌なのが鼻持ちならないが、頭中将だとわかって、ゲンジの君は、笑ってしまった。「面白いことをしてくれるね」と舌打ちしながら、一首詠んで、

 「その月はあまねく大地を照らすもの月の行方を探してくれるな

 こうやって尾行されたら、どうするでしょうか? あなたって言う人は」

と言うのだった。

 「良いことを教えましょう。夜這とは、連れて行く家来の活躍が重要です。これからは私にご用命下され。夜歩きは何かと危険がつきものですね」

と頭中将も負けずに箴言めいたことを言う。ゲンジの君は、今回の失態を悔しく思うが、あの撫子と呼ばれた夕顔の娘を、頭中将は未だ見つけじまいだと思えば、自分も負けてないと自尊心が慰められるのだった。二人とも密通する場所があったが、ここで別れるのは気まずいのだった。二人は一台の車に乗って、ふわふわと雲に隠れる月の夜道を、笛の合奏をしながら、左大臣家へと向かった。

 先払いの声もさせずに、こっそり入って、頭中将は、人気のない廊下で直衣に着替えた。何ごともなかったように、ゲンジの君の所へ来たような振りをして、笛を吹き合わせていると、左大臣が聞きつけて、横笛を持ってきた。ゲンジの君は、この楽器が得意なので見事な演奏を疲労する。簾の向こうでも、琴が登場し、腕に覚えのある女官が弾き鳴らす。

 中務の君という女官は琵琶の名手だ。けれども、頭中将が言い寄るのを無視して、気まぐれにゲンジの君に優しくされるのが忘れられない。ゲンジの君との噂が自然と広がって、アオイの母君も「恥知らず」と腹を立てている。中務は、その場に居づらい気まずさに、寂しそうに壁に寄りかかっていた。遠い場所に消えてしまいたいが、もうゲンジの君の姿を見ることができないと思うと悲しくて、息ができなくなるのだった。


(原文)
 また契りたまへる方やあらむ、いと忍びて帰りたまふ。

 「上の、まめにおはしますと、もてなやみきこえさせたまふこそをかしう思うたまへらるるをりをりはべれ。かやうの御やつれ姿を、いかでかは御覧じつけむ」

と聞こゆれば、たち返り、うち笑ひて、

 「こと人の言はむやうに、咎なあらはされそ。これをあだあだしきふるまひと言はば、女のありさま苦しからむ」

とのたまへば、あまり色めいたりと思して、をりをりかうのたまふを、恥づかしと思ひて、ものも言はず。

 寝殿の方に、人のけはひ聞くやうもやと思して、やをら立ちのきたまふ。透垣のただすこし折れ残りたる隠れの方に、立ち寄りたまふに、もとより立てる男ありけり。誰ならむ、心かけたるすき者ありけりと思して、蔭につきてたち隠れたまへば、頭中将なりけり。

 この夕つ方、内裏よりもろともにまかでたまひける、やがて大殿にも寄らず、二条院にもあらで、引き別れたまひけるを、いづちならむと、ただならで、我も行く方あれど、あとにつきてうかがひけり。あやしき馬に、狩衣姿のないがしろにて来ければ、え知りたまはぬに、さすがに、かう異方に入りたまひぬれば、心も得ず思ひけるほどに、物の音に聞きついて立てるに、帰りや出でたまふと、した待つなりけり。君は、誰ともえ見分きたまはで、我と知られじと、ぬき足に歩みのきたまふに、ふと寄りて、

 「ふり捨てさせたまへるつらさに、御送り仕うまつりつるは。

 もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月」

と恨むるも、ねたけれど、この君と見たまふに、すこしをかしうなりぬ。「人の思ひよらぬことよ」と憎む憎む、

 里分かぬかげをば見れど行く月のいるさの山を誰かたづぬる

 「かう慕ひ歩かば、いかにせさせたまはむ」

と聞こえたまふ。

 「まことは、かやうの御歩きには、随身からこそはかばかしきこともあるべけれ、後らさせたまはでこそあらめ。やつれたる御歩きは、かるがるしきことも出で来なむ」

とおし返し諌めたてまつる。かうのみ見つけらるるを、ねたしと思せど、かの撫子はえ尋ね知らぬを、重き功に、御心の中に思し出づ。おのおの契れる方にも、あまえて、え行き別れたまはず、一つ車に乗りて、月のをかしきほどに雲隠れたる道のほど、笛吹きあはせて大殿におはしぬ。

 前駆なども追はせたまはず、忍び入りて、人見ぬ廊に、御直衣ども召して着かへたまふ。つれなう今来るやうにて、御笛ども吹きすさびておはすれば、大臣、例の聞き過ぐしたまはで、高麗笛とり出でたまへり。いと上手におはすれば、いとおもしろう吹きたまふ。御琴召して、内にも、この方に心得たる人々に弾かせたまふ。

 中務の君、わざと琵琶は弾けど、頭の君心かけたるをもて離れて、ただこのたまさかなる御気色のなつかしきをば、え背ききこえぬに、おのづから隠れなくて、大宮なども、よろしからず思しなりたれば、もの思はしくはしたなき心地して、すさまじげに寄り臥したり。絶えて見たてまつらぬ所にかけ離れなむも、さすがに心細く、思ひ乱れたり。


(註釈)
1 撫子
 ・頭中将と夕顔の子。のちの「玉鬘」である。

末摘花の帖 一 十六夜の琴

(現代語訳)
 ゲンジの君は、何度思い出してもあの夕顔の露のように儚く逝った人を忘れられない。年月を経ても悲しく思った。どこを見渡しても気取った面倒な女たちが、互いに牽制し合っているだけなのである。あの無邪気な夕顔を、懐かしく、かけがえのない人だったと思うのだった。

 そういうわけで、ゲンジの君は「なんとかして、ややこしい身分でなく、ただ可愛いだけの心を許せる女を見つけなくては」と相変わらず、どうしようもないことを考えているのだった。少しでも良いという評判のある女は、もれなく情報収集してあるので、その中から可能性のありそうなのを選別して、少し手紙のやりとりをしているようだ。その手紙を見た女は、誘惑に負けて滅多に拒みもしないので、ゲンジの君は馬鹿馬鹿しくなってくる。たまに強情なのがいても、それはカマトトか嫌味な女なのだった。ゲンジの君を相手に身の程知らずのようだが、そのまま意地を張り続けることもできずに、尻尾を巻いてつまらない男と結ばれるのが関の山である。ゲンジの君は深追いする気にもなれなかった。

 ゲンジの君は、あの空蝉をときどき歯がゆく思い出す。軒端の荻にも風に誘われて便りをすることがあった。あのときの灯りの影でだらしなく碁を打っていた姿を、今一度、覗きたいと思う。この男は過去に関わった女を忘れることができない性格なのだった。

 左右衛門の乳母と言う、ゲンジの君にとっては、コレミツの母親の大弐の乳母に次ぐ大切な乳母がいた。その人の娘が、後宮で働いており、タイフの命婦と呼ばれている。タイフの命婦は帝の血筋である、兵部タイフの娘だ。とても男にだらしない若い女官なのだが、ゲンジの君も後宮にいるときは身の回りの世話をさせている。彼女の母親の左右衛門の乳母が、筑前守の妻になって九州に下ってしまったので、父親の兵部タイフの家を里にして後宮勤めしているのだった。「兵部タイフの父親だった亡き常陸親王が晩節を汚して儲けた娘を猫かわいがりしていたのだが、親王に先立たれて寂しく暮らしている」という話を、タイフの命婦が、何かのついでに、ゲンジの君に教えた。ゲンジの君は「かわいそうに」と言って、助平心が沸き立つのだった。

 「性格や見た目とか、詳しいことは知らないのです。目立たない人で、誰とも会いたがらないから、たまに仕切り布をはさんで話すだけなんです。琴が一番の友達みたい」

とタイフの命婦が言うので、ゲンジの君は「琴、詩、酒は三つの友だと白楽天も言っていたね。酒だけは、女の友には良くないが」と茶化しながら、

 「その琴の音を私に聴かせて欲しい。父宮は音楽にうるさい人だったからね。ひとかどの腕前とだろう」

と興味津々なのだった。

 「そこまで期待して聴く価値があるかしら」

と思わせぶりにタイフの命婦が言うので、

 「ずいぶんと焦らすじゃないか。最近は朧月夜も浮かんでいるからね。隠密で訪ねようじゃないか。君も一緒に行こう」

とゲンジの君は、その気になってしまったのだった。タイフの命婦は「面倒な事になった」と思いながらも、ある晴れた春の日に、後宮ものどかなので祖父の家に出かけた。

 父のタイフの君は、ここには住んでいない。それでも、タイフの命婦は時々祖父の家にやってくる。なぜなら父君の家には継母がいるのが気に食わないので、彼女は祖母の家に里帰りするのだった。

 ゲンジの君が言ったように、いざよう月が気持ちよさそうに浮かんでいる夜、ゲンジの君がやってくる。

 「物の音が綺麗にうねりそうもない夜ですのに。困りました」

とタイフの命婦は言うのだが、ゲンジの君は、

 「いいから、あっちへ行って、ほんの少しでも弾いてくれるよう頼んできてくれ。このまま手ぶらで帰るわけにはいかないからね」

と強引なのだった。タイフの命婦は、ゲンジの君を、こんな場所に放置しておくのも申し訳なく、もったいなくも思い、姫君のいる建物へ向かった。姫君は跳ね上げ窓を開けて、梅が匂い立つ庭を見つめていた。お誂え向きだと、

 「こんな夜には琴の音が冴えるんじゃないかと、居ても立ってもいられず伺いました。いつも落ち着きなくお伺いしていたから、聴かせて頂けなかったのが残念でしたの」

と唆す、

 「あなたのような本当の琴の音を知る人がいますのに。畏れ多い後宮に仕える人にお聴かせする腕前ではありません」

と言いながらも琴を持って来させるのだった。タイフの命婦は、ゲンジの君が、どんな気持ちで聴くのだろうかと思って、人ごとながら胸騒ぎがする。姫君がそっと琴を掻き鳴らすと、余韻が響く。たいした腕前ではないが、楽器が奏でる音に特別な印象があったので、ゲンジの君は、気にならなかった。「こんな荒廃した寂しい場所に、これほどの身分の女が、かつての父君が古風に箱に詰めて育てられた面影もなく暮らしているとは。どんなに辛酸をなめていることだろうか。昔話で事件が起こるのはこんな場所だろう」などとゲンジの君は邪推した。接近してみようかと思うのだが、軽薄すぎるような気がして思い留まった。タイフの命婦は察しの良い人なので、ゲンジの君にこれ以上琴を聴かせるのは良くないと思って、

 「曇ってきました。そういえばお客さんが来るはずだったのですが、わざと留守にしたと思われるのも良くないので。またゆっくりと聴かせて下さい。さあ、扉を閉めましょう」

と、それ以上琴を弾かせずに戻ったので、

 「これからだったのに。あれだけでは腕前も聴き分けられないじゃないか。忍びない」

とゲンジの君が言う。興味を持ったのだろう。

 「どうせなら、もっと近くで聴かせて欲しい」

とゲンジの君は頼み込むのだが、タイフの命婦は、ほどほどにしておきたかったのだ。

 「それはいけません。とても静かに消えそうになって可哀想に暮らしているんですよ。これ以上は無理です」

とタイフの命婦が言うと、ゲンジの君も「そうだろう」と同情した。「出会ってすぐに尻尾を振るのは犬だからな」と思いながらも、この姫君は可哀想に思われて「私のことを何となく伝えておいてくれ」と言うのだった。


(原文)
 思へども、なほあかざりし夕顔の露に後れし心地を、年月経れど思し忘れず、ここもかしこもうちとけぬかぎりの、気色ばみ心深き方の御いどましさに、け近くうちとけたりし、あはれに、似るものなう恋しく思ほえたまふ。

 いかで、ことごとしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人の、つつましきことなからむ、見つけてしがなと、懲りずまに思しわたれば、すこしゆゑづきて聞こゆるわたりは、御耳とどめたまはぬ隈なきに、さてもやと思し寄るばかりのけはひあるあたりにこそ、一くだりをもほのめかしたまふめるに、なびききこえずもて離れたるは、をさをさあるまじきぞ、いと目馴れたるや。つれなう心強きは、たとしへなう情おくるるまめやかさなど、あまりもののほど知らぬやうに、さてしも過ぐしはてず、なごりなくくづほれて、なほなほしき方に定まりなどするもあれば、のたまひさしつるも、多かりけり。

 かの空蝉を、もののをりをりには、ねたう思し出づ。荻の葉も、さりぬべき風の便りある時は、おどろかしたまふをりもあるべし。灯影の乱れたりしさまは、またさやうにても見まほしく思す。おほかた、なごりなきもの忘れをぞ、えしたまはざりける。

左衛門の乳母とて、大弐のさしつぎにおぼいたるがむすめ、大輔命婦とて、内裏にさぶらふ。わかむどほりの兵部大輔なるむすめなりけり。いといたう色好める若人にてありけるを、君も召し使ひなどしたまふ。母は筑前守の妻にて下りにければ、父君のもとを里にて行き通ふ。故常陸親王の、末にまうけていみじうかなしうかしづきたまひし御むすめ、心細くて残りゐたるを、もののついでに語りきこえければ、「あはれのことや」とて、御心とどめて問ひ聞きたまふ。

 「心ばへ容貌など、深き方はえ知りはべらず。かいひそめ、人うとうもてなしたまへば、さべき宵など、物越しにてぞ語らひはべる。琴をぞなつかしき語らひ人と思へる」

 と聞こゆれば、「三つの友にて、いま一くさやうたてあらむ」とて、

 「我に聞かせよ。父親王の、さやうの方にいとよしづきてものしたまうければ、おしなべての手づかひにはあらじとなむ思ふ」

と、語らひたまふ。

 「さやうに聞こしめすばかりにはあらずやはべらむ」

と言へば、御心とまるばかり聞こえなすを、

 「いたう気色ばましや。このごろのおぼろ月夜に忍びてものせむ。まかでよ」

とのたまへば、わづらはしと思へど、内裏わたりものどやかなる春のつれづれにまかでぬ。

 父の大輔の君は、ほかにぞ住みける。ここには時々ぞ通ひける。命婦は、継母のあたりは住みもつかず、姫君の御あたりを睦びて、ここには来るなりけり。

 のたまひしもしるく、十六夜の月をかしきほどにおはしたり。

 「いとかたはらいたきわざかな。物の音すむべき夜のさまにもはべらざめるに」

と聞こゆれど、

 「なほあなたに渡りて、ただ一声ももよほしきこえよ。空しくて帰らむが、ねたかるべきを」

とのたまへば、うちとけたる住み処にすゑたてまつりて、うしろめたうかたじけなしと思へど、寝殿に参りたれば、まだ格子もさながら、梅の香をかしきを見出だしてものしたまふ。よきをりかなと思ひて、

 「御琴の音いかにまさりはべらむ、と思ひたまへらるる夜の気色にさそはれはべりてなむ。心あわたたしき出で入りに、えうけたまはらぬこそ口惜しけれ」

と言へば、

 「聞き知る人こそあなれ、ももしきに行きかふ人の聞くばかりやは」

とて、召し寄するも、あいなう、いかが聞きたまはむと、胸つぶる。ほのかに掻き鳴らしたまふ。をかしう聞こゆ。なにばかり深き手ならねど、物の音がらの筋ことなるものなれば、聞きにくくも思されず。いといたう荒れわたりて、さびしき所に、さばかりの人の、古めかしう、ところせく、かしずきすゑたりけむなごりなく、いかに思ほし残すことなからむ、かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなる事どももありけれなど、思ひつづけても、ものや言ひ寄らましと思せど、うちつけにや思さむと、心恥づかしくて、やすらひたまふ。命婦かどある者にて、いたう耳ならさせたてまつらじと思ひければ、

 「曇りがちにはべるめり。まらうとの来むとはべりつる。いとひ顔にもこそ。いま心のどかにを。御格子まゐりなむ」

とて、いたうもそそのかさで、帰りたれば、

 「なかなかなるほどにてもやみぬるかな。もの聞き分くほどにもあらで、ねたう」

とのたまふ。気色をかしと思したり。

 「同じくは、けぢかきほどの立ち聞きせさせよ」

とのたまへど、心にくくてと思へば、

 「いでや、いとかすかなるありさまに思ひ消えて、心苦しげにものしたまふめるを、うしろめたきさまにや」

と言へば、げにさもあること、にはかに、我も人も、うちとけて語らふべき人の際は際とこそあれなど、あはれに思さるる人の御ほどなれば、「なほ、さやうの気色をほのめかせ」と語らひたまふ。


(註釈)
1 三つの友
 ・『白氏文集』巻二十九、北窓三友において、琴・詩・酒を「三友」としている。「いま一種」は酒のこと。